82 零の異変
三十分ほどほったらかしにされたのち、ミトが持ってきた着替えを手にお風呂場を借りることができた。
真夜中とはいえ、さすがにこの状態で公道を歩きたくない。
汚れた体をお湯で洗い、借りた服に袖を通した。真新しい下着とTシャツにスウェット。不思議なことに下着は私にぴったりのサイズだった。スウェットは少しゆったりとしたレディスのもの。普段零が使っているものなのだろうか。それともこういう家には、来客用に下着まで用意されているのだろうか。
「二階へ来てくれ」
ミトは私を一階の居間ではなく、二階のやたらと広い寝室へ案内した。他人の寝室に足を踏み入れるのに躊躇はあったが、あんなことがあったばかりだ。零を一人にするわけにはいかないということだろう。私も一人にはなりたくないので、ついていくしかなかった。
「年明けにこっちにきてから、おかしくなったんだ」
私がミネラルウォーターを半分ほど飲んだところで、ミトがつぶやいた。彼の視線の先には、裸のまま眠っている零がいた。薄い肌掛け布団をかけられているが、肩や両足がむき出して、かえって扇情的だった。
「なんつーか、別人になっちまったというか……どんどん俺が知ってる零じゃなくなっていったというか……」
別に興味ないんだけどと思ったが、そう言うわけにもいかず、適当に返事をした。
「そう。どんな子だったの?」
「んー、そうだな、ヒネくれてて性格悪くて……人が溺れてたら、助ける前に木の棒でつついて遊ぶ、そんな奴だ」
「それは……性格悪そうね」
どういう例えだ、と思ったが、そう言うだけにとどめておいた。
ミトが言う通りなら、確かに別人だ。女を武器に男に甘え、自分では何もできないご令嬢。それが私の零に対する印象だ。溺れている人を見たら「助けてあげて」と、自分では何もせずに人にやらせ、感謝だけは受け取る、そんな嫌な女。
ふと──
月を背に立つ零が思い浮かんだ。
笑みを浮かべ、見下すように笑い、男の子のような口調で話す零。美しく響く声に、冷たい指先。そんな零をいつ見たのか、と記憶を探り、私は「あっ」と声を上げた。
「ん? どうした?」
「い、いいえ……なんでもない……」
忘れていた。今の今まで忘れていた。
あの公園で、夢の中で会った零は、ミトが言うような零ではなかったか?
それだけじゃない。
今日……もう昨日だけど、ここへ来る直前に、別の道へ進んだ私を止めたのもその零ではなかったか? 雨の中、傘もささずに私の前に立って、冷たい指で私に触れなかったか?
あの零は……なに?
私の夢? 幻覚? それにしては妙にリアルではないか?
「ん……」
眠っていた零が身じろぎし、可愛らしい声を漏らした。
ドキリ、としてベッドに目をやると、零が目を開けて、ぼんやりとした顔をしていた。
「おい零、大丈夫か?」
「ミ……ト……」
ミトが零を覗き込むように身を乗り出した。そんなミトを見て、零が微笑み、そっと手を伸ばしてミトの手に自分の手を重ねた。
「わたし……」
何かを言いかけて、ハッとした顔になった。零の目が私を捉え、みるみる不機嫌な顔になった。
「……何であの人がここにいるの?」
「ん? ああ、お前に会いに来たんだよ。そしたら、騒ぎに巻き込まれた」
「騒ぎ?」
ミトが一連の出来事を話して聞かせると、零は眉をひそめて考え込んだ。
「覚えていないのか?」
「なにも」
零はミトの問いに答えながら体を起こそうとし、自分が裸だということに気づいて「きゃっ」と可愛らしい悲鳴を上げた。
「ミ、ミト! 何で私裸なの!」
「だからお前、風呂場で倒れたんだって」
「もう、ばか、ばか!」
顔を真っ赤にして、慌てて掛け布団を体に巻き付けた。そうしてからミトの太い腕に抱きつくと、「出て行ってもらって!」と強い口調で告げた。
「ここ寝室よ! 他人が入っていい場所じゃないでしょ!」
「いや、だからな……」
「あなたも非常識です! すぐ出て行ってください!」
イラッときたが、零の言うことに分がある。逆の立場なら私も抗議したかもしれない。
もっとも、私ならもっと穏やかな言い方をしただろうが。
「ミトは……ミトは、私のものですからね!」
零が私を睨みつけた。抱きついたミトの腕に形の良い胸の膨らみを押し付けているのは、おそらくわざとだろう。
「おいバカ、そういうんじゃない、て言っただろ」
「バカ? 私がバカ? ミト、ひどい! 私はね……」
「すぐに出て行くから」
バカバカしい、と私は肩をすくめた。若い女のヒステリーは、見ていると本当にイライラする。そういえば学生にもこういう女の子がいるが、たいてい成績はひどいものだ。
「悪かったわね、どうぞミトさんとお幸せに」
私は、睨み付けてくる零に冷ややかな目を向け、鼻で笑いながら寝室を出た。
廊下に出て扉を閉めたときに、私はようやく思い当たった。
そうか、零は……あの子に似ているんだ、と。




