80 空っぽの男
ミトが玄関を開けて私を招き入れてくれた。
天井から闇が垂れ落ちてきた、二週間前の光景を思い出して身震いしたが、玄関ホールは明かりがついていた。私は恐る恐る足を踏み入れ、何も起こらないことにほっとした。
「おーい、零」
ミトが二階に向かって大声で呼びかけたが返事はない。
「あり? おかしいな」
「あ、あの……寝ているのなら、無理に起こさなくても……」
前回来た時に向けられた嫉妬の眼差しを思い出し、私はミトを止めた。会わないで済むのならそれに越したことはない。本来、よそ様の家を訪ねる時間ではないのだから、早々に辞することにしようと思った。
ぴちょん、と水音が聞こえたのは、そのときだった。
ゾクリ、と体が震えた。
忘れていた悪夢の記憶が一気に蘇ってきた。見てはダメだ、そちらを見てはダメだと本能が告げるが、どうしてもそちらを見てしまう。
闇に包まれたら、食われる。ハラワタを、精神を、私の全てを。見てはダメだ、決して見てはダメだ、そう思うのに、私の首はそちらへ回る。
「ん?」
私の視線に気づいて、ミトが一階の奥を見た。
ぺたり、ぺたり、と足音がする。その足音を聞いて私の中に恐怖が満ちていく。ミトが見つめる闇の向こうから、ゆっくりと足音が近づいてくる。
「や……いや……」
「……なんだお前?」
中年の、裸の男がいた。ミトの険しい声にうめき声で答え、ぺたり、ぺたりと近づいてくる。
返せ──返せ──
「おい、止まれや。お前一体……」
返せぇぇぇぇぇぇぇっ!
「おらぁっ!」
空っぽの男が叫ぶと闇がはじけた。それとほぼ同時に、ミトがいつの間にか手にしていた大きな木槌を振り回し、闇を打ち払った。
「問答無用、てか? 面白え」
空っぽの男が飛びかかってきた。ミトは舌打ちしつつ、容赦なく木槌を男に向かって振り抜く。
ドコォォォン、と大きな音がして、空っぽの男が弾き飛ばされた。
べちゃりっ、といやな音を立てて壁に打ち付けられた。男の殻が破れ、風船のように弾けたが、中からは何も飛び出さない。
「ひっ、ひぃぃぃっ!」
私の喉から悲鳴が飛び出した。
腰が抜けて、その場にへたり込んだ。ミトに打ち払われたはずの闇が、再び一つになって私に襲いかかってきた。
「伏せてろっ!」
ミトが私をかばって前に立ち、再び木槌を振るった。
ドコォォォン、という大きな音。闇が打ち払われ、ざざざぁっ、と散る音。伏せて目を閉じた私の耳にそんな音が聞こえた後、ぺたり、という不気味な音がまた聞こえた。
「ひぃっ……」
音につられて顔を上げて、後悔した。ほんの一メートルほど前に、四つん這いになった空っぽの男がいて、私を見つめて笑っていた。男の手が伸びてきて、私は絶叫を上げながら後ずさった。
「このっ!」
ミトが空っぽの男を木槌で叩き潰した。パァンッ、とはじける音がして、男の皮が飛び散る。びちゃり、と目の前に男の皮が落ちてきて、私は金切り声をあげていた。
返せ──返せ──
「ああん? 何を返せっていうんだ?」
私の前にあった男の皮をミトが踏み潰す。ジュッ、と焼けるような音がして皮が消える。気がつけばミトの体を青い光が覆っていて、襲い掛かってきた闇を青い光が焼き尽くしていた。
「ゾンビだか悪霊だか知らねえが、この俺の前に出てきたのが運の尽き」
ドン、ドン、ドン、と太鼓をたたくような音とともに、ミトが持っていた木槌が大きくなった。
「去ねや」
静かな、しかし断固とした言葉の後に、目にも留まらぬ速さで木槌が打ち付けられた。
ドゴォォォォン、と屋敷全体が揺れるような音とともに青い光が弾け、空っぽの男と男が纏う闇を一気に打ち払った。
すごい……
目の当たりにした光景に、私は恐怖を忘れ、畏怖を覚えた。
頭の中が真っ白になり──ココココッ、とあの音が聞こえてくる。
そして、記憶の奥底から、私がつぶやく。
初めて見た。
これが、小人族に伝わる秘宝「打出の小槌」の力なのか、と。




