77 行方不明の学生
「なんなの……一体……」
悪夢にうなされ飛び起きた私は、肩で息をしながら時計を見た。
午前四時五十分。カーテンの隙間からはもう朝日が差し込んでいた。まだそれほど暑い季節ではないのに、私の寝間着は寝汗でぐっしょりと濡れていて気持ち悪かった。
十分ほどでようやく気持ちが落ち着き、私は大きく深呼吸した。
悪夢を見る日が増えている。
その実感はあるけれど、対策の打ちようがない。何せ夢だ、コントロールできない。それに目を覚ました瞬間から悪夢の内容を忘れていき、十分もすると全く覚えていない。ただただ、殺される、食い尽くされる、その恐怖だけが残っている。
「はぁ……」
シャワーを浴びて汗を流すと、全身に残っていた気持ち悪さがなんとか拭えた。
朝五時半。
出かけるには早すぎる、かといってもう一度眠る気にもなれない。仕方なく、秋の学会に備えて関連論文に目を通すことにした。
そして、本棚に置きっぱなしの、一冊の本に気づいた。
『物理学概論』
物理学科に入ったばかりの学生に向けて書かれた、物理学の入門書だ。一般教養として読むにはやや高度、しかし物理学を学ぶ者なら基本的なことばかり。初版は三十年も前に書かれたものだが、分量や内容のバランスが秀逸で、多くの大学で入門書として指定されている名著だ。
私はその本を取り、背表紙を開いた。
宮田祐一。
几帳面な字で、持ち主であろう人物の名が書かれている。大学生にもなって持ち物に名前を書くか、と笑いたくもなるが、それだけこの本は彼にとって大切な物だったのだろう。
その本を、同じ「宮田」の姓を名乗る、あの美少女が持っていた。
「……どういう関係なんだろう」
五ヶ月前、羽田空港で彼女が忘れていった紙袋に入っていたこの本。空港職員にすぐに届けようと思ったけれど、彼女が立ち去って間もなく飛行機が搭乗手続きを開始し、バタバタとする中でつい失念してしまった。
そして、宿泊先のホテルで何気なく本を開いてこの名を見つけた時、ぞっとした。
内臓を全て失い、骨と皮だけになって見つかった彼。
そんな彼の名が記された本を持っていた、宮田零。
彼女が載っていた飛行機で現れたという、骨と皮だけの男の亡霊。
バカバカしい、と斬って捨てるには符合が合い過ぎている。はっきり言って気持ち悪い。しかもそんな彼女と、つい二週間前に再会してしまった。
果たしてただの偶然だろうか。
「ま、お互い会わなかったことにしましょうや」
あの夜、私を送ってくれたミトはそう言った。あの二人もどうやら訳ありらしい。こちらもあの夜のことはあまり思い出したくないから、忘れてしまうのが一番だ。
「……捨てよう」
市のゴミ収集に出して、万一誰かに見られたらまずい。近所のスーパーで、新聞紙や雑誌の回収をしているから、そこに紛れ込ませて捨ててしまえば大丈夫だろう。
私は本を新聞紙の束の横に置くと、コーヒーを入れ直し、論文の束に手を伸ばした。
スマホが鳴ったのは、その時だった。
まだ六時過ぎ。こんな時間に誰だろうと画面を見ると、武田教授の名が表示されていた。
『おはよう。朝早くにすまないね』
眠気など微塵も感じさせない声だった。いったい何事だろうかと思いつつ挨拶を返すと、彼がやや緊迫した声で告げた。
『二週間前から、うちの学生が行方不明になっているそうだ。朝一で会議をするので、早目に大学へ来て欲しい』
「行方不明、ですか?」
『ああ。それも一度に五人だ。状況次第では休講になるかもしれないよ』
私は息を呑み、硬い口調で了解した旨を答えて電話を切った。
行方不明の学生、全部で五人。
二週間前、私を襲いミトに叩きのめされた男たちと、同じ人数だった。




