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76 悪夢 - 溺死

 ──返せ……返せ……


 闇の底から声が聞こえる。やがて闇の中から、骨と皮だけの男が現れ、うつろな目をこちらに向けてくる。

 ズルリ、ズルリと這い寄ってくる。

 私の足をつかみ、そのままネチャネチャと這い上がってくる。


 ──返せ……私のものだ……返せ……返せ……


 大きくてたくましい体が、私の華奢な体を包み込む。

 だけど、軽い。

 グイと押せば、押したところが凹んだ。失われた内臓を取り戻そうとでも言うのか、下腹部に食らいついてくるが、柔らかすぎて私の殻を食い破れない。


 ──返せ……返せ……


 それでも男は恨みを吐き続ける。風船のような体に押し包まれた私は、めんどくさくなって男を押しのけ、足蹴にして侮蔑の言葉を吐く。


 あんなゴミ、もう捨てた。


 空っぽの男が猛り狂う。ゴミとはなんだ、と私につかみかかり、私はその場に押し倒される。


 ──返せ……返せぇぇぇぇ!


 男が呪詛を吐き出した。闇がドロリと溶け出して、私の体を包む。私の体は闇に縛り付けられ、闇は鼻や口、それから下腹部と、あらゆるところから私の中に入り込んできた。

 身動きできない。

 息ができない。

 体の中を闇が這い回り、食らわれていく。

 窒息し、酸素を求めてあがき悶えながら、体を食われる激痛にのたうちまわる。


 ごぼり、と吐き出した空気が気泡となった。


 気が付けばそこは暗い海の中で、私は冷たい海の底へと引き摺り込まれようとしていた。

 私は絶望していた。

 この命などゴミだと思い、ならばいっそ死んでしまおうと思った。そんな私をとらえた闇が、私を海の底へと引きずり込んでいく。

 冷たい。

 苦しい。

 生きていたくない。

 私はもう、生きていてはいけない。


 「ぐぼっ……」


 肺に海水が流れ込んでくる。苦しい、苦しい、苦しい。


 ──返せ。


 そんな私に、闇が絡みついてくる。死にゆく私を押し包み、私の心と体を食らっていく。

 何を返せというのか。

 私にはもう、何もない。

 この空っぽの私に、何を返せというのか。


 ──返せ。


 そんなに恨んでるの?


 途切れがちの意識の中、私は空っぽの男に問うた。空っぽの男が、私の問いにうなずいた気がした。


 なら、あなたも一緒に、生贄になったら?


 そう、生贄に。この海のどこかにいる悪霊に。残った全てを、ただの残りカスでしかないけれど、全てを捧げて恨みを晴らしてと乞うてみましょう。

 私は絡みつく空っぽの男を抱き締めた。

 ああ、と私は驚く。

 この男、知っている。かつて中味があった時に抱かれた感触が蘇る。この男の温かい思いを、私は冷たく抱き締めて受け入れ、最後に捨てた。


 ──返せ。


 私の腕の中で、空っぽの男が声を上げた。


 ああ、なんで私は……


 こみ上げる悔しさに歯を食いしばった時、私の意識は海水に飲み込まれた。


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