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72 闇の沼

 私は、ドロリとした闇の中へ沈んだ。

 頭まで闇の中に沈む。息ができない。苦しくてもがくと、闇がベトリとまとわりついてくる。全力で両手を動かしているつもりなのに、重くて思うように動かない。


 動け、動け、動け。


 ゴボリ、と息を吐き出すと闇が体の中に入り込んできた。息ができない、死んでしまう。必死であがいて、もがいて、それでもズブズブと闇の中に引きずり込まれていく。


 そんな私の中で、あの音が響く。


 ココココッ、と音が聞こえてきた途端、私の体は自由に動き始めた。あがいて、もがいて、やっとのことで闇から顔を出して息を吸う。


 月が見えた。


 ひゅーひゅーと、必死で息をする私を、冷たく光る月が見下ろしている。死にたくない、死んでたまるか、そんな思いで必死で両手を動かし、ドロリと粘り着く闇の中を泳いでいく。


 死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない。


 必死で両手を動かして泳ぐ私。しかしまた力尽き、闇に沈む。吐き出した息の代わりに闇が流れ込んできて、死んでしまうという苦しみの中、またあの音が響いてきて……



 ──トン、と肩を叩かれて、私は目を覚ました。


 「こんなところで寝ていたら、危ないよ」


 美しい声が聞こえた。私はその声に、ハッとなって顔を上げた。

 あの美少女が、目の前にいた。

 少し髪を伸ばしたのか、ショートヘアがボブカットぐらいになっていた。体のラインが浮かび上がるような、ぴったりとしたオフショルダーの長袖にデニムのショートパンツ姿。そんな、若い女の色香を全面的に押し出す格好で、月を背に私を見下ろしていた。


 「宮田……零……」


 私が呆然とつぶやくと、彼女はうっすらと目を細めた。

 妖しいその笑顔に、私は魅入られた。身動きひとつできない。息をすることすらできない。まるでメドゥーサに魅入られて石になってしまったかのようだった。


 「ふぅん」


 彼女の手がそっと私の頬に触れた。ひんやりと冷たい手だった。頬を撫で、人差し指で唇をなぞり、そのまま喉を伝って胸元へと降りていく。


 「僕に会いに来たの?」


 なぜだろう、彼女には「僕」という一人称が不思議と似合う気がした。

 彼の指が軽やかに動き、ブラウスのボタンが一つ外され、さらにもう一つ外され、露わになった胸の谷間に彼女の指が入ってくる。


 「……おっと、いけない」


 つい、と彼女の指が離れた。

 あ、と思うと同時に金縛りが解けた。彼女はかすかに笑うと、私に触れていた指を咥えた。

 ただそれだけの動作が、ひどく淫らで、妖しいまでに美しかった。


 「待って……」


 クルリと踵を返した彼女に、私は慌てて呼びかけた。だけど彼女は振り向きもせず、そのまま立ち去ってしまう。


 「待って。待って、宮田さん……待ちなさい、零さん!」


 私は追いかけようとして、また自分が金縛りになっていることに気づいた。どうあがいても動けない。私は何度も彼女の名を呼び、戻ってくるよう叫んだけれど、彼女はそのまま立ち去ってしまった。


 「ああもう! 待ちなさいというのに!」

 「こんなところで寝ていたら、危ないよ」


 見えなくなった彼女が、あの美しい声で私に告げる。


 「そろそろ、目を覚ました方がいいよ」


 え? と彼女の言葉に首を傾げたとき。

 ドン、と乱暴に肩を叩かれ、今度こそ私は目を覚ました。


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