39 入水
長い数秒間が過ぎ、ざぶん、と水音に包まれた。
死ななきゃ。早く死ななきゃ。
私の中に、そんな思いが生まれた。まるで強制されたような、死の強迫観念。生きていてはいけない、このまま死ななければならない。そんな呪いのような強い思いが両手両足を縛り付け、私はそのまま暗い水の底へと沈んでいった。
ああ、死ぬんだな、と思った。
ごぼり、と息を吐き出し、水を飲み込んだ。苦しくて、空気を求めて両手を伸ばしたが、手は水面にとどかず、私はそのまま沈んでいった。
意識がぼやけ、視界が霞む。
私は瞼を閉じ、死に誘われるままに沈んでいった──
──……
──…………
誰かに、呼ばれた。
死の世界を統べる何者かの呼び声だろうか。だとしたら死者の国にたどり着いたということだろうか。どうやら無事に死ねたらしい、と安堵したところで、頬を強く叩かれ、唇を塞がれた。
水で塞がれていた気管に空気が送り込まれてきた。二度、三度と送り込まれ、肺の中から水が押し出されると、発作のような咳が立て続けに起こった。
「ぐ……ぐほっ……ぐほっ、ぐほっ……」
ぼやけていた意識が急速に覚醒し、世界が色を取り戻した。
激しく咳き込んで、肺に入った水を吐き出した。死んだにしては苦しすぎた。いったい自分はどうなったのだろうと考え、しかし咳き込む苦しさに何も考えられなくなった。
「……えで! 大丈夫か!」
咳き込んでいると、大きな手が背中をさすった。呼び掛ける声の方へ視線を向けると、精悍な顔立ちをした逞しい男が、厳しい表情でこちらの顔をのぞき込んでいた。
「は……はや……と?」
僕が男の名を呼ぶと、彼はホッとした表情を浮かべた。
だがそれは一瞬だけのことで、すぐに厳しい表情に戻ると、僕の顔を両手でつかんで怒鳴りつけた。
「この、バカが! なぜ飛び込んだ! 死ぬ気か!」
「飛び……込む……?」
咳き込み続けているせいか、思考が乱れていた。僕はどうやら水に飛び込んだらしい。
なぜ、飛び込んだ?
いつ、どこから、どこへ?
さっぱり思い出せない。頭の中がぐちゃぐちゃで、考えがまとまらない。僕はいったい誰で、ここはどこで、なぜ水に飛び込んだのだろうか。
ようやく咳が収まり、呼吸を整えるべく深呼吸した。一回、二回、三回……四回目の深呼吸を終えたところで呼吸が落ち着き、それと同時に、太い二本の腕が僕を抱きしめた。
「あ……」
何かを言おうとして、言葉を発する前に、彼の唇で僕の唇を塞がれた。彼は、僕の体を締め上げるように抱きしめた。おかげでせっかく取り戻した呼吸ができなくなり、僕はまた窒息しそうになった。
「は……隼人……」
やっと唇が離れたとき、僕は酸欠でクラクラしていた。
「苦しい……息できない……」
「楓……」
僕が「隼人」と呼んだ男が、僕を「楓」と呼んだ。なんだろう、どうしてこんなにも懐かしいのだろう。その名をその声で呼ばれたのが本当に、本当に久しぶりな気がした。
ああ、だめだ。もうこらえきれない。
「この、バカが……」
「……ごめん……ごめんね、隼人」
気がつけば僕は涙をこぼし、隼人にすがりつくように抱きついて泣きじゃくっていた。




