38 断崖
波の音に誘われるように、私は夜の闇に紛れて海へ近づいていった。
午前三時。
冬の冷たさに満ちた闇の中、小さな懐中電灯の光を頼りに歩く。よく見えず、ゴツゴツとした足場につまずいてはバランスを崩した。でもこれ以上明るくしたら、巡回の人や監視カメラに捉えられ、すぐに警察やNPOの人が駆けつけてきてしまうだろう。
そうなったら終わりだ。説得され、連れ戻されたらこの決心は鈍る。自分のことだ、よくわかっている。私はそこまで意志の強い人間ではない。
そう、私は弱い。だからこそ、今夜、ここに来た。
南紀白浜の、三段壁。
断崖絶壁の景勝地であり、かつては熊野水軍の舟隠し場だった歴史のある場所だ。近年では恋人の聖地なんてものに認定されている、ロマンチックな場所でもある。
そして同時に、ここは自殺の名所としても有名だった。
「これで、終われる……」
足場の悪い地をなんとか歩き切り、私はほっと息を吐いた。
夜の闇の向こうにある海を思い、私はじわりと涙を浮かべた。六十メートルの高さから落ちればまず助からない。潮の流れが早いから飛び込んでしまえば浮かび上がれないとも聞く。あと数歩前へ進めば、私の人生は終わり、ひょっとしたら誰にも気づかれないままとなるかもしれない。
「飛び込むのかい?」
不意に、背後から声がかけられた。若い男性の声に、私はビクリと震えて振り向いた。
夜の闇の中、うっすらと見えたのは大きな男の人だった。横倒しにした大きな木槌の上で、あぐらをかいて座っていた。まるで気づかなかった、ずっとここにいたのだろうか。
「あ、あの、わ……私、は……」
私は海の方へと、一歩後退した。自殺を思いとどまらせるために活動しているという、NPOの人かもしれない。私は死ぬのだ、ここで説得されて、思いとどまりたくはない。
そんな私を見て、男が少し首を傾げたように見えた。
「なら、お願いがあるんだが」
「お願……い?」
死ぬのを思い止まれとでも言われるのだろうか、と私は身構えた。
「あんたが着ている、服をくれ」
死んだら無用だろ、と男は真面目な声で言った。予想外の言葉だった。確かに男が言う通りだが、それはつまり、ここで裸になれということだ。
「そうなるな。ま、裸の方が身元が特定されにくくていいだろ?」
「あなた……誰?」
「これから死ぬやつに名乗ってもね」
漫画の悪役のようなセリフを吐いた後、男は肩を揺らして笑った。
「ま、冥土の土産に名乗ってやるか。三代目一寸法師さ」
「三代目……一寸法師?」
「訳あって、悪霊の付き人をしていてね。そいつが多分裸で戻ってくるんだよ。年恰好似てるし、ちょうどいい。あんたの服をくれ」
「私が死ぬの……止めないの?」
「あん? 止めて欲しいのか?」
男の問いに、私は首を振った。
私は、心から愛した。私の人生全てを捧げて愛した。それなのにあの人は、私を弄び、全てを奪った挙句、ゴミのように捨てた。
あんな人を愛した自分が馬鹿だった。もう取り戻せない、もうやり直せない。私は、行き着くところまで行ってしまった。もう生きていたくない。
「お、サンキュ」
私は身につけていたもの全てを脱ぎ、男に渡した。冬の凍てつく空気にさらされて、私の体はたちまち凍えて震えた。
「あなた……悪霊の付き人なのよね?」
「そうだぞ。……お、Dカップか。これはいらんか?」
あいつスットンだし、と失礼なことをつぶやく男。どうやらもう私には興味がないらしい。
「ねえ……その悪霊、強い?」
「あん?」
服をたたんでいた男が、また私に視線を向けてくれた。
「服もあげるけど……私も生贄に捧げるから……私の恨みを晴らして、て言ったら聞いてくれるかな?」
「……さて、どうかな。あいつ弱いし」
弱いのか、と私はがっかりした。
「ま、頼んでみればいい」
「どうやって?」
「海のその辺を漂ってるから、飛び込んでみな。たぶん会えるだろ」
男は断崖の向こうの海を指差した。
「漂ってる……どうして?」
「なんていうか……修行中、てとこだ」
そう、と私は振り向いた。
断崖の遥か下に、黒く広がる海がある。そこに漂う悪霊にこの身を捧げたら、恨みを晴らしてくれるのだろうか。
バカみたい、と私は笑った。
悪霊なんているわけがない。そんなものにすがろうとする自分だから、こんなに落ちぶれた。死ぬ直前になってまでそんなことを考えるなんて。ああ、本当に私は、生きていても仕方のない人間だった。
冬の風に、体が凍てつき、心も凍り。
私は、断崖に身を躍らせた。




