32 少彦名命
「まるで私なら相手にできると言わんばかりだな」
「まあね」
階段に立つ男が零を見下ろしながら嘲笑した。その嘲笑に、零は冷笑で応える。
「蛾の化け物ごときに負けるんじゃ、僕も進退考えないとね」
「言うわ。芥虫ごとき存在が」
「古い言い方だなあ。ちゃんと現代風に、ゴキブリ、て言いなよ」
零が階段に立つ男に向かってゆっくりと歩き出した。この隙に逃げてしまいたいと思ったけど、車椅子のハンドルを大男が握っていて逃げられなかった。
「それに、そのゴキブリが食べたくて、のこのこやってきたんだろ?」
零は歩きながら両手を広げた。
「かつて神々が珍味として食らった僕を、お前も味わってみたいんだろ? 正直に言いなよ」
ククッと零が笑うと、男の顔が歪んだ。
「もっとも、君ごときにこの僕を食らえるかな? 少彦名命くん」
「痴れ者が!」
少彦名命、そう呼ばれた男は鋭い声を上げ、杖を零に向かって振り下ろした。
ブワッと風が生まれ、零に向かって叩きつけられる。零はとっさに身をかがめて踏ん張ったけれど、すぐに次の一撃が来て零を吹き飛ばした。
「かつて大国主命と国造りに携わったこの私が、貴様ごとき若造に遅れを取るものか!」
「……面白いことを言う」
零がククッと笑う。その笑いが癇に障ったのか、少彦名命はさらに杖を振り下ろして零を攻撃した。
ブワッ、ブワッ、と風が生まれ、零を吹き飛ばす。踏ん張りきれず、避けようと横に飛んだところで風を叩きつけられ、零はあっさり吹き飛ばされて民家の壁に激突した。
「あーあ、飛ばされてやんの」
それを見て大男が、さも可笑しそうに笑う。風の余波はこちらにも来ていたけど、それは大男が軽く腕を振るだけでかき消され、私にはそよ風すら届かなかった。
「相変わらず弱いなあ、零」
「うるさい」
ニヤニヤ笑う大男に吐き捨てるように言うと、零は立ち上がり少彦名命に向かって走り出した。
だけど、また風を叩きつけられて吹き飛ばされた。
「おーい、代わろうか?」
「うるさい、て言ってるだろ! 黙って見てろ!」
「へーい」
「なんじゃ、口先だけか」
少彦名命も失笑し、それまでの嘲笑から憐れみへと表情を変え、大きく嘆息した。
「まったく、この程度のやつを、なぜ天上の神々は滅せんのか……解せん」
「偉そうに語るのは、僕を倒してからにしなよ」
零がまた少彦名命に向かって駆け出し、そして同じように吹き飛ばされた。もはや少彦名命は本気を出す気もないようで、何度も駆け寄ろうとしてくる零を作業のように繰り返し吹き飛ばし続けた。
「まっこと、ゴキブリよの。しつこいしつこい」
「……うるさいよ。蛾のコスプレ野郎が」
呆れて笑う少彦名命に、口だけは達者に言い返す零。だけど何度も吹き飛ばされた零はボロボロだった。
「……助けなくていいの?」
私は震えながら大男を見上げた。零が怖い。このまま倒された方がいい、と本能的に感じている。だけど、ここまで一方的にやられているのを見ると、なんだかかわいそうになってきた。
「あん? なんで?」
だけど大男の口調はあっさりしたものだ。助ける気はないらしい。
「零……殺されちゃうよ?」
「ああ、そりゃ無理だ」
私が絞り出した声に、大男はそう答えてゲラゲラ笑う。
「あれは死なねえよ。そもそも、生きていないからな」




