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第3話

 いつもより早めに仕事を切り上げ、レオルプは屋敷に戻った。仕事中も海兎のことを考え、落ち着かなかった。評議会への報告は執事に任せてしまったが、自分で行けば良かったと後悔もした。ほんの少しでも評議員の心証を良くすることは出来たはずだ。


 海兎は、どうしているだろう。何を話せばいいか思い付かなかったが、ひとまず顔を見ておきたいという衝動に駆られた。


「お帰りなさいませ」


 いつも出迎えてくれる召使いとは明らかに違う声が、二階から響いた。その鮮やかな刺繍が施された衣装は、忘れもしない、亡き母が普段着として着用していたものだった。


 そこには、頭から足の先までプリンシアの衣装に身を包んだ海兎の姿があった。着こなしも自然で、気になる点があるとすれば、金色にも見える山吹色の瞳くらいか。髪は帽子で隠せるので、遠目にはプリンシアの民と見まがうことだろう。いや、レオルプは母と見まがった。背格好が、ちょうど同じなのだ。だから、驚きを隠せなかった。


 レオルプは、海兎が階段を駆け下りてくるまで唖然と立ち尽くした。


「その格好」


「服が汚れていたので、召使いの方が洗ってくださったのです」


 海兎が嬉しそうな笑みを浮かべた。その笑顔が、母の面影と重なった。顔立ちは全く似ていないのに。母も、無邪気に笑う人だった。


「それは、母上が着ていたものだ」


 動揺しているという自覚はレオルプにもあった。それを気付かれまいとするが、軽妙な言葉は思い付かなかった。似合っている、と言えばいいのだろうか。しばらく思いを巡らせていたら、なんとなく逸機して何も言えなかった。


 レオルプの言葉を噛み砕くまで少しの間を置いてから、海兎の顔が青ざめていった。


「ごめんなさい。すぐに脱ぎます。私に合う服がこれしかないと伺ったので――」


「いや、そういうつもりで言ったわけでは、ない。気にしなくていい。本当に。もし、君さえ気に入ってくれたなら、その衣装を貰って欲しい」


「宜しいのですか?」


「ああ」


 それにしても、誰が海兎に母の衣装を着せたのだろうか。


「レオルプ」


 威厳のある低い声が、波のように広がった。レオルプの父でもあるプリンシア王が、ゆっくりと階段を下りてくる。


「父上、今日はお早いのですね」


「珍しい来客と聞いて、早々に切り上げてきた。夕餉は海兎殿も交えよう」


 確かに珍しい来客ではあるが、多忙な王が仕事を差し置いてまで接待するほどの相手ではない。海兎が間諜である可能性が否定されたわけでもないのだ。


 しかし、父の嬉々とした様子を見るに、海兎の来訪を心から喜んでいるかのようだ。


「父上、どういうおつもりですか。まさか、母上の衣装も父上が?」


「不服か?」


「いえ、そういうわけではありません。ただ――」


 意外だった。


「海兎殿は旧知だ。其方が生まれる前からの」


「冗談はやめてください」


「私が冗談を言うように見えるか?」


「珍しくはありません」


「ならば、私が見ず知らずの旅人に妻の形見を与えたりすると思うか?」


「それは――」


 言われてみれば、その通りだ。しかし、そんなはずがない。海兎は、どう見ても十五、六歳。いくら年を誤魔化しても二十歳は超えていないだろう。ならば、生まれたばかりの海兎を知っているという意味か。


「海兎殿は長い時間を眠って過ごす。短ければ一冬。長いときには何年も。国境の結界は、そもそも海兎殿が張ったものだ。そのとき海兎殿から教えを受けた退魔師は、疾うに亡くなっているが」


 父が、海兎の肩を優しく抱いた。その父を見つめる海兎の眼差しは、どこか懐かしそうでもある。


 二人を見ていると、父の言葉に偽りがあるようには見えない。もし、父の言葉が本当なら、海兎はプリンシアに安寧をもたらした救世主ということになるが。


「その話を信じてもいいのですか?」


「いかんな」


「は?」


 レオルプは訝ったが、父の顔は真剣そのものだった。


「信じるのではなく、見極めろ、と言っているだろう。王になるために必要なことだ。私が明日倒れたら、なんとする? 其方は何を頼りに国をまとめていくつもりだ?」


 いずれ王になるとしても、まだ先のことだと思っていた。頑健な父のことだ、あと二十年は大丈夫だろう、と。だから、レオルプは父の側で少しずつ仕事を覚えていけばいい、というくらいにしか考えていなかった。現実感が、ない。


「私には、まだ荷が重いようです」


「重くても背負え。其方が背負わねば国が割れる。内乱だけは絶対にあってはならんのだ」


「理屈は分かりますが、その、なんというか、感覚が伴いません」


「なぜだか分かるか?」


「いいえ」


「それは、己を知らぬからだ。尤も、其方の年で己を知っている者などおらんだろうが」


 父の柔和な表情が、小難しい話が終わったことを告げている。いつも唐突に小難しい話をする父だった。


 レオルプは大きく息をついた。夕餉か。海兎を見遣ると、優しげな微笑みが返ってきた。釣られてレオルプも頬を緩ませたが、同時に重大なことも思い出した。


「評議会が海兎を取り調べることになっているのですが」


「報告したのか」


「はい」


「律儀というか、相変わらず堅苦しい奴だな」


「父上とは違うので」


「其方には多くを背負わせているが、その律儀さは下ろしてもいい荷だ。まあ、良い。明日にでも私から手を回しておこう」


「お願いします」


 レオルプは、やっと肩の荷が下りたような気がした。そして、やっと夕餉だ。空腹も思い出した。

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