明けない夜はない、ただ時を待つだけ
それは彼女が運命を変える日だった。
彼女が所属する看護学校でもハロウィン前日の今日から学校祭が始まっていた。
しかし彼女、皆藤茜はどのサークルにも所属していなく、クラスでも模擬店を出さないことにしていたので、店番という義務もなく、学校に来る必要もなかったが、彼女がとっている授業のレポート提出のために、わざわざ人がごった返している中、大学に来ていた。
大学祭という非日常という空間だからなのか、それともハロウィン前日だからなのかわからなかったが、やたらとコスプレをしている人が多く、それも魔女やら狼男やらハロウィンを連想する衣装を着ている人が多い。
そんな大衆など彼女は目もくれずに目的の建物に入っていく茜はどこか、すべてをあきらめているような雰囲気も見受けられた。
目的を達成した茜は思ったよりも早く用事が済んだので、店を冷やかしにいくかそのまま帰ろうか悩んだが、結局、ほとんど人気のない建物内を見て回ることにした。
いつもは学生たちでごった返している講義棟だが、今はほとんどが屋外に出払っていてスカスカだ。今ここにいるのはこの建物内で出店している人か、学校祭の運営委員しかいない。
そんながらんどうな建物を歩いていると、ある一室に掲げられた看板に茜は惹かれた。
『香りと占いの店』
これもハロウィンを意識してオレンジと紫を基調としているデザインだったけれど、そんなことは関係なかった。
もちろん茜には香水をつけるという習慣もないし、占いを信じるという習慣もない。でも、なぜかそこには人を引き寄せる力を感じた彼女は、当初の目的――模擬店を冷やかす――ということを忘れてその世界に飛び込んだ。
その部屋の中にはこまごまとした装飾が丁寧に飾り付けられていて、部屋の一番奥では眼鏡をかけた青年が何かしきりに手を動かしている。彼はコスプレなのか、紺地の軍服をまとっていて、地味ではあるがそこがまたかっこよかった。しかし、人数が少ないはずの看護学校でその姿を見たことがなく、何者なのだろうかと思ったが、それ以上に彼が手を動かすたびにガラスがぶつかる音が心地よかった。
「いらっしゃいませ」
青年は茜の存在に気づくと、視線を彼女のほうに向けてまるで待ってましたと言わんばかりに微笑みかける。茜はその微笑みになにも言わず目の前にディスプレイされていたガラス瓶を一つ手に取り、キャップを取って香りをかぐ。
「ねぇ。この香り、本物なの?」
「どういう意味ですか?」
その香りを鑑賞した彼女は青年にそう尋ねると、不思議そうに問い返される。しかし、茜は彼の態度に怒ることなく、静かに問い返す。
「文字通りの意味。キンモクセイって書いてあるけど、あの花から抽出したのかなって」
「その質問ならば、答えは“いいえ”です。たしかにあの花からもにおいのもとであるオイルを取ることはできますが、ほら、あの花って、小さいしでしょ? だから、量を取るにはたくさん手間がかかって、値段も高くなるし、そもそもこんな感じなんです」
その質問に青年はああと頷いて、手元にあった褐色の小瓶を茜に渡す。渡された小瓶の蓋を取って香りをかいだ茜は納得する。
たしかに本物のキンモクセイの香りは重たく、ずっしりとしている。
「あら、本当ね」
「そうなんですよ。だから柑橘系のオイルをいくつかブレンドしたほうが“キンモクセイ”っていう印象が強くなって、お手軽に皆さんがかげるんですよ」
説明に目を瞬かせる茜。今まで本物と思いながら見てきた景色が一気に変わったような気がした。
「へぇ、そうなんだ。よく嗅ぐ香りだから、本物だと思っちゃったわ。ちなみに、もしかしてここにある香りすべて合成されたものだったりするの?」
「ご名答です」
「ふぅん、そうなんだ。じゃあ、この洋梨も、リンゴも、桜も?」
机に並べられていた香りにつけられたラベルを見てまさかと思って尋ねるが、青年はにこやかに頷く。
「ええ、そうですよ。よければ一度、作ってみますか?」
「え、自分で作れるものなの?」
「もちろんです。どうぞ、こちらに」
一回作ってみないかと尋ねる青年に驚く茜だが、彼のほうは至って真剣で、椅子を勧めてきた。ありがたく座らせてもらいオリジナルの香りを作る茜だが、あまり手先が器用とは言えず、結局青年にすべて作ってもらう形になってしまった。
「あなたって、手先が器用なのね」
「よく言われます」
最後の過程、瓶にラベリングをしている青年が苦笑しつつも、それを否定しないのが嫌味にならない。そんなさわやかさが彼にはあった。そんな彼を困らせてみたいとふと考えた茜は彼を誘惑するようなしぐさ――彼のそばに近寄り、胸を近づけること――をした。
しかし、彼はそんな彼女のしぐさになにも反応示さなかった。
「どうです?」
「うん、自分で作ってなんだけど、かなり素敵な香りね! 気になる人にはこれがてきめんかも」
「あなたにも気になる人が?」
「ええ。でも、あなたは私に引っかからなかったわね」
自分で作ったとはいえども、実際には彼に作ってもらった香りをかいだ茜は今までの人、だれでも落とせたのにねと苦笑し、あえて青年の質問をはぐらかした。茜の指摘に青年は顔を赤くするが、茜は試すような真似をして申し訳なかったわと話を打ち切り、席を立った。
「じゃあ、今度つけて試してみてください」
「わかったわ」
どこにつけていこうかしらと調子よく言いながら、茜はじゃあねと言って部屋を出ていった。
そのあと彼女は学校をすぐに出たが、青年のことはカバンの中にしまった小瓶と一緒に一時の思い出としてしまっておくことにした。
数週間後、いつものように授業終わりに茜が廊下を歩いていると、見覚えのある青年が前にいることに気づき、無性に嬉しくなった。
彼はこの前見たときと同じ、場違いな軍服を着ていたが、だれ一人としてそれを指摘するものはいない。茜は指摘しようかと思ったが、青年に先を越されてしまった。
「久しぶり」
にこやかな笑みを返た彼になにも言えなかった茜と青年は、これからなにもないということで学校近くのカフェに入った。
「そういえばあの香り、つけましたか?」
「ううん。どうにも勇気が出なくて」
「そうでしたか」
あの香りは桜の香りを模したもの。
彼女にとってそれをつけるのはある意味、贖罪に近いもの。でも、まだその気持ちの踏ん切りがつかなかったのだ。
そんな様子の彼女の背中を押してやろうかと考えた青年は、ある提案をする。
「そういえば僕のタロット占い、やってみませんか?」
彼の提案に茜は戸惑いの表情を見せるが、青年は大丈夫ですよと微笑む。
「こないだあなたは香りのほうに目が行っていて、占いには目もくれませんでしたから」
茜はそうだったわねと頷くと、青年はタロットカードをカバンの中から取り出す。どうやら彼は学校祭だけではなく、いつも持ち歩いているらしい。
丁寧にシャッフルし、机の上に並べられたタロットカードを茜が選ぶと、表面を向けた青年は難しい顔をした。
「どう? なにか悪いものでも出たのかしら?」
「いえ、あなたには……過去・今ともにマイナスの運気というか、運命が……なんていうんでしょうか。かつてあなたはだれかに見放されたものの、その人を裏切った。そしてあなたはその人に振り向いてほしいと思っているが、その人はすでにあなたのことを見ていない」
その渋面に嫌な予感がした茜だが、その通りだわと肩をすくめる。
「未来も見てみます?」
「ふふふ、あなたの占いはよく当たりそうだから、お願いしましょうか」
「わかりました」
カードを戻してもう一度、シャッフルをした後、二枚カードを引くと今度も微妙な顔をする青年。茜はどうだったのか心配になり青年の顔を覗き込む。
「今度はどうだったの?」
「そうですね。あなたにはこれから三人のキーパーソンが関わってくるでしょう」
「三人?」
たしかに今までも、今も多くの人間が自分にかかわってきているが、これからもまた人が関わるのか。眉をしかめた茜に青年ははいと頷く。
「一人はさまよっているあなたの手を取る人。あなたはただの友達だと思っているけれど、その人にとってはおそらく違う。そしてあとの二人は……不確かですけど、どちらもあなたがきっと手助けする。あなたや彼らの周りの大人がそっと背を押すことで二人は未来に進む。それも重要なことを」
青年の言葉にまさかと驚く茜。
自分は人の信用を利用して裏切ったことならある。だから、そんな自分に手を差し伸べてくれる人なんて、そしてだれかを手助けするなんて信じられなかった。
しかし、青年はそうだと神妙に頷く。うそでしょと呟いた茜が冗談半分にもしかしてあなたが手を差し伸べてくれるのって尋ねると、いいえときっぱり否定されてしまった。
「あなたの未来に僕が関わることはありません。これから何度でも会うことがあってもですよ、皆藤茜さん」
青年の言葉はまさに青天の霹靂というものだ。
自分は彼に名前を教えたこともないし、聞かれたこともないはず。それなのになぜ彼は知っているのか。
「スポーツ系の学部でも、部活やサークルに入ってないにもかかわらず、引き締まった体。その体は一日や二日で作れるものではない。それにある大学の紹介パンフレットで見た理事長の顔によく似ている」
青年は茜の表情を読み取ったのか、笑顔でそう返した。
確かに苗字は同じだけれど、そのつながりを示唆しているものはなにもないはず。そう茜は反論するが、やんわりと青年はタロットカードをしまいながら首を振る。
「僕に“見えないものはなにもありません”よ?」
「まさか、あ、あなたは……!」
その言葉で青年の正体に気づいてしまった茜だが、青年はそっと右人差し指で彼女の口をふさぐ。
「ええ、その回答で正解ですよ。はじめまして、僕は……――――と言います」
彼女は驚きで言葉にならなかった。その名前はつい先日、家族会議で耳にしたものだったから。そして彼女にとってみれば、会ったことはなくても身近な人だったから。
「では、さようなら」
青年は二人部の食事代金をテーブルにおいてそっと立ち、もう一度彼女に微笑んで去っていった。
その十三年後、その青年が予言したものが事実となることを茜はまだ知らなった。
ハロウィン2020企画参加作品です。
(使用要素は「梨・スポーツ・眼鏡・金木犀」)
作中に登場する青年は本編内に出てくる『あの人』です。




