037 「平和っていうのも退屈なのよ。…ねえ、蛍?」
「おつかれー」
蛍はがらりと戸を開けると、誰もいない部室に座り込み、カフェオレの缶をぷしりと開ける。
放課後の理科室は、既に魔術研究部の部室と化していた。
くびっと最初の一口を飲み込む。冷たさが胃に染みていく感覚をじっくりと味わう。
しばらくすると天井をすり抜けて、ダイヤが現れる。
「お疲れさまですー」
「あ、うん、おつかれー」
日中は外郎の横で授業を受けているダイヤだが、放課後はいつの間にか、魔術研究部に参加するようになっていた。
たまに外郎のサッカーを眺めていることもあるのだが、やはり幽霊の身にとって、会話ができる友達というのは貴重らしい。
「おっつかれええーー!」
やかましい声が響く。部長の二見ときわである。ちなみに部長の座は、幾度かの話し合いを経て、平和的にときわへと譲渡された。
「はいはい、お疲れ様」
「あれ、師匠は?」
「補習よ、補習。こないだのテスト、古文漢文がダメダメだったんだって」
「えー、相談があったのになー」
文句を言いながら四つん這いになると、机の下の棚をごそごそ漁る。突き出た小ぶりなお尻がフリフリ揺れる。
うし、と声をあげ、薄汚れた実験器具の奥に隠してあったお菓子を引っ張り出す。
「さ、たべよーぜ」
まるで小学生のような、無邪気な笑みだった。
「それにしても幽霊の私はともかく、蛍さんもなんだかんだで魔術部に馴染んできましたねー」
「え、そうかな」
「そうだよ、だって師匠がいなくても、来てくれてるんだし」
「帰り道が一緒だから、待っててやってるだけよ」
蛍は照れ臭くなり、ポテチをくわえたまま視線をそらす。
そんなに彼のことばかり言わなくてもいいのに。青海を待っているのも本当なのだが、放課後に居場所があるということ自体も、嬉しいことなのだから。
年上の余裕を見せたダイヤが、わざとらしく爆弾を落とす。
「素直に、好きだから一緒に帰りたいって言えばいいじゃないですかー?」
ごふんと蛍がせき込む。
蛍の耳が、ザクロ色の髪の毛に負けないくらいに赤く染まる。
「蛍はいいなあ、師匠と家も近いし」
無自覚なときわの言葉に、蛍の胸はちくちくと痛む。
以前の青海なら、ふとした拍子に胸が当たったりすると、顔を赤らめたりして反応していた。女として意識をしてくれていたのだ。大きく育った胸は少し恥ずかしかったけれど、そういう青海の反応を見るたびに、こっそりお母さんに感謝した。
しかし、今はそんなことはない。むしろ逆に、嫌がっているのではと思うこともあるくらいだ。
ダグザの話で一応の納得はしたのだが、彼の中身が女の子だと知ったところで、ちっとも安心なんてできなかった。逆に、いつ女の子を意識するときが来るのかという恐怖が生まれた。
そして、そのときに、自分はときわに勝てないんじゃないかと思っている。
「ねえ、ときわさんはどう思ってるんですか、青海くんのこと」
「え、私か?」
そんな蛍の心を知ってか知らずか、幽霊はガンガンと攻めてくる。
こいつ、自分には外郎がいるからって生意気な。もう一度ときわをけしかけて、成仏させてやろうか。
「……あ、のー、」
なんとか話題を変えようと抵抗するが、かすれた声では、ときわの耳には入らない。
ときわはきっぱりと言い放った。
「師匠は尊敬しているけど、恋愛感情とは別だな。というより、私にはまだ恋愛は早いと思う。だから安心しろ。蛍と師匠の愛は全力で応援してやるし、師匠に近づく女がいたら、私が燃やしてやるさ」
「あ、いえ、燃やすのはどうかと思うけど」
「うーん、じゃあ凍らせる? なんにせよ、蛍は親友だ。私は師匠にも蛍にも幸せになってほしい」
気を使ったりしているわけではない、本気なのだ。さわやかな笑顔がそれを語っていた。
長門青海は、自分を救ってくれた恩人として。そして、豊田蛍は、生まれて初めてできた親友として。二見ときわにとって二人は、心から大切に思っている存在なのだ。
「ちびっこのくせに、よく言うわ」
なんだ、こいつのほうがよっぽど大人なんじゃないか。
蛍は、少しだけ笑った。本当に久しぶりに、心が軽くなった気がした。
お菓子がなくなりかけたころ、やっと青海がやってきた。
「もうだめ、疲れた」
それだけつぶやくと、机に突っ伏す。
「師匠、お疲れのとこ、すみません。今日はお願いがあるのですが」
ふえ?
顔をあげた青海の前で、ときわは丸椅子の上にちょこんと器用に正座して、頭を下げていた。




