中3・12月(中)
昨夜の電話を思い出す。
「伊織くんの方は進路相談どうだった?」
『ああ、俺は……まあまあだったかな』
「英高校だよね」
『もう少し頑張らないとまずいなあ』
「伊織くんは今学期すごく伸びてきてるよね。私も見習わなきゃ」
『……』
「伊織くん?」
会話は五分くらいで、睡眠不足で少々キツイからって、伊織くんは電話を切ったんだった。
電話越しの伊織くんに元気がないような気がして、今日改めて顔を見て話そうと私は思ってたんだ……。
*****
「ああ、甘糟さん。探してた樫木には会えた? って、その顔は──察するに、さっきのアレ聞いちゃったのか」
告白現場の野球部倉庫から気付かれないように走って逃げて、私は北校舎の外階段に座っていた。迂闊に涙が零れないよう、空を仰いで膝を抱えて。
そこにふらりとやって来たのは国重くんだった。
「参るよね、あんな場所で青春ドラマ繰り広げられてたら。わりと良く使う抜け道なんだからさあ」
……ということは、国重くんも聞いたのね。
駄目じゃん、他人の告白立ち聞きしたら。まあ私も同じ穴の狢なのだけど。
「僕が言うのもなんだけど、樫木の発言の真意は違うと思うよ。『俺達は(まだ)付き合ってはいない(※付き合わないとは言っていない)』って意味でしょ。甘糟さんに気がないとか、あっちの子に可能性があるとかではないよ」
なにその副音声。
国重くんならあり得るけど、伊織くんにそんな腹芸(?)が出来るとは到底思えな……
……って、あれ?
先程の伊織くんの発言へ対する驚きが、国重くんに全く見られないんだけど。しかもさりげなくフォロー入ってるし。
まさか国重くん、私達が嘘彼嘘彼女だって気付いてた⁉︎
「あーまあね。ちょっと注意力のある人間なら、観察してればフェイクだって分かるよ」
「え──嘘、し、知ってたの……?」
「うん。正式に付き合ってはいないだけで、お互い好き合ってるのも、見てればね」
動揺してしどろもどろになってしまった私の目の前に、国重くんがしゃがみ込む。そして頭頂部に掌をポンと乗せてきた。
「だから落ち込む必要ないってば、甘糟さん」
「違う、違うの」
落ち込んでると言うより、私は自分が恥ずかしいんだ。
私、伊織くんのこと、所詮自分とは違う特別な人なんだって思ってなかった?
集中力が違うとか、気持ちの切り替えが上手だとか言って。
どこかで妬んでいたのかもしれない。取り柄のない自分とは違って、伊織くんは強くて、揺るぎない信念を持ってて、要領もいいんだって。運動も勉強も軽々とこなせて羨ましいなって。
……そんな訳ないのに。
伊織くんだって中三の普通の男の子だ。でも誰よりも目標に向けて努力していた。この三年間、剣道にどれほど打ち込んでいたのか、部員じゃない私にだって分かる。引退してから受験勉強に転換して成績を上げたのにだって、並々ならぬ努力が必要だっただろう。
伊織くんは、ただ、それを見せなかっただけ。黙々と頑張っていただけ。
あの女の子の言うことは多分正しい。
私は剣道の事に詳しくないし、伊織くんがどれだけ勉強していたのか想像するしか出来ない。伊織くんを充分に支えてあげられていたのかも分からない。
私はただ伊織くんを好きなだけ。憧れていただけ。あんな風になりたいと見つめて、嘘彼女の立場に甘えていただけだ。
あの子に非難されて気が付いた。
──友人以上恋人未満で当然だ。
本物の彼氏彼女になれたかも、なんてのぼせ上がっていたのは私だけだった。伊織くんは嘘彼をカミングアウトしてしまった。
もうここに穴を掘って地中深くに埋まってしまいたい。
"彼女"です、と胸張って言えるようなサポートを出来ていなかった自分が恥ずかしいよ……。
「あーハイハイ。だからそんなに自分を卑下しないで」
ポンポン。
口調と同じくらい軽く私の頭を叩いて、国重くんの手は引っ込められた。
「甘糟さんは自分の勉強を頑張っていたでしょ。部外者の言葉なんかに左右されなくていいの。樫木がそれでいいって言うんだから、いいんだよ」
国重くんの温かい言葉が冷えた身体にじんわりくる。
そうなのかな。
こんな私でもいいって、伊織くんは思ってくれているのかな。
「元気出して。これでも僕は二人を虎視眈々と見守っていくつもりなんだから」
「……こしたんたん?」
「そう。あくまでもアグレッシブにね」
国重くんの言う事は時々理解しづらい。
"見守る"の形容詞としておかしくないかなあ、それ……。
でも、一応慰めてくれているんだよね。なら。
「……ありがとう?」
「なんで語尾が疑問形かな」
笑いながら国重くんは上着のポケットに手を入れて、掴み取った包みを数個、私に手渡した。
「ほら、飴あげるからさ。萎れてないで頑張りなよ」
見覚えのある白地に赤の苺柄のキャンディ。
あ、これ、前にも貰ったやつだ。
「国重くん、いつも甘い物持ってるよね」
「うん、大好きだからね」
「私も好き。美味しいよねこれ」
包みを分け合って国重くんと一緒に食べる。
練乳と苺の甘味が口内に広がり、こわばっていた頬が自然と緩んだ。こんな時だって甘い物は心をほぐしてくれるんだなあ。
「……何? 国重くん、変な顔」
どうしたんだろう。国重くんが痛みを堪えるような顔をしている。
「……予想外に今のがちょっと沁みて」
「? 虫歯? 甘いの好きならマメに歯磨きしないと駄目だよ」
「忠告ありがとう。平気だよ、もう」
国重くんは、痛みを振り払うように立ち上がって伸びをした。そして、友人として私の背中を押してくれた。
「心配しないで、甘糟さんはいつだってそうやって笑っていてよ」
*****
伊織くんに渡そうと思っていたパンフレットは、いつの間にかクシャクシャになっていた。伊織くんと話す前にもう少しだけ猶予が欲しくて、私は美和ちゃんと塾に取りに行くことにした。
ロビーは冬季講習の受け付けで混んでいる。中学生だけでなく、高校生や予備校生もいるようだ。
「甘糟?」
ざわめきの中、私を呼ぶ声がした。反射的に振り向くと、人混みから抜きん出て身長の高い男の人。体格が良くて鍛えられている感じ。柔道とか空手とか、そういう武道を嗜んでいそう。高校生というよりもっと大人の人みたい。
……既視感。
この人、もしかして。
隣に立つ女の人が「誰?」なんて訊いてる。
「中学の後輩」
そう答えるということは。
確か……鈴木、先輩。二年前の冬、私に告白してきた人だ──……。
「お前らも冬季講習か、奇遇だな。受験頑張れよ。じゃあな」
そう挨拶して立ち去ろうとする先輩を、
「先輩、良かったら少しお話……出来ますか?」
と、気付いたら何故か私は引き止めていた。
「千奈津……なんならあたし、ついていこうか?」
美和ちゃんが心配顔でそう言ってくれたけど。
「ありがとう、でも大丈夫。多分一対一の方がいいと思うから」
緊張して少し冷たくなった指先を握り込んで、私は自分に言い聞かせる。
夏祭りの時を思い出せ。私ったら、美和ちゃんや福山くんに向かってあんなに偉そうな事を言ってたじゃない。今度は私が頑張る番だ……。
私と鈴木先輩は、ロビーを出て、塾の裏手に移動した。建物の陰に入るので北風が少しだけ肌寒い。でも、その分、人気は皆無だ。
「あの時は泣いたりしてすみません」
開口一番、私は先輩に謝った。
世間話から入ってしまったら本題まで絶対に辿り着けないような気がしたから。唐突な会話の切り口に先輩は目を丸くしているけど、この際だから言いたい事を全部告げてしまおう。
……今なら分かる。
好きな人に『好きです』って言うことに、どれほどたくさんの勇気が必要だったのか。
あの時の私はきっと幼過ぎたんだ。怯えたりしないで、先輩にもっと誠実に向き合うべきだった。二年も経って、本当に今更だけど、せめて今の自分に出来る最善を尽くしたい。
「ありがとうございました」
──好きになってくれて。
「それから、ええと……ごめんなさい」
──気持ちに応えられなくて。
こんな拙い説明で伝わるかな。ああもう。自分の口下手さ加減にうんざりする。
きっと傷付けてしまったに違いない私の態度をお詫びしたいんだけど、二年も前の事だもの、先輩の方は『今更』って思っているかもしれない。気持ちだって当然あの時のままじゃないだろう。忘れた話を蒸し返すようで却って迷惑かな。でも、自分のしでかした事には時間が経っていたとしてもちゃんと謝罪をするべきだとも思うし。
私を守ってくれていた伊織くんの真っ直ぐな背中を思い出す。
……そうだ。
私はあの背中に恥じない人間になりたい。
いろいろ間違えたり、勘違いしたり、要領が悪くて他の人のように上手くできなかったりする私だけど。
少しずつでもいい、駄目な自分を変えていきたい。
私は、大好きな伊織くんの隣に堂々と立てるようになりたいんだ。
だから、これが結局は私の自己満足に過ぎないんだとしても、きちんとやり遂げよう。
万感の思いを込めて一礼してから見上げると、先輩は苦い顔で頭を掻いていた。
「いや、甘糟、こっちこそごめんな。あの当時は余裕が無くて……必死過ぎて好きな子を泣かすなんて、ホント、本末転倒だったよな……」
「え……いえ……」
思っていたより柔らかい対応に戸惑う。
あれ、先輩ってこんな穏やかな人だったっけ。
「でもおかげで教訓になったっていうか、今はあの時よりもう少し上手に相手を思いやれるようになってるつもりなんだ」
そう言う先輩の目線は優しくロビーの方を向いている。私はなんだかピンときた。
「あ、もしかしてさっきの女性……?」
「そう、俺の彼女」
はにかむような、それでいてどこか自慢げな表情。
良かった。先輩、彼女さんのこととっても好きなんだなあ。とっくに前を向いて歩いている人だったんだなあ。
幸せそうな先輩の姿が嬉しい。
「甘糟はどうなの。……樫木伊織、あいつとは上手くいってる?」
「えっ」
いきなり訊かれて驚いてしまった。
何故先輩が伊織くんのことをフルネームで知っているんだろう。
「あいつ、剣道全国三位になっただろ」
「あ……ああ、はい」
私は頷く。
夏の中体連は確かにビッグニュースだった。
それでなのかな?
「うちの中学の後輩だっていうんで同中の奴らの間で話題になってさ。そういえば甘糟の彼氏だったって思い出したんだ。そしたら先日、駅でばったり会って……いきなり頭下げられた」
「え?」
伊織くんが?
どうして?
「二年前の話は嘘でした、自分と甘糟千奈津さんはあの時付き合っていませんでした、それなのに真剣な気持ちの相手を嘘で誤魔化したりして本当に申し訳ない事をしました……って」
先輩の言葉に、私は息を飲んだ。
伊織くんが、私の知らない所でそんな事をしてくれていたなんて。
……そんな事をさせてしまっていたなんて。
呼吸を止めたままの私を見て、先輩は苦笑した。
「甘糟のその反応を見るに、事実なんだな」
「ご、ごめんなさい……!」
ひゅっ、と音を立てて息を吸い込み、慌てて私はもう一度謝った。
嘘をつかれていたんだもん。助けてもらった私と違って、先輩の方はいい気しないよね。
「あの、あれは伊織くんが咄嗟に庇ってくれた嘘で、その後校内に噂が広まっちゃって訂正出来なくなって、悪気はなかったんですけど、でも」
「甘糟、落ち着いて。別に怒ってないから。……と言うかむしろ、甘糟を泣くまで追い詰めた俺の方が悪かったと思ってるから」
先輩は肩を竦めた。
「どっちにしろ二年も前のことだろ。黙ってりゃ済む話なのに……。怒るより前に、『真面目か!』って呆れちゃったよ」
でも、それが伊織くんなんだ。
きっと、嘘をついてしまった事をずっと気にしていたんだろう。
優しくて、強くて、誰よりも真っ直ぐな……私の大好きな人。
私が不甲斐ないばかりに、そんな人に嘘をつかせてしまった。つき続けさせてしまった。伊織くんはとても不本意だったに違いないのに。
……あ、なんか、落ち込む。
「おっと、誤解するなよ、甘糟」
「……誤解?」
「それでも自分は千奈津さんの事をずっと好きでした。今日これでやっと筋を通せたので、改めて彼女に告白しようと思います──あいつ、別れ際にそう言ってたよ」
私は今日何度驚けばいいんだろう。
……泣いてしまいそうだ。
伊織くんが、そんな風に考えていてくれてたなんて。
先輩は白い歯を剥き出しにしてニヤリと笑った。さっきまでの苦笑いとは違う、すごく悪戯っぽい顔で。
そんな顔をされると、不思議と少しだけ幼く見える。身体が大きくて精悍な男の人だけど、よく考えたら私や伊織くんと二つだけしか年齢違わないんだ。
「告白、されたか?」
直球勝負な先輩の質問に、顔を真っ赤にして私は首を横に振った。
「なんだよ、お前ら二年前から両想いなんだろ。いい加減にしとけ」
先輩はニヤニヤ笑いでそう言った。
「幸せになれよ、甘糟。折角俺が諦めたんだからさ」
……謝るはずの相手に励まされてしまった。
二年前の臆病な自分を叱り飛ばしたくなる。
怖い怖いと思っていた鈴木先輩は……話してみれば、案外いい人だったから。
*****
「千奈津、すごい頑張ったね」
先輩とその彼女さんにお別れをして、私は待ってくれていた美和ちゃんと一緒にうちへ帰った。先輩との会話内容をかいつまんで報告すると、美和ちゃんは最後にそう褒めてくれた。
「次は、樫木君とちゃんと話をするんだよ。この前あたしに言ってくれたみたいに……自分の気持ちに素直にね」
うん。
良かった。勇気出して本当に良かった。
先輩ともう一度話せて、伊織くんの事をもっと深く知れて、とても沢山のことに気付かせてもらった。
あとは。
あとは私が、もうひと頑張りしなきゃ。
今度こそ自分の気持ちを、自分の口で伊織くんへちゃんと伝えよう。私の方から告白しよう。そう、美和ちゃんの言う通り、素直に。
至らない私だけど、これからも一緒にいたい、伊織くんの事が大好きなのって。もしまだこんな私でも良かったら、嘘彼でも嘘彼女でもなく、本当の彼氏彼女になりたいですって、そう言うんだ。
でも───……
その夜、情けなくも私は熱を出した。




