中3・8月(前)
伊織くんの中体連が終わった。
今年の全国大会開催地は北の方の県だった。夏休みとはいえ、応援に行きたくとも気軽には行けない距離だ。
うちの学校の剣道部は団体戦で敗退したものの、伊織くんは個人で県代表の一人として参加し、なんと準決勝まで進出したそうだ。三位決定戦は行われなかったので、見事同率三位入賞となった。
塾の休み時間に美和ちゃんのスマホで一緒に結果速報を見て知って、私達は歓声をあげて抱き合った。
全国三位。凄い。
これが伊織くんの中学三年間の集大成なんだと思うと、剣道部員でもなんでもない私だけど胸が熱くなった。
*****
『正式な退部はまだだけど、これで三年生は実質引退』
地元に帰って来たその日の夜に電話を掛けてきてくれた伊織くんは、感慨深げにそう言った。
「すごいねえ、伊織くん。本当におめでとう! ああ私、やっぱり応援に行きたかったなあ」
『ちーは夏期講習があっただろ』
「そんなの休むよ!」
『言っても遠かったし』
「あー……ね?」
中学生のお小遣いではちょっと行きにくい距離だ。
『それにちーが来てくれたら嬉しいけど、余計に緊張しちゃっただろうから』
試合前、実は少し手が震えてたんだ、って伊織くんの告白。
そうなんだ。動画だと全然気が付かなかったよ。
「緊張? 伊織くんでもするの?」
『そりゃするよ』
緊張を解すためには掌に"人"という字を書いて飲み込むといい、とよく聞くけれど、伊織くんの場合は袴の襞を数えるんだそうだ。
『表五本、裏二本。仁義礼智信忠孝、って』
「……なんかそれ、里見八犬伝に出てた気がする」
受験対策でさわりだけ読んだ古典。
『一個少ないけどな』
本当に強い奴は本番でも岩みたいに落ち着いているんだ、と伊織くんは言った。
『泰然自若って言うの? やっぱり俺はまだまだだって痛感した。……ちーに見られていても大丈夫なように、俺ももっと平常心鍛えないとな』
意外だなあ。伊織くんでもそんな風に思うなんて。
私から見たら充分落ち着いて見えるんだけどな。
『いや、そんな事ない。顔に出ないだけで。去年なんて俺、ほんとビビってガチガチだった。今年はかなりマシになったほう。面をつけると視界が狭まる感じがして、そこでやっと集中できるんだ。心技一如にはほど遠い。今回いい成績残せたのは、ちーのくれた御守りのおかげもあったと思う。ありがとう』
「ふふ、どういたしまして」
上位入賞を果たせたのは伊織くんの実力だとは思うけど。
少しでも伊織くんの役に立てたのなら嬉しいな。親戚に頼んで鹿島神宮参拝した甲斐があったかも。
『もう夏休みも終わっちゃうな』
「八月終盤だもんね。伊織くんは宿題全部やった?」
『それはちょこちょこ片付けていたから、なんとか。あ、でも受験勉強の方は全然手ぇ付けてないや。まずい』
電話口の向こうで、伊織くんが苦笑いする気配。
そう。私達中学三年生は、悲しき受験生でもあるのだ。らしくもなく私が夏期講習を受けているのもその為だ。普段は塾には通っていないんだけど、夏と冬の長期休みの間だけでもお願いしてみようって、三年生になってすぐの家族会議で決まったのだ。
おかげで今年は勉強漬けの夏だった。
もうね、本当辛い。学校の宿題だけじゃないんだよ。塾の課題や模試までこなさなきゃならなかったんだから。夏休みの方が普段より学習時間が多いってどういうこと? 勉強は自分のためだとは分かっているけど、美和ちゃんと同じ塾じゃなかったら、早々に気持ちが挫けていたんじゃないかと思う。
ただでさえ三年生に進級してクラスが別れてから伊織くんと会える機会が減って、気落ちしていたんだよね。思えば同じクラスだった去年までが恵まれ過ぎていた。椅子に座って待ってさえいれば、労せずして平日は毎朝伊織くんに会えていたんだもの。
それに比べて今年の四月から。移動教室や休み時間に偶然廊下ですれ違ったり、全校集会で姿を見かけたり、こっそり部活の様子を覗いたりしていた時間がどれほど貴重だったか。なんで違うクラスってだけであんなに敷居を高く感じるんだろう。気軽に他教室へ入って行けない自分の性格が恨めしい。
加えて、夏休みに入った途端、数少ないそんなラッキーエンカウントがさらに激減。私は塾、伊織くんは部活で、お互いに多忙。伊織くんの顔すら見れない日が続く。
よその恋人達みたいに『さあ夏休みだ! デートだ! イベントだ!』なんて空気、私達の間には微塵もない。伊織くんが夏休み中、剣道で忙しいだろうことは予選通過の時から分かっていた。だからデートなんかはね、とっくの昔に諦めていたからいいんだけど。
……やっぱり会いたいよね。
ただ顔を見るだけでもいい。後ろ姿を見かけるだけでもいい。
ああ、元気なんだな、日に焼けて少し髪が伸びたかな、昨日遅くまで本読んでたって言うから今日は少し眠いのかな、っていう風に。変わらないようで毎日少しずつ変わっていく伊織くんに、誰よりも早く気付きたいんだ。
伸びていく身長、精悍さを増していく剣技、少しずつ成長していく伊織くんの大本にある変わらないもの。目を細めて「ちー」と優しく私を呼ぶ声。そこが本当に好きだなあって、毎日でも思い知りたい。
相反する気持ち。でも嘘偽りなく正直な私の本音。変わっていく伊織くんも、変わらない伊織くんも、誰よりも一番近くでずっと見ていたい。
夏休みになった途端、『早く新学期始まればいいのに』なんて願ったの、初めてだった。
それでも、嘘カレ嘘カノだった去年とは少しだけ違うもので。
今年の夏は時々伊織くんと電話で話すことが出来た。うん、それだけでも嬉しい。私達にしてみればすっごい進歩だと思うんだ。
別に、海とか、プールとか、遊園地とかに、伊織くんと一緒に行ってみたかったなぁなんて思ってないよ! ちょっとしか‼︎
『……で夏祭りなんだけど、どうかな、ちー?』
ハッ、いけない、ちょっと意識が回想に向かってた。
私は慌てて電話の子機を握り直す。
「夏祭り? 今度の?」
『そう。これが今夏最後のお祭りだろうから、もし良ければ一緒にって思ったんだけど。ちー、都合悪い?』
い、伊織くんに誘われた!
嘘! 嬉しい! 夏休みの最後の最後に勉強頑張ったご褒美キタ‼︎
都合なんて、都合なんて、全然そんなの悪くなんてな──……!
…………
「……ごめん、伊織くん。それ、美和ちゃんと行く約束してる」
そっか、と伊織くんが電話越しに呟いた。その声音に責める響きは全く含まれていなかったけど、私の胸には小さな棘が刺さったような気がした。




