中3・4月(前)
それは、一本の電話から始まった。
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「千奈津、電話よぅ〜」
「はあい」
階下からのお母さんの呼び掛けに返事をして、私は自室を出た。
時刻は夜8時。夕食を終えてお風呂に入ろうと、着替えを取りに私がちょうど二階に上がりきったところで、我が家の固定電話が鳴った。
うちの固定電話が使われる回数は、あまり多くない。両親の知り合いは携帯の方で直接連絡を取り合うからだ。だから家電話に掛けてくる相手と言えば、たいていはセールスか、携帯を使いこなせていない年輩の親戚。それから、稀に私宛ての電話が来る。
甘糟千奈津14歳、通信手段が家電話と公衆電話のみのマイノリティー。友達からは"早く携帯買ってもらえ"と絶賛大ブーイング中の、もうすぐ中学三年生。……あ、違うか。始業式はまだだけど、今日から四月だから、もう三年生と言っていいのかも。春休み中だとその辺の境が曖昧になってしまう。まあ別にどっちでもいいんだろうけど。
「美和ちゃん?」
保留中の子機を受け取りながら電話の相手を尋ねると、お母さんは悪戯っ子みたいな笑みを浮かべて答えた。
「ふふっ、秘密。だ〜れでしょう?」
……いや、答えになってなかった。
うちのお母さんって、たまにだけど、子供っぽい事するんだよね。今朝も"千奈津、大変! 寝坊しちゃった。遅刻、遅刻‼︎ "って叩き起こされたし。あれは迫真の演技だったなあ。春休みだという記憶がすっ飛んで思わず制服着ちゃったもの。寝癖の付いた頭のまま半泣きで鞄持ってダイニングに駆け込んだところで、"えへへ、エイプリルフールでした〜♫"って種明かし。私、脱力して床に座り込んじゃったんだよ。お母さんたらホント、いい大人としてどうかと思う。
ん? もしかしてこの電話もエイプリルフールの続きだったりして。美和ちゃんとは今日遊んだばかりだけど、夜電話するなんて一言も言ってなかったもんなあ。とっくに切れた無関係な電話をカモフラージュでわざと保留にしてるだけとか? 朝イチでイベントを消化したと見せかけて忘れた頃に再攻撃……うん、うちのお母さんならやりかねない。
私は、にやにやとこちらを眺めているお母さんの視線を気にしながら、保留ボタンを解除して電話に口を寄せた。
「……もしもし?」
『ちー?』
──受話器の向こうから少しくぐもって聞こえてきた、この声は。
嘘。
まさか。
い、伊織くん……⁉︎
私は思わず電話を耳から離して顔の正面に捧げ持ち、孔面をまじまじと見つめてしまう。
伊織くんから電話?
信じられない。え、なんで? 何これ、なんのサプライズ? 伊織くんに私、うちの電話番号なんて教えたっけ。
やだ、ドッキリ? 私騙されてるの? 壺とか買わされちゃう系?
あ、それとも録音された伊織くんの音声まで使っての、大々的なエイプリルフール? 犯人は誰だ──⁉︎
『……ち……? ……聞……てる?』
目の前の無骨な電化製品から、途切れ途切れに音が漏れてきてハッとする。ダメだ、このままじゃ折角掛けてきてくれた伊織くんの言葉がよく聞き取れないよ、勿体無い!
私は慌てて耳に受話器を再度押し当てた。
「あ、ごめんね伊織くん。なんだかちょっと子機の調子が……」
『そうなの? 俺、掛け直そうか?』
「今直ったみたい!」
こっちを見ているお母さんに、私は眉をしかめて手を振って、"向こうへ行って"と合図する。あれは笑いを堪えているんだ。もう。
お母さんの姿がドアの向こうに消えたのを確認してから、私は改めて喋り出した。
「伊織くん……本当に伊織くん?」
『うん。俺、声違う?』
「ううん」
自分の幸運が信じられないだけ。
確かに伊織くんの声なんだけど。
「や、なんでうちの番号知ってるのかなって」
『赤城さんに教えてもらった。……って俺、振り込め詐欺か』
電話越しに伊織くんが苦笑している気配がした。
どうしよう。電話だと伊織くんの声や吐息が耳もとでするから、普段対面して話す時よりも格段に距離が近くてめっちゃドキドキする。
『最初、家の人が出たから緊張した。あれ、お母さん?』
「うん」
『ちーと声が似てる』
「そうかも。たまに言われる」
『顔も? お母さん似?』
「どっちかって言うとそうかなあ。伊織くんは?」
『強いて言えば、じいちゃん似』
「そうなんだ!」
そんな、他愛ない会話が嬉しくて。
パジャマ一式を膝上に抱えたまま、私は階段の下の方に座り込んだ。
終業式の後、先月末の退任式ぶりだから、伊織くんとはニ、三日会えてないだけなのに。長かった去年の夏休みに比べたらほんの僅かな別離だというのに、なんだかもう会いたくてたまらない。
あ、今きっと目を細めてるんだろうな、とか。やった、笑ってくれた! とか。伊織くんの言葉を聞きながら、どんな表情をしているのか想像する。声だけしか分からないから、なおさらそこから伊織くんの色々な情報を読み取りたくて、聴覚に神経を集中してしまう。
伊織くんも同じように私の声を聞いてくれてるのかな。そうだといいな。伊織くんのことが大好きだって気持ち、ちゃんと電話線の向こうまで届いていますように。
「ね、剣道部は春休みも練習あるんでしょう。伊織くんは主将だもんね。大変だけど頑張ってね」
『それなんだけど、ちー。聞きたいことが』
「千奈津」
夢中で話していたから、目の前にお父さんが立っていたのに気が付かなかった。
「……お父さん! びっくりしたぁ」
「そろそろ切り上げてお風呂に入りなさい。お湯が冷めるから」
「ん、分かった」
私が肯くと、お父さんはリビングの方へ立ち去って行った。
そうそう。そういえば元々私、お風呂に入ろうとしていたんだった。
今まで美和ちゃんと電話してる時に注意された事なんかなかったのに、今日はそんなに長い時間喋っちゃってたかな。伊織くんちにも迷惑掛けちゃうな。
軽く送話口を覆っていた手のひらを外して、私は伊織くんの名を呼んだ。
『……今の、お父さん?』
「ああ、うん。そう」
『叱られた? ごめん』
聞こえちゃってたか。
咄嗟に保留ボタンを押せなかった自分の迂闊さが情けない。
そうだよ、伊織くんは優しいから。私から話を終わらせないと電話を切れないよね。
「そんな事ないけど、もうお風呂に入らなきゃ。今日は電話ありがとう。嬉しかった」
『ちー、あのさ』
これであと一週間、伊織くんに会える日まで幸せに待てる。
「じゃあ、休み明けにまた学校でね? おやすみ、伊織くん」
『わ、ちー、切るな。切らないで、待って!』
珍しく狼狽の色を乗せた伊織くんの声に、通話を切ろうとした私の親指は空中で止まった。
『明日! 明日会えるかな? 会いたいんだけど‼︎』
……今、ソラミミが聞こえたような。
『明日は部活早めに終わるんだ。10時頃って都合どうかな、ちー?』
*****
そこから私がどう受け答えをしたのかはよく覚えていない。多分一も二もなく了承して、待ち合わせの時間と場所を聞いて、夢見心地のまま電話を切ったんだと思う。正気に帰った時には、お風呂から上がって髪をドライヤーで乾かしていた。千奈津・ザ・オートマティックだ。習慣って怖い。
『明日』
『10時』
『川沿いの土手で』
しかも、一連の動作をしながら、その三つの言葉を無意識に何回も何回も繰り返し呟いていたことに気が付く。
……肝心な事を覚えていなかったらマズイから、助かったけどね。はたから見たら危ない人だ。
つまりそれだけ動揺していたって訳で。
……神様、これって壮大なエイプリルフールネタじゃありませんよね?
もしかしてもしかすると、これは念願の初デートなんでしょうか────⁉︎




