12.鳩に豆鉄砲
タイトルの意味:突然の出来事に驚いて、目を丸くすること。
再び「ペンギンカフェ」、もとい、カフェ「アプテノディテス」が入るビルを訪れたのは、ヒアリングの日から数日後。
たまたま近くに用事があり、書き終わった書類を届けに来たのだ。自宅から愛用の自転車を走らせて四十分、少し足が痛い。車だったら十分くらいだろうか。自転車でどこへでも行けると思っていたが、やはり不便なこともある。
今回はエレベーターで二階まで上がり(ビル自体は五階建て)、「片近ドライビングスクール」と書かれたドアのインターホンを押す。
『はい、片近ドライビングスクールでございます』
女性の落ち着いた声が聞こえた。
「こんにちは、久川と申します。今度そちらでペーパードライバー教習を受けることになりまして、そのための書類を持参しました」
『承知しました。今、開けますね』
しばらくしてドアが開くと、母親と同年代のふっくらとした眼鏡の女性が現れた。満面の笑顔で千晶をオフィス内に迎え入れる。彼女の他に、複合機の前で書類を印刷している若い女性が一人いるだけだった。
「あらあら、お待たせしました。久川さんって、百太くんのお姉さんよね? 私は公一の母で、このスクールの教官の片近悦子です。わざわざありがとうございます」
顔立ちはあまり公一に似ていない。社長を務める父親似なのだろうか。悦子の明るい気さくな雰囲気は、千晶の緊張をほぐしていった。書類を渡して、改めて挨拶をする。
「お忙しいところ失礼します。久川千晶と申します。弟と友人の楓がお世話になっています」
「ああ、橋本楓さんね。三年前に出会ってから、毎年年賀状をくださるのよ。お嬢さんがどんどん大きくなってもうすぐ小学生だなんて、ビックリしちゃうわぁ。今もちゃんと乗ってるみたいで安心してるの」
楓は、地元の教習所のほうが普段通る道だから慣れやすいと、この片近ドライビングスクールを選んだそうだ。教官だった悦子と今でも交流があると言っていたが、良好な関係を築けた証拠だろう。
「楓がとてもお世話になったみたいで、私が悩んでいたらぜひ受講してみるべきだって紹介してくれたんですよ」
「そうだったのね。今回は私を指名してくださったのに、先約が入っていて申し訳ないわぁ。公一には教える側の心得をしっかり指導しているけど、何かあったらすぐスクールに連絡してちょうだいね。これも持っておいて。遠慮しちゃ駄目よ」
悦子が千晶に自分の名刺を手渡した。真面目な顔で念を押す彼女の態度から、千晶は信頼できる会社だと安心する。
「わかりました。ところで、公一先生は……」
「午後から外出の予定があって、今早めのお昼休憩で下の喫茶店にいるの。正和……ああ、そこのマスターはね、主人の一番下の弟なのよ。正和に連絡して、足止めしててもらうから、顔だけでも出してあげて。公一ったら、あなたを教えることをとても張り切っているから」
「わかりました。では、書類をよろしくお願いします。ありがとうございました」
手を振る悦子の後ろから、若い女性事務員が笑顔で頭を下げた。ゆるく一つに結んだ黒髪に赤縁の眼鏡が似合う。もしかしたら、あの人が最初に電話をかけてくれた女性かもしれない。
アットホームな職場の雰囲気に気持ちが和んだ千晶は、エレベーターで一階に降りてカフェ「アプテノディテス」のドアを開いた。
カランカラン。
「……っと、義姉さん、久川さんいらしたから、話しておくね。それじゃあ」
ちょうど開店したばかりだからか、他に客はいない。カウンターには空になった皿とコーヒーカップが置かれていた。マスターは電話を切ったところだった。
「いらっしゃいませ。今、悦子さんから連絡いただきましたよ。公一くん、仕事の電話が来て外に出てるんです。すぐ戻ってきますから、好きなお席でお待ちください」
「わかりました。あそこの、ペンギンの席でもいいですか?」
「もちろんどうぞ」
さあ、ずっと気になっていた巨大ペンギンさんとご対面だわ。ああ、かわいい〜〜!!
つぶらな瞳がかわいい。横に広がったでっぷりとしたおなかがかわいい。短い足がかわいい。黄色の線、白と黒のコントラスト、かわいい。いくら見ていても飽きない。
マスターが水の入ったコップを千晶の前に置いた。
「このペンギンはね、今までいろんな人の悩みを聞いてきたんですよ。特に何か解決するわけではないのですが、それでも誰かに聞いてもらうとすっきりするみたいで、結構人気なんです」
「そうなんですね。じゃあ、聞いてもらおうかな」
マスターがウインクして立ち去る。二回目ともなると慣れてきた。あれはマスターの癖なのかもしれない。
イケオジも素敵だけど、やっぱりペンギンはかわいすぎるー! はあん、幸せ。絶滅したジャイアントペンギンが体長160センチはあるって聞くから、高さ的にはこのくらいかな。今は椅子の上に乗っているから、180センチ以上あるけど。ああかわいい。
他の客も、ペンギンがかわいすぎて悩み事が吹っ飛んでいるに違いない。幸せな気持ちでペンギンと向かい合う時間を過ごしていた千晶だが、ぐう、と小さく腹の音が鳴ってしまい、慌てて腹を押さえる。
まだ11時になってないのに……恥ずかしい。コーヒーを注文してから、ランチを食べて帰ろうかな。
カランカラン。
千晶が壁にかかった黒板を見ていると、店のドアにかかるカウベルの音がした。
「はあ、クレーマーほどひどくないけど、細かい注文があるお客さんからの電話、なかなか切らせてもらえなかったよ」
公一の声だ。少し疲れているのか、カウンターの椅子に座り込む音が大きく聞こえた。
「大変だったね。そうそう公一くん、君にお客……」
「でも、もうすぐあの人と会えるから。あの人と話せるから。全然苦じゃない。彼女のおかげで、仕事がこんなにも楽しく思えるなんて」
「こ、公一くん!」
マスターの焦った声に、千晶は立ち上がりかけたまま思わず固まってしまった。




