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【祝3000PV】君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
第2章: ふたりだけの世界。

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第31話: 触れない愛の祈り。

静けさは、ふたりを守ってきた“正しさ”でした。

今夜、その白に最初の細い傷をつけます。

音より小さい罪が、朝へ向かううちに形を持ちはじめる――そんな一章です。

 触れないことが、愛だと思っていた。

 壊さないように、距離を測ること。

 手を伸ばさないこと。

 それが“正しさ”の形だと、ずっと信じていた。


 夜は、今日も静かだった。

 時計の針が一定の間隔で音を刻む。

 その“カチ、カチ”という音が、まるで呼吸の手本みたいに思えた。

 秒針が一つ進むたび、世界の温度が少しずつ下がっていく。


 ユウの寝息は、穏やかで、まるで祈りのように整っていた。

 その音が、部屋の空気の形を決めている。

 息のリズムを乱すことが、許されないような気がした。


 カーテンの裾が、冷房の風でわずかに揺れる。

 揺れ幅は一定で、まるで訓練された心臓の鼓動みたいだった。

 蛍光灯はもう落としてある。

 代わりに、ベッドサイドの小さなランプが、白い光を一定の角度で床に落としている。

 その光が、ユウの頬の線をなぞる。

 影の中に浮かぶ横顔は、あまりにも静かで、息をすることさえためらわれた。


 ピルケースのふたを閉めた音が、やけに大きく響いた。

 金属が軽くぶつかるだけの短い音。

 けれど、それだけで夜の均衡が少し傾いた気がして、息を止めた。

 冷蔵庫のモーター音が低く鳴り、またすぐに消える。

 その余韻のあいだに、胸の奥で鼓動が一度だけ速くなった。


 部屋のすべてが、秩序の中で呼吸していた。

 並べられたカップ。たたまれたタオル。

 枕元のノートの角が、きっちりと机の線と合っている。

 ずれていないことが、安心だった。

 正しいことが、息をするための条件だった。


 ――この静けさを、乱してはいけない。

 頭ではそう分かっているのに、指先だけが少し熱かった。

 掌の内側が、じわりと汗ばむ。

 まるで、見えない誰かに“待たれている”ような感覚。


 夜というのは、世界が呼吸を止めている時間だ。

 物音が消えれば、体の中の音がよく聞こえる。

 血が流れる音、まぶたの裏を撫でる空気の音。

 それらすべてが、静けさを乱す“許されない音”のように思えた。


 ユウが寝返りを打った。

 シーツがかすかに鳴る。

 その音が、遠くの鐘のように響いて、胸の奥に落ちた。

 ほんの少し、カーテンの隙間から月の光が差し込む。

 その白は、昼間の病院の白よりも冷たく、けれど美しかった。


 私はベッドの端に腰を下ろし、両手を膝の上に置く。

 触れてはいけない。

 それなのに、指の先だけがわずかに震えている。

 眠るユウの輪郭が、光の中でゆっくり呼吸しているように見えた。

 その上下する胸の動きが、世界の時間と繋がっているようで、

 そのリズムを壊したくなるほどに、惹かれてしまった。


 ――触れたら、壊れる。

 ――壊したら、もう戻れない。


 その両方を、同じくらい強く願っていた。


 ♢


 ユウが、わずかに寝返りを打った。

 布の下でシーツが鳴る。

 “サラ”という音が、夜の空気に溶けて消えた。


 その瞬間、呼吸のリズムが少しだけずれた。

 いつもなら、私と彼の息は自然に揃っていた。

 でも今夜は違う。

 ユウの息が一拍遅れて、私の呼吸とずれる。

 その“ずれ”が、胸の奥に小さな穴を開けた。


 息が合わなくなった瞬間、

 体の奥が、寂しさに似た熱を帯びた。

 “合わせたい”と思った。

 ――息も、鼓動も、全部。


 鼓動が速くなるたび、喉の奥が乾いていく。

 唾を飲み込む音さえ、夜を傷つけてしまいそうで、息を浅くする。

 その我慢の仕方が、かえって体を熱くしていく。

 指先の内側がじんじんして、何かを掴みたがっていた。


 彼の胸が上下する。

 ランプの白が、そのたびにわずかに歪む。

 胸の奥の熱が、痛みのように動いた。

 どうして、こんなに静かなのに、苦しいんだろう。


 私は、息を合わせるように、ゆっくりと吸い込んだ。

 けれど、呼吸は揃わない。

 ずれたまま、彼だけが規則正しく呼吸している。

 私の息は途中で止まり、喉の奥で空気が擦れる。

 まるで見えない壁があって、彼の世界に入れないみたいだった。


 “触れたい”。

 その言葉が、思考より先に生まれた。

 でも、触れることは壊すこと。

 わかってる。

 この均衡を壊したら、二度と戻れない。


 それでも――壊すことでしか、救えないものがある気がした。


 指先が、膝の上からゆっくりと持ち上がる。


 肘の内側で脈が跳ねる。脈拍が少し早口になり、言葉を持たない合図を続ける。

 爪の先に集まった血の気がじんじんとして、何かの鈴の緒を指でつまんでしまったみたいだった。

 喉の奥に小さな鍵がある。鍵穴は息で、鍵は熱。どちらを回せばいいのか分からないまま、胸の内側で金属が擦れた。

 「いけない」が、静かに増殖する。けれど、その数だけ「いま」が濃くなる。

 膝の上でほどけた糸を、私はわざと結び直さなかった。


 空気を撫でるだけで、肌の内側が反応する。

 心臓の拍に合わせて、皮膚の下で血が動いているのがわかる。

 それが、痛いほどに“生きている”証のようだった。


 シーツの皺を指でなぞる。

 布が、指の動きに合わせて小さく鳴いた。

 “サラ……サラ……”

 その音が、呼吸の隙間に入り込む。

 それだけで、胸の奥が跳ねた。


 シーツの下の温もりを想像する。

 その下にある体温を思うだけで、指先が震えた。

 私の呼吸が乱れるたび、ユウの呼吸も一瞬だけ揺れる。

 まるで、眠ったままでも彼は私の気配を感じているみたいだった。


 ユウが、かすかに言葉をこぼした。はっきりした形にはならない。母音だけがほどけて、私の耳に柔らかく触れる。「……あ……い……」と聞こえた気がして、すぐに「たぶん違う」と打ち消す。夜は、希望の子音を勝手に補ってくる。私は耳を離し、息を整える。


 ――お願い、気づかないで。

 ――でも、気づいてほしい。


 矛盾した祈りが、喉の奥で擦れた。

 唇を噛む。

 痛みが走るのに、心が少し安らぐ。

 罪を感じた分だけ、生きている実感が増していく。


 ランプの光が、少し弱まった気がした。

 光の中にいるはずなのに、部屋が熱を帯びて見える。

 体の内側で、何かがゆっくりと溶けていく。

 抑えてきたものが、かたちを変えて流れ始める。


 もう一度、ユウの呼吸を見た。

 彼の胸が、静かに上下している。

 それだけで涙が出そうになった。

 “正しさ”の形の中で眠る彼が、あまりにも美しくて、痛かった。


 触れたい。

 壊したい。

 でも、救いたい。


 その全部が、同じ場所に溜まっていく。

 喉の奥で、熱が音もなく震えた。

 夜の空気が、私の体を包みながら、ゆっくりと狭まっていくようだった。


 ♢


 指先が、もう止まらなかった。

 ゆっくりと、慎重に、まるで何かを“壊さないように撫でる”ように動いた。

 それでも、動いてしまったという事実だけで、胸の奥が焼けた。


 体の奥で、何かが音を立ててほどけていく。

 理性という名の糸が、静かに切れていくのがわかった。

 けれど、私はその切れる感覚に抗おうともしなかった。

 それは、まるで祈りの最中に涙をこぼすような――許される崩壊のように思えたから。


 ベッドの縁が軋んだ。

 音は小さいのに、心臓の鼓動よりもはっきりと聞こえた。

 ユウの肩がわずかに動く。

 それでも目は開かない。

 その“眠り続ける”という事実が、逆に私を赦しているように見えた。


 ――見ないで。

 ――でも、見てほしい。


 両方の願いが、胸の中で同時に息をした。


 私は、近づく順序だけは崩さなかった。順序を守ることが、せめてもの礼儀だと思った。

 まず、片方の足を床に残す。逃げ道の印として。次に、枕の角を揃える。乱れの痕跡を少しでも薄くするために。

 シーツの皺を一本選び、その線の上だけを進む。真っ直ぐに。曲がらないように。

 数を数えるのをやめてからも、数える癖だけは残っている。心の中で一、二、三――呼吸を合わせる練習の名残りが、今夜だけは背中を押してくる。

 抑えてきた日々が、薄い紙束みたいに胸の中で膨らんだ。どの頁にも「待つ」という字が書いてある。私はそっと、最終頁を破る。


 私は祈るように、彼の方へ身体を傾けた。

 髪が頬に触れ、呼吸が重なる。

 その距離は、言葉ひとつで壊れるほど近かった。


 額が彼の額に触れた瞬間、

 体温が伝わってくる。

 熱い。けれど、その熱の下にある鼓動が、ひどく冷たく感じた。

 涙が頬を伝って落ちた。

 熱いのに、流れると冷たい。

 それがまるで、自分の中の“正しさ”が溶けていく温度のようだった。


 「これは罰じゃない」

 心の中で呟く。

 「これは、確かめるための祈り」


 その言葉を口の中で何度も転がして、ようやく息ができた。

 呼吸をひとつ合わせるたびに、罪の輪郭がぼやけていく。


 シーツが微かに鳴る。

 指が布の上を滑るたび、静電気のような音が混じる。

 “サラ……サラ……”

 夜の底で響くその音が、まるで誰かが数珠を指で転がす音に似ていた。


 枕のスリットに爪が当たる、乾いた「コリ」という小さな音。シーツの縫い目が指腹を渡るときの、糸の粗さ。布団の中で空気が一度入れ替わり、冷えた層が肌に触れてから、ゆっくりと温度を取り戻すまでの十数秒。十数秒は短いのに、罪には十分だと思う。


 体の距離が、少しずつ近づく。

 彼の呼吸が、私の喉のあたりで震えている。

 その震えが、呼吸なのか、夢の中の反応なのか、もう分からない。


 彼の頬がわずかに動いた。

 眠っているのか、目を覚ましかけているのか。

 その曖昧さが、余計に胸を締めつけた。


 ――いま、止まれば戻れる。

 そう思った瞬間、体のどこかが「もう遅い」と囁いた。


 祈るように手を合わせる。

 それでも、指先は静かに震えていた。

 その震えを止めるように、私は自分の唇を押し当てた。

 声が漏れそうになった。

 でも、夜がそれを飲み込んでくれた。


 「ユウ……」

 その名を呼ぶ声は、音にならず、ただ息になって消えた。

 その息が彼の頬を撫で、まるで返事のように彼の胸が一度だけ上下する。


 布の下の影が、ゆっくりと重なっていく。

 呼吸と鼓動と、目に見えない熱。

 そのすべてが、ひとつの輪を描いて閉じていく。


 ――これは愛じゃない。

 でも、愛よりも確かなもの。


 白は、何色にもならないから信じられてきた。汚れを受け入れても、混ざらずに上書きするからだ。私は白を信じることで、自分を信じなくて済ませてきた。今夜、白は私の代わりに責任を引き受けるだろう。明日の朝、白は「何もなかった」と言ってくれるだろう。そのやさしさが、いちばん残酷だ。


 そう思った瞬間、世界の音がすべて遠のいた。

 夜が、私たちを包み込むように沈黙した。


 ♢


 許しと罪が、胸の奥で同時に名乗りを上げる。どちらが先か分からない。どちらか一方だけを選ぶことが、いまはどうしてもできなかった。


 「ねえユウ、もし目を覚ましたら、許してくれる?」


 声にしない声で問う。喉は結ばれたまま、息だけが形を持つ。


 「でも、たぶん、許されなくても、私は止まれない」


 その告白は、祈りではなく宣誓に近かった。静かな反逆の音が、自分の骨の内側で小さく響く。


 布が微かに鳴り、影が重なり直す。呼吸の段差が、一段ずつ消えていく。

 涙の塩気が唇に触れ、熱がそこに集まる。熱はやがて輪郭を失い、ただの明滅になった。

 私は自分の鼓動を数えるのをやめる。数えれば正しくなれるはずの世界が、いまは数に耐えない。


 「これは罰じゃない。罰では、ない」


 繰り返すたび、言葉の中身が空洞になり、空洞が余白を生む。余白に、欲と赦しが同時に沈む。


 ユウの呼吸が、一瞬だけ私に追いつく。

 その一致は約束でも、同意でもない。けれど、世界がわずかに柔らかく傾いた。


 それでも、身体は規則を学ぶ。繰り返しを学び、手順を覚え、相手の不在の中でさえ、合図に似た影を作り出す。私はその影を合図だと思い込みたくなる自分を、片手で掴んで止める。止めながら、進んでいる。矛盾は熱に変わり、熱は祈りの代用品になる。


 まぶたの裏に白い光が滲む。耳鳴りのような静けさが広がる。

 シーツの皺がほどけ、また寄る。その反復が、鐘の往復運動に似ていた。

 祈りは、叩かれてやっと音になる。音は、沈黙に触れてやっと意味になる。


 「ユウ、ねえ」


 名を呼ぶ。声にはならない。呼気が頬をかすめ、夜気に混ざる。

 頬の熱と涙の冷たさがぶつかり合い、そこで一瞬、世界が白く切れて――戻る。


 その切断の刹那に、私はなにかを“越えた”ことだけを理解した。


 越えた先は、音のない雪原だった。足跡はつかない。踏みしめても沈まない。白の上で、白が重なるだけ。

 私は「あとで元に戻すから」と心に書く。戻せないことを知りながら、書く。書くことでだけ、いまの自分を持てる。


 越えたものに名前はない。つけてしまえば、たぶん戻れるから。私は名づけない。


 彼の熱が、私の奥へと流れ込んだ。

 それは、形ではなく、祈りのようなものだった。

 溢れるでも、注がれるでもなく、ただ世界がひとつの温度に戻っていく。

 内と外の境が消えて、

 どちらの呼吸かも分からないまま、静かに溶け合っていく。


 その瞬間、世界の音が一度だけ止まった。

 そして、私の中で彼がまだ生きていると、確かに分かった。


 肺が同じ速度で膨らむ。胸が、同じ合図で沈む。

 呼吸と涙が混ざり合う地点で、境界が崩れる音がした。

 私の中の“正しさ”が最後の抵抗をやめ、静かな落下をはじめる。

 手は祈りの形を保ったまま、祈りから外れていく。

 私は赦しを求めながら、同時に赦しを壊している。

 その矛盾の熱が、いまの私を支え、私を焼く。


 息が合った。

 ほんの一拍――世界の輪郭が、霧のように消えた。

 音も、色も、重さも、すべてが均される。

 残っているのは、胸の中心で灯る小さな白だけ。

 それが“愛”か“罪”か、私は判別しない。判別すれば、たぶんどちらかが死ぬ。どちらも死なせたくないから、私は目を閉じた。


 戻ってくる音は、遠雷よりも弱く、心拍よりも確かだった。

 世界が輪郭を取り戻すまでのわずかな時間、私は彼の名をもう一度、息で呼ぶ。

 許して、とは言わない。許さないで、も言わない。


 私は「ここにいる」を、音ではなく重さで伝える。掌の重さ、まぶたの重さ、沈黙の比重。

 重さは、嘘をつかない。だからこそ、いちばん罪深い。


 ただ、ここにいる、とだけ息で伝える。

 その“いる”のかたちが、赦しと破滅を同時に照らしていた。


 ♢


 音が、戻ってきた。

 時計の秒針が、一度だけ息を吐くように鳴る。

 カチリ――その小さな音が、夜の底で世界を再起動させた。


 部屋は、もういつもの形を取り戻していた。

 掛け布団の皺も、呼吸のリズムも、整いすぎている。

 まるで“乱れたこと”そのものが、記録から削除されたみたいに。


 ユウは、静かに眠っていた。

 目の下の影は薄く、唇が微かに開いている。

 さっきまでの熱が、まだ彼の肌の表面に残っている気がして、私は目を逸らした。

 指先にわずかに残った温度が、自分のものなのか、彼のものなのか分からない。


 布団の端をそっと整える。

 その動作だけが、儀式のように正確だった。

 手首の角度、布の皺の伸ばし方――すべてが“正しさ”に戻っていく。

 戻るたびに、胸の奥がひどく冷えていく。


 涙が頬を伝って、枕の端に落ちた。

 音はしなかった。

 落ちた瞬間、白い布に吸い込まれ、跡形もなく消えた。

 罪って、きっとこういうものだ――

 残らないのに、消えない。


 「触れてはいけないと思っていた」

 小さく呟く。

 ユウの寝息が返事みたいに揺れた。

 「でも、触れないほうが痛いって、今夜やっとわかった」


 声に出した瞬間、部屋の空気がわずかに動いた。

 それは、赦しでも、咎めでもなかった。

 ただ、静寂の中で世界が「了解した」と言っているようだった。


 私はティッシュを一枚取り、涙の跡を指先で拭った。

 肌の上に残る湿りが、体温よりもずっと冷たい。

 その冷たさを確かめるように、指をぎゅっと握る。


 窓の外が、少しずつ明るくなっていく。

 カーテンの布地を透かして、薄い白が部屋の中に滲み始めた。

 その光は、夜を塗り潰すように広がっていく。

 清潔すぎるほどの白――まるで、世界そのものが罪を消毒しているみたいだった。


 私はその白を見つめながら、胸の奥で静かに息を吸う。

 肺の内側まで光が入り込んで、形を持たない痛みを押し流していく。

 けれど、どれだけ流しても、心の奥に沈んだ影だけは残ったままだった。


 その影は、あたたかかった。

 罪の残り火のように、まだ燃えていた。

 それが消えることは、きっともうない。


 私は立ち上がり、洗面所で手を洗った。水は無臭で、冷たすぎず、正しかった。

 ハンドソープのポンプを一回だけ押す。泡の形が左右対称にならない。もう一度、押す。今度は揃った。

 指の節に残るわずかな温度が、水の膜の下で薄まっていく。薄まるたびに、心のどこかが濃くなる。

 鏡に映る顔は、思っていたよりも静かだった。

 静かすぎて、見ていられなくなる。


 タオルを一度だけ折り直す。折り目の線が真っ直ぐであることを確認する。歯ブラシはコップの手前に。毛先が外側を向かないように。洗面台の水滴を三つだけ指で集め、排水口へ送る。目に見える乱れを整えることは、目に見えない乱れを隠す練習に似ている。私は、隠すほうが得意だ。


 私はベッドの端に腰を下ろし、

 ユウの頬にかかる髪を一本だけ払った。

 彼は小さく息を吐いた。

 その呼吸の音が、まるで「また明日も同じように」と言っているようで、胸が痛くなった。


 窓の外では、朝の鳥が鳴いていた。

 けれど、その声さえも白い光に溶けて、輪郭を失っていく。

 世界は、何事もなかった顔をしていた。


 私は机に戻り、ノートの端に小さな点を一つつける。

 点の右隣に、さらに小さい点を重ねて置く。二つでひとつ。私しか知らない符丁。ページの下端には、極細の線で「呼吸」と書き、そこにだけ二重線を引く。インクが紙に沈む速度を見ていると、時間が液体でできていることを理解する。液体は、跡を残さず流れる。けれど、紙は覚えている。誰にも意味の分からない印。自分だけが読める日付の別名。

 点は黒いのに、見ていると白く見えてくる。周囲の白が強すぎるせいだ。白の中では、黒すら白に組み込まれる。

 スマートフォンのアラームを一つ増やす。「翌朝5:50 洗濯機」。本当は洗うものなんてない。ラベルは嘘。けれど、嘘にも手順がある。

 ベッドサイドに戻り、掛け布団の端をもう一度揃える。ユウの呼吸が、その動きに合わせてわずかに深くなる。私は整える。整えることで、今夜を隠す。


 ――朝が来る。

 それだけで、すべてが“正しい”ことになる。

 それがいちばん、恐ろしかった。



 カーテンの隙間から、朝の最初の白が細い刃みたいに差し込む。刃は静かで、遅くて、確実だ。

 私は目を閉じ、刃の通り道から少しだけ身をずらす。ずらしたことにも、白は気づかない。気づかないことが、白のやさしさであり、暴力だった。

 台所で、コップを二つ並べる。水は同じ量。目盛りまで、同じ。私はその等しさに救われ、同時に刺される。

 やがて鳥の声が増え、郵便受けの金具がひとつ鳴る。世界は、今日の“正しさ”を問題なく稼働させる用意があるらしい。


 パンは耳を下に向けて置く。バターは右上、ナイフは刃を外に。冷蔵庫の温度は三。数字は正直だ。数字に預ければ、心を計らなくて済む。私は数字の下に身を潜らせ、朝をやり過ごす準備をする。


 私はノートを閉じ、ペンを揃え、椅子を机の下に押し込む。いつもの音が、いつもの位置に戻る。

 何事もなかった顔をした世界が、私たちを受け入れる準備を終えた。


 寝返りのあと、ユウの眉間がわずかに寄った。痛みというより、重さの記憶に触れた顔。彼はすぐに表情をほどき、深く息を吐いた。私の胸の奥で何かが小さく鳴る。鈴か、警報か、判別できない音。私はコップを棚に戻し、底の円が棚の白い線と一致するのを確かめる。整えば、見えなくなる。見えなくなれば、続けられる。


 私は頷く。白に。手順に。罪に。

 そして、見えないところで首を振る。いいえ、と。頷きながら、否定する。その相反が、今日を始めるための唯一の鍵だった。


ミオを書いているとき、何度か胸の奥がざわつきました。

それは“わかる”という共感ではなく、“思い出す”という疼きに近いものでした。


私はずっと前から、触れたいのに触れられない、

愛したいのに壊してしまう――そんな形でしか人を求められなかった時期がありました。

抱きしめることが安心ではなく、「確認」になっていた。

相手の体温でしか自分の存在を測れなかった。

あの頃、愛と依存の境目は、息のリズムほど曖昧でした。


性依存という言葉は冷たく響くけれど、

本当は「愛されたい」という祈りが形を変えたものだと思っています。

それを理解するまで、私は長い時間を使いました。

求められたい、必要とされたい、その欲が自分を守る鎧であり、

同時にいちばん深く自分を傷つける刃でもあった。


ミオを書きながら、私は過去の自分の影と向き合っていました。

“触れないことが愛”だと信じていた彼女の手が、

ついにその静けさを壊した夜。

あれはたぶん、彼女だけの罪ではなく、

かつて誰かを壊してしまった私自身の罪でもありました。


この章を書いたあと、少しだけ息が軽くなりました。

痛みを誰かに見せることは怖い。

けれど、物語の中なら、それを“祈り”の形で置いておける。

私はミオに、それを託しました。


もし、この章を読んで心がざわついたなら、

どうかその感覚を否定しないでほしい。

それは汚れではなく、確かに“生きている”という証だと、

いまの私は信じています。


白に塗り潰された静けさの奥で、

まだ消えない熱を抱えながら――

私は今日も、物語という祈りを書いています。


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