第31話: 触れない愛の祈り。
静けさは、ふたりを守ってきた“正しさ”でした。
今夜、その白に最初の細い傷をつけます。
音より小さい罪が、朝へ向かううちに形を持ちはじめる――そんな一章です。
触れないことが、愛だと思っていた。
壊さないように、距離を測ること。
手を伸ばさないこと。
それが“正しさ”の形だと、ずっと信じていた。
夜は、今日も静かだった。
時計の針が一定の間隔で音を刻む。
その“カチ、カチ”という音が、まるで呼吸の手本みたいに思えた。
秒針が一つ進むたび、世界の温度が少しずつ下がっていく。
ユウの寝息は、穏やかで、まるで祈りのように整っていた。
その音が、部屋の空気の形を決めている。
息のリズムを乱すことが、許されないような気がした。
カーテンの裾が、冷房の風でわずかに揺れる。
揺れ幅は一定で、まるで訓練された心臓の鼓動みたいだった。
蛍光灯はもう落としてある。
代わりに、ベッドサイドの小さなランプが、白い光を一定の角度で床に落としている。
その光が、ユウの頬の線をなぞる。
影の中に浮かぶ横顔は、あまりにも静かで、息をすることさえためらわれた。
ピルケースのふたを閉めた音が、やけに大きく響いた。
金属が軽くぶつかるだけの短い音。
けれど、それだけで夜の均衡が少し傾いた気がして、息を止めた。
冷蔵庫のモーター音が低く鳴り、またすぐに消える。
その余韻のあいだに、胸の奥で鼓動が一度だけ速くなった。
部屋のすべてが、秩序の中で呼吸していた。
並べられたカップ。たたまれたタオル。
枕元のノートの角が、きっちりと机の線と合っている。
ずれていないことが、安心だった。
正しいことが、息をするための条件だった。
――この静けさを、乱してはいけない。
頭ではそう分かっているのに、指先だけが少し熱かった。
掌の内側が、じわりと汗ばむ。
まるで、見えない誰かに“待たれている”ような感覚。
夜というのは、世界が呼吸を止めている時間だ。
物音が消えれば、体の中の音がよく聞こえる。
血が流れる音、まぶたの裏を撫でる空気の音。
それらすべてが、静けさを乱す“許されない音”のように思えた。
ユウが寝返りを打った。
シーツがかすかに鳴る。
その音が、遠くの鐘のように響いて、胸の奥に落ちた。
ほんの少し、カーテンの隙間から月の光が差し込む。
その白は、昼間の病院の白よりも冷たく、けれど美しかった。
私はベッドの端に腰を下ろし、両手を膝の上に置く。
触れてはいけない。
それなのに、指の先だけがわずかに震えている。
眠るユウの輪郭が、光の中でゆっくり呼吸しているように見えた。
その上下する胸の動きが、世界の時間と繋がっているようで、
そのリズムを壊したくなるほどに、惹かれてしまった。
――触れたら、壊れる。
――壊したら、もう戻れない。
その両方を、同じくらい強く願っていた。
♢
ユウが、わずかに寝返りを打った。
布の下でシーツが鳴る。
“サラ”という音が、夜の空気に溶けて消えた。
その瞬間、呼吸のリズムが少しだけずれた。
いつもなら、私と彼の息は自然に揃っていた。
でも今夜は違う。
ユウの息が一拍遅れて、私の呼吸とずれる。
その“ずれ”が、胸の奥に小さな穴を開けた。
息が合わなくなった瞬間、
体の奥が、寂しさに似た熱を帯びた。
“合わせたい”と思った。
――息も、鼓動も、全部。
鼓動が速くなるたび、喉の奥が乾いていく。
唾を飲み込む音さえ、夜を傷つけてしまいそうで、息を浅くする。
その我慢の仕方が、かえって体を熱くしていく。
指先の内側がじんじんして、何かを掴みたがっていた。
彼の胸が上下する。
ランプの白が、そのたびにわずかに歪む。
胸の奥の熱が、痛みのように動いた。
どうして、こんなに静かなのに、苦しいんだろう。
私は、息を合わせるように、ゆっくりと吸い込んだ。
けれど、呼吸は揃わない。
ずれたまま、彼だけが規則正しく呼吸している。
私の息は途中で止まり、喉の奥で空気が擦れる。
まるで見えない壁があって、彼の世界に入れないみたいだった。
“触れたい”。
その言葉が、思考より先に生まれた。
でも、触れることは壊すこと。
わかってる。
この均衡を壊したら、二度と戻れない。
それでも――壊すことでしか、救えないものがある気がした。
指先が、膝の上からゆっくりと持ち上がる。
肘の内側で脈が跳ねる。脈拍が少し早口になり、言葉を持たない合図を続ける。
爪の先に集まった血の気がじんじんとして、何かの鈴の緒を指でつまんでしまったみたいだった。
喉の奥に小さな鍵がある。鍵穴は息で、鍵は熱。どちらを回せばいいのか分からないまま、胸の内側で金属が擦れた。
「いけない」が、静かに増殖する。けれど、その数だけ「いま」が濃くなる。
膝の上でほどけた糸を、私はわざと結び直さなかった。
空気を撫でるだけで、肌の内側が反応する。
心臓の拍に合わせて、皮膚の下で血が動いているのがわかる。
それが、痛いほどに“生きている”証のようだった。
シーツの皺を指でなぞる。
布が、指の動きに合わせて小さく鳴いた。
“サラ……サラ……”
その音が、呼吸の隙間に入り込む。
それだけで、胸の奥が跳ねた。
シーツの下の温もりを想像する。
その下にある体温を思うだけで、指先が震えた。
私の呼吸が乱れるたび、ユウの呼吸も一瞬だけ揺れる。
まるで、眠ったままでも彼は私の気配を感じているみたいだった。
ユウが、かすかに言葉をこぼした。はっきりした形にはならない。母音だけがほどけて、私の耳に柔らかく触れる。「……あ……い……」と聞こえた気がして、すぐに「たぶん違う」と打ち消す。夜は、希望の子音を勝手に補ってくる。私は耳を離し、息を整える。
――お願い、気づかないで。
――でも、気づいてほしい。
矛盾した祈りが、喉の奥で擦れた。
唇を噛む。
痛みが走るのに、心が少し安らぐ。
罪を感じた分だけ、生きている実感が増していく。
ランプの光が、少し弱まった気がした。
光の中にいるはずなのに、部屋が熱を帯びて見える。
体の内側で、何かがゆっくりと溶けていく。
抑えてきたものが、かたちを変えて流れ始める。
もう一度、ユウの呼吸を見た。
彼の胸が、静かに上下している。
それだけで涙が出そうになった。
“正しさ”の形の中で眠る彼が、あまりにも美しくて、痛かった。
触れたい。
壊したい。
でも、救いたい。
その全部が、同じ場所に溜まっていく。
喉の奥で、熱が音もなく震えた。
夜の空気が、私の体を包みながら、ゆっくりと狭まっていくようだった。
♢
指先が、もう止まらなかった。
ゆっくりと、慎重に、まるで何かを“壊さないように撫でる”ように動いた。
それでも、動いてしまったという事実だけで、胸の奥が焼けた。
体の奥で、何かが音を立ててほどけていく。
理性という名の糸が、静かに切れていくのがわかった。
けれど、私はその切れる感覚に抗おうともしなかった。
それは、まるで祈りの最中に涙をこぼすような――許される崩壊のように思えたから。
ベッドの縁が軋んだ。
音は小さいのに、心臓の鼓動よりもはっきりと聞こえた。
ユウの肩がわずかに動く。
それでも目は開かない。
その“眠り続ける”という事実が、逆に私を赦しているように見えた。
――見ないで。
――でも、見てほしい。
両方の願いが、胸の中で同時に息をした。
私は、近づく順序だけは崩さなかった。順序を守ることが、せめてもの礼儀だと思った。
まず、片方の足を床に残す。逃げ道の印として。次に、枕の角を揃える。乱れの痕跡を少しでも薄くするために。
シーツの皺を一本選び、その線の上だけを進む。真っ直ぐに。曲がらないように。
数を数えるのをやめてからも、数える癖だけは残っている。心の中で一、二、三――呼吸を合わせる練習の名残りが、今夜だけは背中を押してくる。
抑えてきた日々が、薄い紙束みたいに胸の中で膨らんだ。どの頁にも「待つ」という字が書いてある。私はそっと、最終頁を破る。
私は祈るように、彼の方へ身体を傾けた。
髪が頬に触れ、呼吸が重なる。
その距離は、言葉ひとつで壊れるほど近かった。
額が彼の額に触れた瞬間、
体温が伝わってくる。
熱い。けれど、その熱の下にある鼓動が、ひどく冷たく感じた。
涙が頬を伝って落ちた。
熱いのに、流れると冷たい。
それがまるで、自分の中の“正しさ”が溶けていく温度のようだった。
「これは罰じゃない」
心の中で呟く。
「これは、確かめるための祈り」
その言葉を口の中で何度も転がして、ようやく息ができた。
呼吸をひとつ合わせるたびに、罪の輪郭がぼやけていく。
シーツが微かに鳴る。
指が布の上を滑るたび、静電気のような音が混じる。
“サラ……サラ……”
夜の底で響くその音が、まるで誰かが数珠を指で転がす音に似ていた。
枕のスリットに爪が当たる、乾いた「コリ」という小さな音。シーツの縫い目が指腹を渡るときの、糸の粗さ。布団の中で空気が一度入れ替わり、冷えた層が肌に触れてから、ゆっくりと温度を取り戻すまでの十数秒。十数秒は短いのに、罪には十分だと思う。
体の距離が、少しずつ近づく。
彼の呼吸が、私の喉のあたりで震えている。
その震えが、呼吸なのか、夢の中の反応なのか、もう分からない。
彼の頬がわずかに動いた。
眠っているのか、目を覚ましかけているのか。
その曖昧さが、余計に胸を締めつけた。
――いま、止まれば戻れる。
そう思った瞬間、体のどこかが「もう遅い」と囁いた。
祈るように手を合わせる。
それでも、指先は静かに震えていた。
その震えを止めるように、私は自分の唇を押し当てた。
声が漏れそうになった。
でも、夜がそれを飲み込んでくれた。
「ユウ……」
その名を呼ぶ声は、音にならず、ただ息になって消えた。
その息が彼の頬を撫で、まるで返事のように彼の胸が一度だけ上下する。
布の下の影が、ゆっくりと重なっていく。
呼吸と鼓動と、目に見えない熱。
そのすべてが、ひとつの輪を描いて閉じていく。
――これは愛じゃない。
でも、愛よりも確かなもの。
白は、何色にもならないから信じられてきた。汚れを受け入れても、混ざらずに上書きするからだ。私は白を信じることで、自分を信じなくて済ませてきた。今夜、白は私の代わりに責任を引き受けるだろう。明日の朝、白は「何もなかった」と言ってくれるだろう。そのやさしさが、いちばん残酷だ。
そう思った瞬間、世界の音がすべて遠のいた。
夜が、私たちを包み込むように沈黙した。
♢
許しと罪が、胸の奥で同時に名乗りを上げる。どちらが先か分からない。どちらか一方だけを選ぶことが、いまはどうしてもできなかった。
「ねえユウ、もし目を覚ましたら、許してくれる?」
声にしない声で問う。喉は結ばれたまま、息だけが形を持つ。
「でも、たぶん、許されなくても、私は止まれない」
その告白は、祈りではなく宣誓に近かった。静かな反逆の音が、自分の骨の内側で小さく響く。
布が微かに鳴り、影が重なり直す。呼吸の段差が、一段ずつ消えていく。
涙の塩気が唇に触れ、熱がそこに集まる。熱はやがて輪郭を失い、ただの明滅になった。
私は自分の鼓動を数えるのをやめる。数えれば正しくなれるはずの世界が、いまは数に耐えない。
「これは罰じゃない。罰では、ない」
繰り返すたび、言葉の中身が空洞になり、空洞が余白を生む。余白に、欲と赦しが同時に沈む。
ユウの呼吸が、一瞬だけ私に追いつく。
その一致は約束でも、同意でもない。けれど、世界がわずかに柔らかく傾いた。
それでも、身体は規則を学ぶ。繰り返しを学び、手順を覚え、相手の不在の中でさえ、合図に似た影を作り出す。私はその影を合図だと思い込みたくなる自分を、片手で掴んで止める。止めながら、進んでいる。矛盾は熱に変わり、熱は祈りの代用品になる。
まぶたの裏に白い光が滲む。耳鳴りのような静けさが広がる。
シーツの皺がほどけ、また寄る。その反復が、鐘の往復運動に似ていた。
祈りは、叩かれてやっと音になる。音は、沈黙に触れてやっと意味になる。
「ユウ、ねえ」
名を呼ぶ。声にはならない。呼気が頬をかすめ、夜気に混ざる。
頬の熱と涙の冷たさがぶつかり合い、そこで一瞬、世界が白く切れて――戻る。
その切断の刹那に、私はなにかを“越えた”ことだけを理解した。
越えた先は、音のない雪原だった。足跡はつかない。踏みしめても沈まない。白の上で、白が重なるだけ。
私は「あとで元に戻すから」と心に書く。戻せないことを知りながら、書く。書くことでだけ、いまの自分を持てる。
越えたものに名前はない。つけてしまえば、たぶん戻れるから。私は名づけない。
彼の熱が、私の奥へと流れ込んだ。
それは、形ではなく、祈りのようなものだった。
溢れるでも、注がれるでもなく、ただ世界がひとつの温度に戻っていく。
内と外の境が消えて、
どちらの呼吸かも分からないまま、静かに溶け合っていく。
その瞬間、世界の音が一度だけ止まった。
そして、私の中で彼がまだ生きていると、確かに分かった。
肺が同じ速度で膨らむ。胸が、同じ合図で沈む。
呼吸と涙が混ざり合う地点で、境界が崩れる音がした。
私の中の“正しさ”が最後の抵抗をやめ、静かな落下をはじめる。
手は祈りの形を保ったまま、祈りから外れていく。
私は赦しを求めながら、同時に赦しを壊している。
その矛盾の熱が、いまの私を支え、私を焼く。
息が合った。
ほんの一拍――世界の輪郭が、霧のように消えた。
音も、色も、重さも、すべてが均される。
残っているのは、胸の中心で灯る小さな白だけ。
それが“愛”か“罪”か、私は判別しない。判別すれば、たぶんどちらかが死ぬ。どちらも死なせたくないから、私は目を閉じた。
戻ってくる音は、遠雷よりも弱く、心拍よりも確かだった。
世界が輪郭を取り戻すまでのわずかな時間、私は彼の名をもう一度、息で呼ぶ。
許して、とは言わない。許さないで、も言わない。
私は「ここにいる」を、音ではなく重さで伝える。掌の重さ、まぶたの重さ、沈黙の比重。
重さは、嘘をつかない。だからこそ、いちばん罪深い。
ただ、ここにいる、とだけ息で伝える。
その“いる”のかたちが、赦しと破滅を同時に照らしていた。
♢
音が、戻ってきた。
時計の秒針が、一度だけ息を吐くように鳴る。
カチリ――その小さな音が、夜の底で世界を再起動させた。
部屋は、もういつもの形を取り戻していた。
掛け布団の皺も、呼吸のリズムも、整いすぎている。
まるで“乱れたこと”そのものが、記録から削除されたみたいに。
ユウは、静かに眠っていた。
目の下の影は薄く、唇が微かに開いている。
さっきまでの熱が、まだ彼の肌の表面に残っている気がして、私は目を逸らした。
指先にわずかに残った温度が、自分のものなのか、彼のものなのか分からない。
布団の端をそっと整える。
その動作だけが、儀式のように正確だった。
手首の角度、布の皺の伸ばし方――すべてが“正しさ”に戻っていく。
戻るたびに、胸の奥がひどく冷えていく。
涙が頬を伝って、枕の端に落ちた。
音はしなかった。
落ちた瞬間、白い布に吸い込まれ、跡形もなく消えた。
罪って、きっとこういうものだ――
残らないのに、消えない。
「触れてはいけないと思っていた」
小さく呟く。
ユウの寝息が返事みたいに揺れた。
「でも、触れないほうが痛いって、今夜やっとわかった」
声に出した瞬間、部屋の空気がわずかに動いた。
それは、赦しでも、咎めでもなかった。
ただ、静寂の中で世界が「了解した」と言っているようだった。
私はティッシュを一枚取り、涙の跡を指先で拭った。
肌の上に残る湿りが、体温よりもずっと冷たい。
その冷たさを確かめるように、指をぎゅっと握る。
窓の外が、少しずつ明るくなっていく。
カーテンの布地を透かして、薄い白が部屋の中に滲み始めた。
その光は、夜を塗り潰すように広がっていく。
清潔すぎるほどの白――まるで、世界そのものが罪を消毒しているみたいだった。
私はその白を見つめながら、胸の奥で静かに息を吸う。
肺の内側まで光が入り込んで、形を持たない痛みを押し流していく。
けれど、どれだけ流しても、心の奥に沈んだ影だけは残ったままだった。
その影は、あたたかかった。
罪の残り火のように、まだ燃えていた。
それが消えることは、きっともうない。
私は立ち上がり、洗面所で手を洗った。水は無臭で、冷たすぎず、正しかった。
ハンドソープのポンプを一回だけ押す。泡の形が左右対称にならない。もう一度、押す。今度は揃った。
指の節に残るわずかな温度が、水の膜の下で薄まっていく。薄まるたびに、心のどこかが濃くなる。
鏡に映る顔は、思っていたよりも静かだった。
静かすぎて、見ていられなくなる。
タオルを一度だけ折り直す。折り目の線が真っ直ぐであることを確認する。歯ブラシはコップの手前に。毛先が外側を向かないように。洗面台の水滴を三つだけ指で集め、排水口へ送る。目に見える乱れを整えることは、目に見えない乱れを隠す練習に似ている。私は、隠すほうが得意だ。
私はベッドの端に腰を下ろし、
ユウの頬にかかる髪を一本だけ払った。
彼は小さく息を吐いた。
その呼吸の音が、まるで「また明日も同じように」と言っているようで、胸が痛くなった。
窓の外では、朝の鳥が鳴いていた。
けれど、その声さえも白い光に溶けて、輪郭を失っていく。
世界は、何事もなかった顔をしていた。
私は机に戻り、ノートの端に小さな点を一つつける。
点の右隣に、さらに小さい点を重ねて置く。二つでひとつ。私しか知らない符丁。ページの下端には、極細の線で「呼吸」と書き、そこにだけ二重線を引く。インクが紙に沈む速度を見ていると、時間が液体でできていることを理解する。液体は、跡を残さず流れる。けれど、紙は覚えている。誰にも意味の分からない印。自分だけが読める日付の別名。
点は黒いのに、見ていると白く見えてくる。周囲の白が強すぎるせいだ。白の中では、黒すら白に組み込まれる。
スマートフォンのアラームを一つ増やす。「翌朝5:50 洗濯機」。本当は洗うものなんてない。ラベルは嘘。けれど、嘘にも手順がある。
ベッドサイドに戻り、掛け布団の端をもう一度揃える。ユウの呼吸が、その動きに合わせてわずかに深くなる。私は整える。整えることで、今夜を隠す。
――朝が来る。
それだけで、すべてが“正しい”ことになる。
それがいちばん、恐ろしかった。
カーテンの隙間から、朝の最初の白が細い刃みたいに差し込む。刃は静かで、遅くて、確実だ。
私は目を閉じ、刃の通り道から少しだけ身をずらす。ずらしたことにも、白は気づかない。気づかないことが、白のやさしさであり、暴力だった。
台所で、コップを二つ並べる。水は同じ量。目盛りまで、同じ。私はその等しさに救われ、同時に刺される。
やがて鳥の声が増え、郵便受けの金具がひとつ鳴る。世界は、今日の“正しさ”を問題なく稼働させる用意があるらしい。
パンは耳を下に向けて置く。バターは右上、ナイフは刃を外に。冷蔵庫の温度は三。数字は正直だ。数字に預ければ、心を計らなくて済む。私は数字の下に身を潜らせ、朝をやり過ごす準備をする。
私はノートを閉じ、ペンを揃え、椅子を机の下に押し込む。いつもの音が、いつもの位置に戻る。
何事もなかった顔をした世界が、私たちを受け入れる準備を終えた。
寝返りのあと、ユウの眉間がわずかに寄った。痛みというより、重さの記憶に触れた顔。彼はすぐに表情をほどき、深く息を吐いた。私の胸の奥で何かが小さく鳴る。鈴か、警報か、判別できない音。私はコップを棚に戻し、底の円が棚の白い線と一致するのを確かめる。整えば、見えなくなる。見えなくなれば、続けられる。
私は頷く。白に。手順に。罪に。
そして、見えないところで首を振る。いいえ、と。頷きながら、否定する。その相反が、今日を始めるための唯一の鍵だった。
ミオを書いているとき、何度か胸の奥がざわつきました。
それは“わかる”という共感ではなく、“思い出す”という疼きに近いものでした。
私はずっと前から、触れたいのに触れられない、
愛したいのに壊してしまう――そんな形でしか人を求められなかった時期がありました。
抱きしめることが安心ではなく、「確認」になっていた。
相手の体温でしか自分の存在を測れなかった。
あの頃、愛と依存の境目は、息のリズムほど曖昧でした。
性依存という言葉は冷たく響くけれど、
本当は「愛されたい」という祈りが形を変えたものだと思っています。
それを理解するまで、私は長い時間を使いました。
求められたい、必要とされたい、その欲が自分を守る鎧であり、
同時にいちばん深く自分を傷つける刃でもあった。
ミオを書きながら、私は過去の自分の影と向き合っていました。
“触れないことが愛”だと信じていた彼女の手が、
ついにその静けさを壊した夜。
あれはたぶん、彼女だけの罪ではなく、
かつて誰かを壊してしまった私自身の罪でもありました。
この章を書いたあと、少しだけ息が軽くなりました。
痛みを誰かに見せることは怖い。
けれど、物語の中なら、それを“祈り”の形で置いておける。
私はミオに、それを託しました。
もし、この章を読んで心がざわついたなら、
どうかその感覚を否定しないでほしい。
それは汚れではなく、確かに“生きている”という証だと、
いまの私は信じています。
白に塗り潰された静けさの奥で、
まだ消えない熱を抱えながら――
私は今日も、物語という祈りを書いています。




