第21話: 祈りの名をした、支配。
これは、“祈り”のような愛の物語です。
ふたりきりの密室。決められた生活。
朝のキス、昼の笑顔、夜の祈り――
それは誰かを守るためのルールか、それとも静かな支配か。
名前が曖昧になっていく世界で、“僕”は何を選ぶのか。
※本作には、精神的依存・境界の喪失・少しの性描写を含む表現があります。苦手な方はご注意ください。
眠っていたはずの意識が、ふと水面のようにゆらぎを帯びた。
目はまだ閉じたままなのに、光の気配が肌に触れる。
世界が、うっすらと動き始めていた。
――朝だ。
まだ誰の声も聞いていないのに、わたしの中にはすでに“朝の手順”が刻まれていた。
ゆっくりとまぶたを開ける。ぼやけた天井が、視界に映る。
腕を伸ばすと、隣に――ユウの温度。
……ああ、よかった。ちゃんと、ここにいる。
それだけで、息ができる。
この世界は、ふたりきりの密室。
わたしが整えたリズムの中で、ふたりが呼吸を重ねていく。
ズレや違和感があると、苦しくなってしまうから――
だから、わたしは「決めておく」のだ。
起きる時間も、キスの順番も、会話の内容も。
それが“守られる”ことの安堵が、きっとユウを優しく包んでくれるから。
ユウの背中に腕を回す。
目覚めの祈りみたいに、わたしはそっと呟いた。
「今日もちゃんと、“わたしのユウ”でいてくれますように」
♢
まぶたを開ける前に、まず、空気のにおいを確かめた。
病棟のあの、消毒液ともホコリともつかない無機質な空気とは違う。
この部屋は、ほんの少し、温度がある。
カーテン越しの光と、布団に染みついた柔軟剤のにおいと、そして、ミオの気配が混ざっていた。
まだ、身体は重かった。
けれど、窓の外の音も人の気配もないこの空間は、どこかで僕に「起きてもいい」と囁いていた。
ゆっくりとまぶたを開ける。
ベッドの端に、ミオが座っていた。
白いシャツの袖をたくし上げながら、こちらに気づくと、ふわりと笑った。
「おはよう、ユウ」
その声が、やけに静かに胸にしみ込んできた。
朝、だった。
まだ時計を見ていなかったけれど、彼女がいるということが、それを教えてくれた。
「……うん。おはよう」
声が少しかすれていた。
ミオはそれを気にするそぶりもなく、そっと身を屈めて、僕の顔に視線を重ねてくる。
「ね、ユウ。朝のキス、しないと始まらないよ」
言われた瞬間、僕の意識に、ほんのわずかな波が立った。
「……キス?」
問い返す声は、ごく小さくなっていた。
ミオはうなずいた。笑顔のまま。
「うん。ルールだよ。これから、毎朝の“おはよう”は、キス。そうやって始めるの。ね?」
その言葉に、どこか返答の余地はなかった。
提案でもお願いでもなく、すでに決まった手順のように感じられた。
僕は、一瞬だけ迷って、それから顔を近づけた。
ミオの手が、そっと僕の頬を支える。
唇が触れたのは、ほんの一秒にも満たない。
けれど、その一瞬に、部屋の空気が一段深く沈んだ気がした。
離れたあと、ミオが目を細めた。
「そうそう。上手にできたね」
それは――どこか“訓練”のような褒め方だった。
幼い子どもが箸の使い方を覚えたときに言われるような、そんな口調だった。
僕は笑えなかった。
でも、反論もしなかった。
「……ありがとう」
♢
喉の奥から出てきた言葉は、自分のものじゃないような気がした。
ミオは満足げにうなずき、ベッドから立ち上がる。
「ごはん、できてるよ。ちゃんと、食べようね」
そう言い残して、キッチンの方へ向かっていく。
残された僕は、天井を見上げた。
まだ、起き上がるには、少しだけ時間が必要だった。
朝からキスなんて。
そんなの、普通じゃない。
――けど。
怒られるよりは、いいか。
そう思った自分に気づいて、少しだけ、胸が冷たくなった。
朝食は、トーストとスクランブルエッグだった。
半熟のたまごの上にケチャップが添えられていて、その横に、切っただけのバナナが並んでいた。
すべての皿が、きちんと左右対称だった。
フォークの角度も、コップの位置も、まるで定規で揃えたようにぴたりと整っていて、食事というより、展示物のように見えた。
ミオは、黙って食べていた。
目を伏せて、背筋を伸ばしたまま、噛むリズムを崩さず、息を吐くタイミングまで一定だった。
僕もそれに合わせるように、静かに口を動かしていた。
ふたりのあいだに、ことばはなかった。
けれど、沈黙は不思議と苦ではなかった。
そうすることが“正解”のように思えたから。
食後、ミオが席を立ち、壁のほうへ歩いていく。
キッチン横の壁――
そこには、大きなホワイトボードが取り付けられていた。
気づかなかったわけじゃない。
でも、目を逸らしていた。
今日、初めて、はっきりと見た。
「ユウ、見て」
ミオがそう言って、ペンで文字をなぞる。
『生活スケジュール』と書かれた上段。
その下に、月曜日から日曜日まで、すべての曜日が列挙されていた。
壁に貼られたホワイトボードを、しばらく黙って見つめていた。
見ているだけなのに、背中に汗がにじんでくる。
びっしりと書かれた予定表。曜日ごとの色分け。ひとつも乱れていない直線。
……すごいな。
きれいすぎて、怖いくらいだった。
これって、本当に“僕のため”なんだろうか。
そう思った瞬間、自分の中で何かがざわついた。
たしかに、ミオは僕を思って作ったのだろう。
でも同時に、“わたしのため”とも言っていた。
そのふたつの境界は、どこにあるんだろう。
僕のため、だけどミオの祈り。
ミオの祈り、だけど僕のため。
その重なり合う輪郭の中で――僕は、どこにいる?
“守ってもらっている”と思えば安心できる。
でも、“決められている”と感じると、どこか息苦しい。
けれど、もしこのルールがなかったら?
――何をして、どこに行って、どこまでが正解なのか、僕には分からない。
だから結局、この予定表の前に立っていると、
不思議と、救われたような気がしてしまうのだった。
そして各日、それぞれの時間帯に区切られた予定が、びっしりと記入されていた。
たとえば、「朝6:40、キス」。
それが“毎日決まっている”というだけで、胸の奥がざわめいた。
他にも、「会話、最低5分」「手を繋いで祈る」……。
文字のひとつひとつが、祈りのようで、呪いのようだった。
他にも、曜日によっては“おやつを選ぶ日”や“ハグの回数を増やす日”も設定されていた。
そのすべてが、色分けされていて、整然と、否応なく、そこに存在していた。
「……これ、全部……守らなきゃ、ダメ?」
気づいたら、口に出していた。
ミオはペンを握ったまま、少しだけ間を置いて、それから顔をこちらに向けた。
「……ううん。守らなくても、ユウが壊れないなら、別にいいんだよ」
そう言いながら、目を伏せた。
「でも……わたし、すごく考えたんだよ。どうすれば、ユウが毎日ちゃんと笑えて、ちゃんと呼吸できて、ちゃんと生きていけるか。
だから、これ……わたしの“おまもり”みたいなものなの」
ペンの先で、曜日の枠をそっとなぞりながら、ミオは微笑んだ。
「ユウのため、だけど、……わたし自身のためでも、あるのかもね」
その笑顔は、とても優しかった。
だけど――何かを封じ込めるような、祈るような、そんな悲しさが混ざっていた。
それを否定することが、なぜか“ひどいこと”のように感じられた。
僕は、それ以上なにも言えなかった。
代わりに、ミオのそばに寄っていって、ボードを一緒に見上げた。
整然と並んだ文字たちは、まるで“生活の聖典”みたいだった。
この部屋にある唯一の、絶対的なルールブック。
そしてきっと――
このスケジュールが破られるとき、
なにかが、本当に壊れてしまう気がした。
♢
昼過ぎ、キッチンの椅子に腰掛けていると、ミオが窓のそばで洗濯物をたたんでいた。
白いTシャツ、薄手のワンピース、フェイスタオル。
すべての折り目がぴたりと揃っていて、布の繊維まで呼吸しているようだった。
その背中を見ていて、ふとスケジュールのことを思い出した。
「昼:目を見て微笑む」
壁に貼られたホワイトボードの項目が、記憶の中で滲んだ。
……守る意味なんて、本当はよくわかっていなかった。
でも、守った方がきっと“平穏”でいられる気がした。
僕は立ち上がり、そっとミオに近づく。
洗濯かごを手にしたミオが振り返る前に、視線を合わせる。
目を、見つめる。
そして、笑った。
ミオは一瞬、まばたきをしてから、ふわりと微笑み返した。
「……あ」
彼女は唇をほんの少し尖らせ、そして笑みを深めた。
「えらいね、ユウ。ちゃんとできたね」
そう言って、ミオは僕の頬に手を添え、軽く唇を重ねてきた。
柔らかくて、甘くて、ほんの少し湿っていた。
「ごほうび……よくできたね、ユウ」
そう囁いた彼女の声には、どこか“条件付きの愛情”が滲んでいた。
僕がちゃんと応えたからこそ、もらえた優しさ。
……そのことに気づいてしまったとき、胸の奥で、なにかが小さく軋んだ。
“ごほうび”。
そう呼ばれたものが、こんなに静かでやさしいものだったことが、少し不思議だった。
夜。
布団の中で、ミオと手を繋いで横になっていた。
暗い部屋の中、ミオの指先はいつもより少しだけ、強く絡んできた。
「今日のユウは、とても良い子だったね」
その声は、母親のような、恋人のような、どちらでもない何かのようだった。
褒められているのに、心がふわふわしていて、落ち着かなかった。
それでも、嫌ではなかった。
「子ども扱い……されてるのかな」
そう呟こうとして、喉で言葉が溶けた。
――いや、違うかもしれない。
もしかして僕は、“そうされたい”と思っているんじゃないか。
ちゃんと褒められて、認められて、撫でられて。
自分の存在が“よかったもの”として扱われることに、救われてるんじゃないか。
ミオが、僕の身体を撫でるように引き寄せてきた。
そのまま、キスが落ちる。
静かに、何度も、唇が触れては離れた。
やさしくて、でも確かに“求めてくる”ような触れ方だった。
「あのね、ユウ。今日は、特別な日だよ」
そう言いながら、彼女は布団の上で僕の身体に指を這わせてくる。
肩に、腕に、胸に。
触れるたび、息が浅くなっていく。
服を脱がされるとき、僕はなにも言わなかった。
ただ、なにも考えられなかった。
キスと撫でる音と、ベッドが軋む静かな音が、部屋の中を満たしていった。
ミオの動きは、決まった儀式のように整っていて、
どこかで“今日という一日を完了させるための手続き”にすら感じられた。
でも、それが嫌じゃなかった。
受け入れていた。
受け入れることで、たしかに“愛されている”気がしていた。
そして、気づいてしまった。
そう、ちゃんとできれば、ごほうびがもらえる。――それって、悪いことじゃないよね?
そう思った瞬間、胸のどこかで、何かがやわらかく崩れた。
だけどその崩れた場所に、
ミオがそっと、手を添えてくれたような気がした。
♢
朝だった。
天井の色が、昨日よりもやわらかく見えた。
いつもなら、ミオの声で目が覚めるはずだった。
けれど今日は、まだその声が聞こえてこなかった。
時計を見ると、六時半を過ぎていた。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の輪郭を白く浮かび上がらせていた。
その光の中で、ミオは布団の中に背を向けて、小さく丸まって眠っていた。
呼吸は浅く、静かだった。
肩が、ゆっくりと上下していた。
“朝のキス、しないと始まらないよ”
昨日、そう言われた言葉が、ふと脳裏に滲んだ。
今日は、言われなかった。
でも、僕の中には、それが“必要な手順”としてすでに刷り込まれていた。
キスで始めなければ、今日は始まらない。
そう思ったのは、彼女のため――だったのだろうか。
それとも、僕のためだったのか。
静かに身体を起こす。
シーツの音すら立てないように。
彼女の寝息を乱さないように。
布団の端に手をつき、そっとミオの顔を覗き込む。
眠っているときの彼女の横顔は、無防備で、少しだけ子どもっぽかった。
頬にかかる髪を指でそっとよける。
それから――額に、唇を押し当てた。
長く、優しく、ためらいなく。
それは“キス”というより、“儀式”のようだった。
触れた瞬間、ミオがゆっくりと目を開けた。
その瞳はまだぼんやりしていて、現実の輪郭をつかみきれていなかった。
けれど、僕の顔を見た瞬間、はっきりと――笑った。
驚きと、幸福と、ほんの少しの戸惑いが混じった、やわらかな笑みだった。
「……ユウが、起こしてくれたの?」
うなずくと、ミオは腕を伸ばして僕を抱き寄せた。
眠気の残る力加減で、ふわりと胸に引き寄せられる。
「うれしい……すごく、うれしいよ。
わたし、今日のユウ、大好き」
言葉が、胸の奥にすっと沈んでいった。
叱られなかった。
間違ってなかった。
むしろ――褒められた。
その瞬間、僕は気づいてしまった。
“自分から”行動して、
“望まれたこと”を満たすことで、
“愛される”ということに。
誰かに選ばれたいわけじゃない。
ただ、誰かに必要とされて、肯定されて、褒めてもらえることが、こんなにも温かいのだと。
そう気づいたとき、
ルールが、縛りじゃなくなった。
守らなければいけないもの、ではなく――
守りたくなるものに変わっていった。
♢
たとえば、昼食のとき。
僕が「ありがとう」と言ったら、ミオはほんの一瞬きょとんとして、そして満面の笑みを浮かべた。
「……どうしたの、急に?」
照れくさくなって、「ううん、なんとなく」と返すと、ミオは微笑みながらフォークを置いた。
「うれしいな。言葉にしてもらえるって、こんなに幸せなことなんだね」
その横顔は、まるで“報酬を得た人”のように満たされていた。
午後。
“外の空気を吸う”と決められた時間。
僕たちは窓を開けて、ほんの少しだけ風を感じていた。
どこからか鳥の鳴き声が聞こえる。
ミオはそれに気づくと、目を細めて、「聞こえた? ね、今の声」と僕に問いかけてきた。
「うん、聞こえた。きれいな声だった」
そう返すと、ミオは安心したようにうなずいた。
「ユウが、同じものを感じてくれると、すごくうれしいよ」
言葉のあとに、手が触れてくる。
それはただの接触じゃなく、“感覚の共有”を確認するような、静かな祈りだった。
夕方。
“音楽を聴く”時間。
Bluetoothスピーカーから流れるのは、どこか昔の映画みたいな、静かなピアノだった。
ミオは僕の隣で、目を閉じている。
僕も、ただ隣にいて、音を聴いていた。
なにかをするわけじゃない。
なにかを語るわけでもない。
それでも、この“決められた静けさ”が、僕たちの間を守ってくれているように感じた。
このリズムが崩れたら、たぶん、すべてが音を立てて壊れてしまう――そんな気がしてならなかった。
夜。
“手を繋いで、今日のよかったことを言う”。
ベッドの中、ミオがこちらに顔を向けて、少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。
「えっと……わたし、今日のユウの“おはようのキス”、すごく嬉しかった」
彼女の指が、そっと僕の指に絡む。
「……それが、今日のいちばんよかったこと」
僕は、少しだけ黙ってから言った。
「僕は……朝、ミオが笑ってくれたこと」
言葉にしたとたん、胸の奥でなにかがふわりとやわらかくなった。
ミオは、目を細めたまま小さくうなずいた。
「ね、明日も、ちゃんと守ろうね」
その言葉には、お願いでも命令でもなく、“ふたりの秘密”のようなぬくもりがあった。
ミオの声が消えたあと、少しだけ静寂が戻ってきた。
けれど、ふたりの間に流れていたのは“沈黙”じゃない。
言葉がなくても、交わしている感情があった。
まるで、ふたりの鼓動が、会話をしているかのように。
僕は目を閉じたまま、ミオの手の温もりを感じていた。
そのぬくもりは、ただ体温としてのそれではなく、
何かを“差し出されている”ような、強く静かな圧力を帯びていた。
「ねえ、ユウ」
ミオがもう一度、小さく囁いた。
「もしさ、わたしが、明日いなくなったら……ユウは、どうする?」
心臓が、ひとつ大きく脈打つ音がした。
すぐに冗談だと気づいたけれど、それでも息が詰まった。
「……そんなこと、考えないで」
僕がそう答えると、ミオはふっと微笑んだ気配を見せた。
「うん、ごめん。……でもね、たまに、怖くなるの。
“わたしがいない世界で、ユウがちゃんと生きられるか”って」
その言葉には、彼女自身の不安と、そして、信仰にも似た願いが宿っていた。
「だからね、わたし、毎日祈ってるの。
“明日も、ふたりでいられますように”って。
それはわたしの祈りだけど、ユウのことを縛ってしまってるのかもしれないって、たまに思うんだ」
僕は、そっと彼女の額にキスを落とした。
「……そんなこと、ないよ。
祈ってくれて、ありがとう。
僕は……その祈りに守られて、生きてるから」
ミオの目から、ひと粒、涙がこぼれた。
それを拭おうとした指先に、彼女は唇を重ねてきた。
「うれしい。……ユウがそう言ってくれて、ほんとにうれしいよ」
ぬるくてやわらかい静けさに、ふたりの呼吸が溶けていく。
その夜、眠るまでのあいだ――僕たちは、何も話さなかった。
いつ眠ったのか、正確には覚えていない。
ただ、まぶたの奥で、光の粒がゆっくりと揺れていたことだけは、はっきりと覚えている。
――その光が、朝だった。
白く、やさしく、どこか祈るように射し込んでくる光。
僕はまだ目を開けられないまま、その感触だけを頼りに“世界”を確かめていた。
右手には、ミオの手のぬくもり。
ぴったりと絡められた指は、まるで“僕”と“彼女”の境界を縫いとめているかのようで。
そこからゆっくりと伝わってくる体温に、静かに満たされていった。
♢
(このまま、名前を持たずに生きていけたらいい)
そんなことを、ふと、思った。
“わたし”や“きみ”や“ユウ”や“ミオ”という輪郭が、いまはただの飾りのように思えた。
ただ、ここにある呼吸と体温と、それだけが真実だった。
まるで、祈りのように――この朝が、終わらなければいいのに。
……ほんの一瞬だけ、カーテンの隙間から、風の音が聞こえた気がした。
それは外界の気配だった。
名前も知らない通行人の靴音か、あるいは誰かが自転車のブレーキをかけた音だったのかもしれない。
でも、わたしは、耳を塞がなかった。
少しだけ――ほんの少しだけ、その音が懐かしいと感じてしまったから。
それはたぶん、“わたし”という形を失う前の、名残だったのだろう。
けれど、ユウが目を開けた。
まっすぐにこちらを見て、小さく囁いた。
「おはよう、ミオ」
その声が、すべてを打ち消した。
外の音も、不安も、懐かしさも――この部屋の外側にある、すべてを。
わたしは微笑んで、彼の手を包み込むように握った。
「ううん……“おはよう”じゃないよ。これは、“感謝の朝”なの」
わたしたちだけの、わたしたちのための朝。
祈りのリズムに満ちた、“世界の始まり”だった。
♢
名前を捨てることが、こんなにも静かで、優しいことだとは思わなかった。
怖いくらいに、すべてが滑らかだった。
“僕”という形が曖昧になっていくたび、
“彼女の中のわたし”が、はっきりと輪郭を持ち始める。
名前には、“外”があった。
呼びかける声、名乗る場面、名札、記憶……。
でも、ここには、それが必要な場所はひとつもない。
ミオが“ユウ”と呼ぶとき、
それは「この世界での、わたし」への祈りのようだった。
名前を持たないということは、
誰にも探されないということ。
誰かの記憶の中で“存在しないもの”になっていくということ。
それでもいまは――
“ここにいる”という実感だけで、生きていける気がした。
たとえば言葉。
たとえば笑い方。
たとえば祈るように手を組む癖さえ――いつの間にか、似てきていた。
でも、不思議と、それが苦ではなかった。
それどころか、
「これでいい」と、
心のどこかで“赦された”ような感覚さえあった。
名前がなければ、誰にも呼ばれずに済む。
誰かのものにもならずに済む。
――僕は、もうずっと、彼女の中にいればいい。
そんなふうに思えた。
思えてしまったことが、少しだけ、怖かった。
いつ眠ったのか、正確には覚えていない。
ただ、まぶたの奥で、光の粒がゆっくりと揺れていたことだけは、はっきりと覚えている。
――その光が、朝だった。
白く、やさしく、どこか祈るように射し込んでくる光。
僕はまだ目を開けられないまま、その感触だけを頼りに“世界”を確かめていた。
でも、手はずっと、つながれたままだった。
朝になって、目を覚ましたとき――最初に感じたのは、ミオの呼吸のリズムだった。
背中にあたるあたたかさ。ゆっくりと上がって、下がる息の動き。
そのテンポに合わせて、僕の胸のうちも静かに整えられていく。
きっとこれは、昨日の“祈り”の続きなんだ。
そう思うと、少しだけ笑みがこぼれた。
ミオが眠っているあいだも、僕は“彼女のリズム”で目覚めていた。
まるで、もう僕自身の中に、彼女の“時間”が流れているみたいに。
そっと身体をひねって、彼女の顔を見た。
まぶたの動き、かすかな寝息。
そのひとつひとつに、“自分の一部”を見るような感覚があった。
――僕は、ちゃんとミオの中で生きている。
そして彼女も、僕の中で呼吸している。
そんなふうに思えた朝は、
なぜか、とても静かで、やさしい朝だった。
スケジュールは、確かにルールだった。
でも、それは、ふたりだけの祈りの形でもあった。
信仰のように繰り返される毎日の中で――
僕は、ようやく「ここにいてもいい」と思えるようになっていった。
ミオは、そのまま目を閉じた。
微笑みながら、僕の名前を、夢の中で呟くように呼んだ。
“ユウ”
朝の光が、カーテンの隙間からふたりに差し込んでいた。
その光は、どこまでも静かで、
まるで世界が“祝福”しているみたいだった。
“愛し方”を教わったのは、きっと、僕のほうだった。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。
この話は、「ふたりだけの世界」とは何かを、自分なりに突き詰めて描いた物語でした。
誰かを“愛する”という行為が、ときにどこまで優しくて、どこまで残酷なのか。
守ることと縛ること、願うことと支配すること、その境目が静かに溶けていく感覚――
それが、この作品全体に流れる“祈りのリズム”として描けていれば幸いです。
読み終えたあとに、少しでも胸に何かが残ってくれたら、それだけで報われます。
よければ、感想やレビューなど、お聞かせいただけると嬉しいです。
次の話でも、また静かに、深く、心に触れられる物語を綴っていけたらと思います。
それではまた、別の祈りの中でお会いしましょう。




