表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【祝3000PV】君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
第1章: 心の扉が、溶けていく。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/32

第21話: 祈りの名をした、支配。

これは、“祈り”のような愛の物語です。


ふたりきりの密室。決められた生活。


朝のキス、昼の笑顔、夜の祈り――

それは誰かを守るためのルールか、それとも静かな支配か。


名前が曖昧になっていく世界で、“僕”は何を選ぶのか。


※本作には、精神的依存・境界の喪失・少しの性描写を含む表現があります。苦手な方はご注意ください。

 眠っていたはずの意識が、ふと水面のようにゆらぎを帯びた。


 目はまだ閉じたままなのに、光の気配が肌に触れる。


 世界が、うっすらと動き始めていた。


 ――朝だ。


 まだ誰の声も聞いていないのに、わたしの中にはすでに“朝の手順”が刻まれていた。

 ゆっくりとまぶたを開ける。ぼやけた天井が、視界に映る。

 腕を伸ばすと、隣に――ユウの温度。


 ……ああ、よかった。ちゃんと、ここにいる。


 それだけで、息ができる。


 この世界は、ふたりきりの密室。

 わたしが整えたリズムの中で、ふたりが呼吸を重ねていく。

 ズレや違和感があると、苦しくなってしまうから――

 だから、わたしは「決めておく」のだ。


 起きる時間も、キスの順番も、会話の内容も。

 それが“守られる”ことの安堵が、きっとユウを優しく包んでくれるから。


 ユウの背中に腕を回す。


 目覚めの祈りみたいに、わたしはそっと呟いた。


 「今日もちゃんと、“わたしのユウ”でいてくれますように」


 ♢



 まぶたを開ける前に、まず、空気のにおいを確かめた。


 病棟のあの、消毒液ともホコリともつかない無機質な空気とは違う。

 この部屋は、ほんの少し、温度がある。

 カーテン越しの光と、布団に染みついた柔軟剤のにおいと、そして、ミオの気配が混ざっていた。


 まだ、身体は重かった。

 けれど、窓の外の音も人の気配もないこの空間は、どこかで僕に「起きてもいい」と囁いていた。


 ゆっくりとまぶたを開ける。


 ベッドの端に、ミオが座っていた。


 白いシャツの袖をたくし上げながら、こちらに気づくと、ふわりと笑った。


 「おはよう、ユウ」


 その声が、やけに静かに胸にしみ込んできた。


 朝、だった。

 まだ時計を見ていなかったけれど、彼女がいるということが、それを教えてくれた。


 「……うん。おはよう」


 声が少しかすれていた。

 ミオはそれを気にするそぶりもなく、そっと身を屈めて、僕の顔に視線を重ねてくる。


 「ね、ユウ。朝のキス、しないと始まらないよ」


 言われた瞬間、僕の意識に、ほんのわずかな波が立った。


 「……キス?」


 問い返す声は、ごく小さくなっていた。

 ミオはうなずいた。笑顔のまま。


 「うん。ルールだよ。これから、毎朝の“おはよう”は、キス。そうやって始めるの。ね?」


 その言葉に、どこか返答の余地はなかった。

 提案でもお願いでもなく、すでに決まった手順のように感じられた。


 僕は、一瞬だけ迷って、それから顔を近づけた。

 ミオの手が、そっと僕の頬を支える。


 唇が触れたのは、ほんの一秒にも満たない。

 けれど、その一瞬に、部屋の空気が一段深く沈んだ気がした。


 離れたあと、ミオが目を細めた。


 「そうそう。上手にできたね」


 それは――どこか“訓練”のような褒め方だった。

 幼い子どもが箸の使い方を覚えたときに言われるような、そんな口調だった。


 僕は笑えなかった。


 でも、反論もしなかった。


 「……ありがとう」


 ♢


 喉の奥から出てきた言葉は、自分のものじゃないような気がした。


 ミオは満足げにうなずき、ベッドから立ち上がる。

 「ごはん、できてるよ。ちゃんと、食べようね」


 そう言い残して、キッチンの方へ向かっていく。


 残された僕は、天井を見上げた。

 まだ、起き上がるには、少しだけ時間が必要だった。


 朝からキスなんて。


 そんなの、普通じゃない。

 ――けど。


 怒られるよりは、いいか。


 そう思った自分に気づいて、少しだけ、胸が冷たくなった。


 朝食は、トーストとスクランブルエッグだった。

 半熟のたまごの上にケチャップが添えられていて、その横に、切っただけのバナナが並んでいた。


 すべての皿が、きちんと左右対称だった。


 フォークの角度も、コップの位置も、まるで定規で揃えたようにぴたりと整っていて、食事というより、展示物のように見えた。


 ミオは、黙って食べていた。

 目を伏せて、背筋を伸ばしたまま、噛むリズムを崩さず、息を吐くタイミングまで一定だった。


 僕もそれに合わせるように、静かに口を動かしていた。


 ふたりのあいだに、ことばはなかった。

 けれど、沈黙は不思議と苦ではなかった。

 そうすることが“正解”のように思えたから。


 


 食後、ミオが席を立ち、壁のほうへ歩いていく。


 キッチン横の壁――

 そこには、大きなホワイトボードが取り付けられていた。


 気づかなかったわけじゃない。

 でも、目を逸らしていた。


 今日、初めて、はっきりと見た。


 「ユウ、見て」


 ミオがそう言って、ペンで文字をなぞる。


 『生活スケジュール』と書かれた上段。

 その下に、月曜日から日曜日まで、すべての曜日が列挙されていた。


 壁に貼られたホワイトボードを、しばらく黙って見つめていた。


 見ているだけなのに、背中に汗がにじんでくる。

 びっしりと書かれた予定表。曜日ごとの色分け。ひとつも乱れていない直線。


 ……すごいな。


 きれいすぎて、怖いくらいだった。


 これって、本当に“僕のため”なんだろうか。


 そう思った瞬間、自分の中で何かがざわついた。


 たしかに、ミオは僕を思って作ったのだろう。

 でも同時に、“わたしのため”とも言っていた。

 そのふたつの境界は、どこにあるんだろう。


 僕のため、だけどミオの祈り。

 ミオの祈り、だけど僕のため。


 その重なり合う輪郭の中で――僕は、どこにいる?


 “守ってもらっている”と思えば安心できる。

 でも、“決められている”と感じると、どこか息苦しい。


 けれど、もしこのルールがなかったら?


 ――何をして、どこに行って、どこまでが正解なのか、僕には分からない。


 だから結局、この予定表の前に立っていると、

 不思議と、救われたような気がしてしまうのだった。


 そして各日、それぞれの時間帯に区切られた予定が、びっしりと記入されていた。



 たとえば、「朝6:40、キス」。

 それが“毎日決まっている”というだけで、胸の奥がざわめいた。

 他にも、「会話、最低5分」「手を繋いで祈る」……。

 文字のひとつひとつが、祈りのようで、呪いのようだった。


 


 他にも、曜日によっては“おやつを選ぶ日”や“ハグの回数を増やす日”も設定されていた。


 そのすべてが、色分けされていて、整然と、否応なく、そこに存在していた。


 


 「……これ、全部……守らなきゃ、ダメ?」


 気づいたら、口に出していた。


 ミオはペンを握ったまま、少しだけ間を置いて、それから顔をこちらに向けた。


 「……ううん。守らなくても、ユウが壊れないなら、別にいいんだよ」


 そう言いながら、目を伏せた。


 「でも……わたし、すごく考えたんだよ。どうすれば、ユウが毎日ちゃんと笑えて、ちゃんと呼吸できて、ちゃんと生きていけるか。

 だから、これ……わたしの“おまもり”みたいなものなの」


 ペンの先で、曜日の枠をそっとなぞりながら、ミオは微笑んだ。


 「ユウのため、だけど、……わたし自身のためでも、あるのかもね」


 その笑顔は、とても優しかった。

 だけど――何かを封じ込めるような、祈るような、そんな悲しさが混ざっていた。


 


 それを否定することが、なぜか“ひどいこと”のように感じられた。


 


 僕は、それ以上なにも言えなかった。


 代わりに、ミオのそばに寄っていって、ボードを一緒に見上げた。


 整然と並んだ文字たちは、まるで“生活の聖典”みたいだった。

 この部屋にある唯一の、絶対的なルールブック。


 


 そしてきっと――


 このスケジュールが破られるとき、

 なにかが、本当に壊れてしまう気がした。


 ♢


 昼過ぎ、キッチンの椅子に腰掛けていると、ミオが窓のそばで洗濯物をたたんでいた。


 白いTシャツ、薄手のワンピース、フェイスタオル。

 すべての折り目がぴたりと揃っていて、布の繊維まで呼吸しているようだった。


 その背中を見ていて、ふとスケジュールのことを思い出した。


 「昼:目を見て微笑む」


 壁に貼られたホワイトボードの項目が、記憶の中で滲んだ。


 ……守る意味なんて、本当はよくわかっていなかった。

 でも、守った方がきっと“平穏”でいられる気がした。


 僕は立ち上がり、そっとミオに近づく。


 洗濯かごを手にしたミオが振り返る前に、視線を合わせる。


 目を、見つめる。


 そして、笑った。


 


 ミオは一瞬、まばたきをしてから、ふわりと微笑み返した。


 「……あ」


 彼女は唇をほんの少し尖らせ、そして笑みを深めた。


 「えらいね、ユウ。ちゃんとできたね」


 そう言って、ミオは僕の頬に手を添え、軽く唇を重ねてきた。

 柔らかくて、甘くて、ほんの少し湿っていた。


 


「ごほうび……よくできたね、ユウ」

 そう囁いた彼女の声には、どこか“条件付きの愛情”が滲んでいた。

 僕がちゃんと応えたからこそ、もらえた優しさ。

 ……そのことに気づいてしまったとき、胸の奥で、なにかが小さく軋んだ。


 


 “ごほうび”。


 そう呼ばれたものが、こんなに静かでやさしいものだったことが、少し不思議だった。




 夜。


 布団の中で、ミオと手を繋いで横になっていた。

 暗い部屋の中、ミオの指先はいつもより少しだけ、強く絡んできた。


 「今日のユウは、とても良い子だったね」


 その声は、母親のような、恋人のような、どちらでもない何かのようだった。


 褒められているのに、心がふわふわしていて、落ち着かなかった。

 それでも、嫌ではなかった。


 


 「子ども扱い……されてるのかな」


 そう呟こうとして、喉で言葉が溶けた。


 ――いや、違うかもしれない。


 もしかして僕は、“そうされたい”と思っているんじゃないか。

 ちゃんと褒められて、認められて、撫でられて。

 自分の存在が“よかったもの”として扱われることに、救われてるんじゃないか。


 


 ミオが、僕の身体を撫でるように引き寄せてきた。


 そのまま、キスが落ちる。

 静かに、何度も、唇が触れては離れた。


 やさしくて、でも確かに“求めてくる”ような触れ方だった。


 


 「あのね、ユウ。今日は、特別な日だよ」


 


 そう言いながら、彼女は布団の上で僕の身体に指を這わせてくる。


 肩に、腕に、胸に。

 触れるたび、息が浅くなっていく。


 


 服を脱がされるとき、僕はなにも言わなかった。


 ただ、なにも考えられなかった。


 キスと撫でる音と、ベッドが軋む静かな音が、部屋の中を満たしていった。


 


 ミオの動きは、決まった儀式のように整っていて、

 どこかで“今日という一日を完了させるための手続き”にすら感じられた。


 でも、それが嫌じゃなかった。


 受け入れていた。

 受け入れることで、たしかに“愛されている”気がしていた。


 


 そして、気づいてしまった。


 


 そう、ちゃんとできれば、ごほうびがもらえる。――それって、悪いことじゃないよね?


 


 そう思った瞬間、胸のどこかで、何かがやわらかく崩れた。


 だけどその崩れた場所に、

 ミオがそっと、手を添えてくれたような気がした。


 ♢


 朝だった。


 天井の色が、昨日よりもやわらかく見えた。


 いつもなら、ミオの声で目が覚めるはずだった。

 けれど今日は、まだその声が聞こえてこなかった。


 時計を見ると、六時半を過ぎていた。


 カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の輪郭を白く浮かび上がらせていた。

 その光の中で、ミオは布団の中に背を向けて、小さく丸まって眠っていた。


 呼吸は浅く、静かだった。

 肩が、ゆっくりと上下していた。


 


 “朝のキス、しないと始まらないよ”


 昨日、そう言われた言葉が、ふと脳裏に滲んだ。


 今日は、言われなかった。

 でも、僕の中には、それが“必要な手順”としてすでに刷り込まれていた。


 キスで始めなければ、今日は始まらない。

 そう思ったのは、彼女のため――だったのだろうか。

 それとも、僕のためだったのか。


 


 静かに身体を起こす。

 シーツの音すら立てないように。

 彼女の寝息を乱さないように。


 


 布団の端に手をつき、そっとミオの顔を覗き込む。

 眠っているときの彼女の横顔は、無防備で、少しだけ子どもっぽかった。


 頬にかかる髪を指でそっとよける。


 


 それから――額に、唇を押し当てた。


 長く、優しく、ためらいなく。


 それは“キス”というより、“儀式”のようだった。


 


 触れた瞬間、ミオがゆっくりと目を開けた。

 その瞳はまだぼんやりしていて、現実の輪郭をつかみきれていなかった。


 けれど、僕の顔を見た瞬間、はっきりと――笑った。


 驚きと、幸福と、ほんの少しの戸惑いが混じった、やわらかな笑みだった。


 


 「……ユウが、起こしてくれたの?」


 


 うなずくと、ミオは腕を伸ばして僕を抱き寄せた。

 眠気の残る力加減で、ふわりと胸に引き寄せられる。


 


 「うれしい……すごく、うれしいよ。

 わたし、今日のユウ、大好き」


 


 言葉が、胸の奥にすっと沈んでいった。


 叱られなかった。

 間違ってなかった。


 むしろ――褒められた。


 


 その瞬間、僕は気づいてしまった。


 “自分から”行動して、

 “望まれたこと”を満たすことで、

 “愛される”ということに。


 


 誰かに選ばれたいわけじゃない。

 ただ、誰かに必要とされて、肯定されて、褒めてもらえることが、こんなにも温かいのだと。


 そう気づいたとき、

 ルールが、縛りじゃなくなった。


 


 守らなければいけないもの、ではなく――

 守りたくなるものに変わっていった。


 ♢


 たとえば、昼食のとき。


 僕が「ありがとう」と言ったら、ミオはほんの一瞬きょとんとして、そして満面の笑みを浮かべた。


 「……どうしたの、急に?」


 照れくさくなって、「ううん、なんとなく」と返すと、ミオは微笑みながらフォークを置いた。


 「うれしいな。言葉にしてもらえるって、こんなに幸せなことなんだね」


 その横顔は、まるで“報酬を得た人”のように満たされていた。


 


 午後。


 “外の空気を吸う”と決められた時間。


 僕たちは窓を開けて、ほんの少しだけ風を感じていた。


 どこからか鳥の鳴き声が聞こえる。


 ミオはそれに気づくと、目を細めて、「聞こえた? ね、今の声」と僕に問いかけてきた。


 「うん、聞こえた。きれいな声だった」


 そう返すと、ミオは安心したようにうなずいた。


 「ユウが、同じものを感じてくれると、すごくうれしいよ」


 言葉のあとに、手が触れてくる。

 それはただの接触じゃなく、“感覚の共有”を確認するような、静かな祈りだった。


 


 夕方。


 “音楽を聴く”時間。


 Bluetoothスピーカーから流れるのは、どこか昔の映画みたいな、静かなピアノだった。


 ミオは僕の隣で、目を閉じている。


 僕も、ただ隣にいて、音を聴いていた。


 なにかをするわけじゃない。

 なにかを語るわけでもない。


 それでも、この“決められた静けさ”が、僕たちの間を守ってくれているように感じた。


 このリズムが崩れたら、たぶん、すべてが音を立てて壊れてしまう――そんな気がしてならなかった。


 


 夜。


 “手を繋いで、今日のよかったことを言う”。


 ベッドの中、ミオがこちらに顔を向けて、少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。


 「えっと……わたし、今日のユウの“おはようのキス”、すごく嬉しかった」


 彼女の指が、そっと僕の指に絡む。


 「……それが、今日のいちばんよかったこと」


 僕は、少しだけ黙ってから言った。


 「僕は……朝、ミオが笑ってくれたこと」


 言葉にしたとたん、胸の奥でなにかがふわりとやわらかくなった。


 ミオは、目を細めたまま小さくうなずいた。


 「ね、明日も、ちゃんと守ろうね」


 その言葉には、お願いでも命令でもなく、“ふたりの秘密”のようなぬくもりがあった。


 ミオの声が消えたあと、少しだけ静寂が戻ってきた。


 けれど、ふたりの間に流れていたのは“沈黙”じゃない。

 言葉がなくても、交わしている感情があった。

 まるで、ふたりの鼓動が、会話をしているかのように。


 僕は目を閉じたまま、ミオの手の温もりを感じていた。

 そのぬくもりは、ただ体温としてのそれではなく、

 何かを“差し出されている”ような、強く静かな圧力を帯びていた。


 「ねえ、ユウ」


 ミオがもう一度、小さく囁いた。


 「もしさ、わたしが、明日いなくなったら……ユウは、どうする?」


 心臓が、ひとつ大きく脈打つ音がした。

 すぐに冗談だと気づいたけれど、それでも息が詰まった。


 「……そんなこと、考えないで」


 僕がそう答えると、ミオはふっと微笑んだ気配を見せた。


 「うん、ごめん。……でもね、たまに、怖くなるの。

  “わたしがいない世界で、ユウがちゃんと生きられるか”って」


 その言葉には、彼女自身の不安と、そして、信仰にも似た願いが宿っていた。


 「だからね、わたし、毎日祈ってるの。

  “明日も、ふたりでいられますように”って。

  それはわたしの祈りだけど、ユウのことを縛ってしまってるのかもしれないって、たまに思うんだ」


 僕は、そっと彼女の額にキスを落とした。


 「……そんなこと、ないよ。

  祈ってくれて、ありがとう。

  僕は……その祈りに守られて、生きてるから」


 ミオの目から、ひと粒、涙がこぼれた。

 それを拭おうとした指先に、彼女は唇を重ねてきた。


 「うれしい。……ユウがそう言ってくれて、ほんとにうれしいよ」


 ぬるくてやわらかい静けさに、ふたりの呼吸が溶けていく。


 その夜、眠るまでのあいだ――僕たちは、何も話さなかった。


 いつ眠ったのか、正確には覚えていない。

 ただ、まぶたの奥で、光の粒がゆっくりと揺れていたことだけは、はっきりと覚えている。


 ――その光が、朝だった。


 白く、やさしく、どこか祈るように射し込んでくる光。

 僕はまだ目を開けられないまま、その感触だけを頼りに“世界”を確かめていた。


 右手には、ミオの手のぬくもり。

 ぴったりと絡められた指は、まるで“僕”と“彼女”の境界を縫いとめているかのようで。

 そこからゆっくりと伝わってくる体温に、静かに満たされていった。



 (このまま、名前を持たずに生きていけたらいい)


 そんなことを、ふと、思った。


 “わたし”や“きみ”や“ユウ”や“ミオ”という輪郭が、いまはただの飾りのように思えた。

 ただ、ここにある呼吸と体温と、それだけが真実だった。


 まるで、祈りのように――この朝が、終わらなければいいのに。


 ……ほんの一瞬だけ、カーテンの隙間から、風の音が聞こえた気がした。

 それは外界の気配だった。

 名前も知らない通行人の靴音か、あるいは誰かが自転車のブレーキをかけた音だったのかもしれない。


 でも、わたしは、耳を塞がなかった。

 少しだけ――ほんの少しだけ、その音が懐かしいと感じてしまったから。


 それはたぶん、“わたし”という形を失う前の、名残だったのだろう。


 けれど、ユウが目を開けた。

 まっすぐにこちらを見て、小さく囁いた。


 「おはよう、ミオ」


 その声が、すべてを打ち消した。

 外の音も、不安も、懐かしさも――この部屋の外側にある、すべてを。


 わたしは微笑んで、彼の手を包み込むように握った。


 「ううん……“おはよう”じゃないよ。これは、“感謝の朝”なの」


 わたしたちだけの、わたしたちのための朝。

 祈りのリズムに満ちた、“世界の始まり”だった。



 名前を捨てることが、こんなにも静かで、優しいことだとは思わなかった。

 怖いくらいに、すべてが滑らかだった。


 “僕”という形が曖昧になっていくたび、

 “彼女の中のわたし”が、はっきりと輪郭を持ち始める。


 名前には、“外”があった。

 呼びかける声、名乗る場面、名札、記憶……。

 でも、ここには、それが必要な場所はひとつもない。

 ミオが“ユウ”と呼ぶとき、

 それは「この世界での、わたし」への祈りのようだった。


 名前を持たないということは、

 誰にも探されないということ。

 誰かの記憶の中で“存在しないもの”になっていくということ。


 それでもいまは――

 “ここにいる”という実感だけで、生きていける気がした。


 たとえば言葉。

 たとえば笑い方。

 たとえば祈るように手を組む癖さえ――いつの間にか、似てきていた。


 でも、不思議と、それが苦ではなかった。


 それどころか、

 「これでいい」と、

 心のどこかで“赦された”ような感覚さえあった。


 名前がなければ、誰にも呼ばれずに済む。

 誰かのものにもならずに済む。

 ――僕は、もうずっと、彼女の中にいればいい。


 そんなふうに思えた。

 思えてしまったことが、少しだけ、怖かった。


 いつ眠ったのか、正確には覚えていない。

 ただ、まぶたの奥で、光の粒がゆっくりと揺れていたことだけは、はっきりと覚えている。


 ――その光が、朝だった。


 白く、やさしく、どこか祈るように射し込んでくる光。

 僕はまだ目を開けられないまま、その感触だけを頼りに“世界”を確かめていた。


 でも、手はずっと、つながれたままだった。


  朝になって、目を覚ましたとき――最初に感じたのは、ミオの呼吸のリズムだった。


 背中にあたるあたたかさ。ゆっくりと上がって、下がる息の動き。

 そのテンポに合わせて、僕の胸のうちも静かに整えられていく。


 きっとこれは、昨日の“祈り”の続きなんだ。

 そう思うと、少しだけ笑みがこぼれた。


 ミオが眠っているあいだも、僕は“彼女のリズム”で目覚めていた。

 まるで、もう僕自身の中に、彼女の“時間”が流れているみたいに。


 そっと身体をひねって、彼女の顔を見た。

 まぶたの動き、かすかな寝息。

 そのひとつひとつに、“自分の一部”を見るような感覚があった。


 ――僕は、ちゃんとミオの中で生きている。

 そして彼女も、僕の中で呼吸している。


 そんなふうに思えた朝は、

 なぜか、とても静かで、やさしい朝だった。


 スケジュールは、確かにルールだった。


 でも、それは、ふたりだけの祈りの形でもあった。


 信仰のように繰り返される毎日の中で――


 僕は、ようやく「ここにいてもいい」と思えるようになっていった。

 


 ミオは、そのまま目を閉じた。


 微笑みながら、僕の名前を、夢の中で呟くように呼んだ。


 


 “ユウ”


 


 朝の光が、カーテンの隙間からふたりに差し込んでいた。


 その光は、どこまでも静かで、

 まるで世界が“祝福”しているみたいだった。





 “愛し方”を教わったのは、きっと、僕のほうだった。


最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。


この話は、「ふたりだけの世界」とは何かを、自分なりに突き詰めて描いた物語でした。


誰かを“愛する”という行為が、ときにどこまで優しくて、どこまで残酷なのか。


守ることと縛ること、願うことと支配すること、その境目が静かに溶けていく感覚――

それが、この作品全体に流れる“祈りのリズム”として描けていれば幸いです。


読み終えたあとに、少しでも胸に何かが残ってくれたら、それだけで報われます。


よければ、感想やレビューなど、お聞かせいただけると嬉しいです。


次の話でも、また静かに、深く、心に触れられる物語を綴っていけたらと思います。


それではまた、別の祈りの中でお会いしましょう。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ