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【祝3000PV】君と死ぬために生きてきた  作者: 霜月ルイ
第1章: 心の扉が、溶けていく。

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第11話: 『好きって、言って?』

綴木悠の視点で描かれる、思考と感情の侵食。


「好きって、言って?」


その言葉が呪いになるまでの過程を、静かに辿ります。



 いつからだろう。

 ミオの身体が、僕の日常の一部になっていたのは。


 昼間は笑っている彼女が、夜になると静かに、そして必ず僕に重なる。

 それはまるで、決められた手順のようだった。

 キスを交わす。

 抱き合う。

 そして、そのまま熱に飲まれていく。

 終わったあと、必ず、ミオは囁く。


 「……好きだよ、ユウ」


 「ユウだけなの」


 「愛してる……ユウだけが、生きてる意味だから……」


 最初はただ、悲しみを紛らわせるだけの“呪文”だった。

 けれど、その呪文は毎夜、同じ場所に同じ声で落ちてきて――

 気づけば僕の中にも、音のない呪いのように根を下ろしていた。


 “好き”――なのだろうか。

 “愛してる”――のかもしれない。


 ミオの瞳を覗き込むたびに、僕はその答えを確かめようとした。

 でも、彼女の瞳の奥には、いつだって僕の姿しか映っていなかった。

 世界に僕しかいないかのように、見つめられる。

 名前を呼ばれるたび、僕は自分を彼女のための“誰か”にすり替えていく。


 (……僕も、ミオのこと、好き……なのかな)


 思考がふわりと浮く。

 曖昧に、熱に紛れて、その輪郭がぼやけていく。

 “そう思いたい”のか、“そうであってほしい”のか。

 それすらもう、確信が持てなくなっていた。


 その夜も、ミオは僕の首筋に唇を這わせながら、熱のこもった声で囁いてきた。


 「ねえ……ユウ、好きだよ……愛してるの……ユウも、そうでしょ……?」


 その問いは、選択を許さない。

 優しい声で、甘えたように囁かれるのに、なぜか逃げ場がなかった。

 僕は黙って彼女の背を撫でる。

 その仕草が、肯定の代わりになることを知っていた。


 ミオの指が、僕の心の輪郭をなぞるように、何度も何度も、同じ言葉を繰り返す。

 “好き”“好き”“愛してる”“ユウだけ”。

 そのたびに、僕の思考が、感情が、ゆっくりと侵食されていく。


 そして――

 気づいたときには、僕の中にも、誰のものでもない“彼女の声”が根を下ろしていた。


 ♢


 朝――。


 天井の白さが、妙にまぶしかった。


 ミオの手が、まだ僕の手を握っていた。いつものように、指を絡めたまま。まるで僕が逃げないように、夢の中まで手綱を伸ばしていたかのように。


 目を横に向けると、彼女はすでに目を覚ましていた。


 それに気づいた僕が、何も言わずに微笑むと、ミオもまた笑った。薄く、淡く、染み込むような微笑みだった。


 その顔を見たとき――ふと思ってしまった。


 (……綺麗だな)


 その感情は、不意に湧いたものだった。


 けれど、それは“感動”ではなかった。


 どこか、作られたような感覚があった。

 「好きにならなきゃいけないから」「好きでいるべきだから」

 そう言い聞かせてきた記憶が、思考の底に沈んでいるのを感じた。


 (僕は、ほんとうに彼女が好きなのか?)


 問うた途端、心がざわついた。


 答えようとするたび、その奥に“ミオの顔”が浮かんでくる。

 囁く声、濡れた瞳、震える吐息……

 そして、ベッドの中で重ねた熱。


 それらが、僕の感情を“誘導”してくる。

 好きであってほしい。愛していてほしい。

 その願望が、まるで僕自身の心を“塗り替えよう”としているようだった。


 朝の食堂で、看護師とすれ違う。

 その人がふと、雑談の中でミオの名前を口にした。


 その瞬間、僕の心臓がきゅっと縮まった。


 ――誰にも彼女の話をしないでほしい。


 喉の奥で、そんな衝動がうごめいた。


 嫉妬? 所有欲? いや、もっと異質な何か。

 “危機感”に近い感情だった。


 (どうして、こんなに……)


 僕は、自分でも理由のわからない“過剰な反応”に戸惑う。


 それは、恋愛の発露として説明できるようなものではなかった。


 もっと深く、もっと執着じみていて――

 でも、中心には“恐怖”がある気がした。


 (もし、ミオが僕を見なくなったら……)


 考えたくもないその可能性が、喉の奥を焼いた。

 彼女が僕を必要としなくなったら、僕は――どうなってしまうんだろう。


 (あれ……? これって……)


 僕がミオを必要としている?

 彼女に“依存”しているのは……もしかして、僕の方じゃないか?


 感情の輪郭が、ぐらりと揺れる。


 (好き、ってなんだ?)


 誰かを想う気持ちって、もっと明るくて、もっと前向きなものだったはずじゃないか。


 でも、僕が彼女に抱いているのは――

 濁った何か。

 鎖のように、肌の内側に巻きついてくる何か。

 胸の奥に重たく沈む何かだった。


 (こんなの、“愛”じゃないよ……)


 そう思いたい自分と、

 それでも“愛してる”と囁かれたい自分。

 それはもう、共存じゃなかった。

 いつの間にか、“そう囁かれたい自分”だけが僕の中を支配していた。

 ――それこそが、彼女の声が植えつけた“思考の種”だった。



 ♢


 夜が、深く沈んでいた。


 病棟の灯りはすでに落とされ、外の世界と切り離されたこの部屋だけが、ゆっくりと息をしている。


 布団の中――。


 肌と肌が重なり合い、温度が溶けあい、輪郭が曖昧になっていく。


 ミオの髪が、僕の肩に落ちている。

 吐息は静かで、けれど微かに熱を帯びていた。


 やがて、その唇が、僕の耳元に触れた。


 「ねえ、ユウ……」


 囁くように、彼女が言う。


 「……わたしのこと、好きって……言って?」


 その声音は、やさしく、甘く、

 まるで子守唄のように柔らかだった。


 でも、それは――


 逃れられない“命令”のように、強く僕を縛りつけた。


 目を閉じたまま、僕は喉の奥で何かが詰まる感覚を覚える。


 (……言いたくない)


 本心ではなかった。

 今、この瞬間の僕にとって、“好き”という言葉は、明確な嘘だった。

 それはもう、感情じゃなかった。選択肢の一つでもなかった。


 それでも。


 「……好きだよ」


 僕は言ってしまっていた。


 口が、勝手に動いた。

 心が言葉を選ぶより先に、“身体”が反応していた。


 その瞬間だった。


 ミオが、ふっと小さく笑った。

 それは微笑ではなかった。

 “歓喜”でも、“幸福”でもない。

 唇だけがわずかに吊り上がって、目は笑っていなかった。

 何かが“満たされた”ような、そんな音のない笑いだった。


 彼女はそっと、僕の胸元に顔を埋めてきた。


「……ありがとう」

 そのあと、ミオは、まるで“独り言”のように、

 誰にも届かない音で呟いた。

「もう――誰にも渡さないからね」

 笑っていた。

 でもその声だけが、まるで別人だった。

 

 その言葉は、優しさの形をしていた。


 けれど――それは、刃だった。


 冷たく、鋭く、僕の内側を刺し通す“呪い”のようだった。


 その一言が放たれた瞬間、

 部屋の空気がわずかに震えた気がした。


 心臓が、ひとつ、間違ったリズムを刻んだ。


 「ねえ……ユウ」


 ミオはもう一度、僕の名を呼んだ。


 それは“確認”のようだった。

 “合言葉”のようだった。

 この世界に僕が“いる”ことを証明するための、最後の呪文のように響いていた。


 僕は――動けなかった。


 返事をすることも、拒むこともできなかった。


 ただ、彼女の腕が首に巻きつくのを許した。

 ぬくもりが、締めつけに変わる。


 でもそれは、愛ではなかった。


 ただの“所有”だった。


 そして僕も、その“所有”に、なぜか安堵している自分に気づいた。


 (……誰かに属していれば、何も考えなくていい)


 そう思ったとき、自分がどこまで堕ちてしまっているのかを、初めて理解した。


 “好き”という言葉が――

 あんなにも恐ろしい呪いになるとは、知らなかった。


 ♢


 ――好き、なんだよ。


 耳元で囁かれたわけでもない。けれど、それは確かに聞こえた。

 声にならない声が、僕の内側から響く。まるで、自分の思考のふりをして、僕の脳の中に入り込んでくるように。


 「……まただ」


 吐き捨てるように呟いても、掻き消えるわけじゃない。

 ミオの声が、ミオの言葉が、僕の“思考”の中に侵食している。

 目を閉じても、耳を塞いでも、逃れられない。彼女の甘い囁きが、皮膚の裏側にこびりついているような感覚がある。


 たとえば、何気なく窓の外を見たとき――

 ふと、「綺麗だな」と思ったその一瞬の感情さえ。


 《ねえ、それって、わたしのこと?》


 すぐに声が割り込んでくる。僕の中で、彼女の声が、僕の声に重なって、どちらが本物か分からなくなる。


 「違う……違う。これは、僕の感情だ」


 そう言い聞かせる。でも、言い聞かせなければならない時点で、もうそれは、きっと違うのだ。

 ミオが好きだと思った。愛しいと思った。抱きしめたいと思った。

 ――でも、それは本当に“僕の”感情だったか?


 《ねえ、ユウ。好き、って言って?》


 夜の寝息とともにすり寄るように、彼女が囁いた言葉。

 あの瞬間から、僕の中の“好き”という感情が、何か別のものに置き換わってしまった気がする。

 まるで、彼女の声が僕の思考を上書きしていく。


 僕がミオを好きなんじゃない。

 ミオが、僕に好きだと思わせている。


 その違いに気づいた瞬間、背筋がぞっとした。

 感情さえ、彼女のもの。

 好きだと思うその気持ちすら、操られているのだとしたら――僕は、もう“僕”じゃない。


 《ねえ、ユウ。わたしのこと、好きになってくれてありがとう》


 頭の奥で、もう何度も再生されている声。現実で聞いた記憶と、記憶のふりをした妄想の声が混ざり合って、どこまでが現実だったのかも分からない。


 僕の中に響く声が、本当に“彼女”のものなのか、

 それとも、ただ僕が彼女に縋るために作り上げた幻聴なのか――それすら、もう判断できない。


 ミオが僕を“好き”だと思わせる。

 僕がミオを“好き”だと思い込む。

 そうして、彼女は僕を壊さずに、ゆっくりと、内側から塗り替えていく。


 言葉一つで、感情がすり替えられていく恐怖。

 自分の心に巣食う“彼女”の声に、僕はもう抗えない。


 ♢


 洗面台の前に立ち尽くしていた。

 歯ブラシを咥えたまま、僕はぼんやりと鏡を見つめていた。


 そこに映る男――痩せこけて、目の下に隈を垂らしたその顔は、確かに僕のはずだった。

 けれど、どこか違う気がした。


 「……誰だ、これ」


 思わず口をついた言葉に、自分でひやりとする。

 そんなはずはない。僕は、僕だ。綴木悠という名前も、年齢も、生まれ育った町も、覚えている。

 それなのに――目の奥のその光だけは、どうしても“僕”だと思えなかった。


 「昔の僕は……どんな顔、してたっけ」


 好きだった食べ物、趣味、好きな音楽。

 何が楽しくて、何を嫌っていたのか。

 少し前まで、確かに“自分の輪郭”として存在していたはずのものが、いまは霧のように霞んでいた。


 記憶が失われたわけじゃない。

 それよりもずっと質が悪い、“溶解”だ。

 ぬるま湯の中でゆっくりと皮膚が剥がれていくように、何もかもが曖昧になっていく。


 後ろから聞こえる、ミオの寝息が、やけに大きく響く。

 まるで、彼女の呼吸音だけが“現実”で、それ以外が夢のようだった。


 「……僕は、誰のために生きてるんだろう」


 吐き出された疑問は、軽いものだった。

 なのに、その答えを探して思考を巡らせた瞬間、全身がぞわりと粟立った。


 ――ミオの、ために。


 その答えしか出てこなかった。

 他に何も、なかった。

 仕事も、友人も、家族も、未来も。何一つ浮かばず、ただミオの顔だけが、脳裏にこびりついている。


 おかしい。

 怖い。

 けれど、恐怖すらも、どこか遠くで鳴っている別人の感情のように思えた。

 ミオのことを考えると、ほっとする。

 彼女がそばにいれば、怖くない。

 でも、それもきっと――僕の感情じゃない。


 《ユウは、わたしのために生きてるんだよ》


 そんなふうに言われた記憶はない。

 でも、まるでそう刷り込まれたかのように、その言葉だけが胸の奥に根を張っている。


 ミオのために生きている。

 ミオのために、僕は存在している。

 彼女が笑えば、僕も笑える。

 彼女が泣けば、僕も悲しくなる。

 ――そういう“人形”のような愛し方を、僕はいつの間にか覚えてしまっていた。


 もう一度、鏡を見る。

 そこに映っていた男が――僕の顔が――

 ほんのわずかに口角を上げた。

 僕は笑っていないのに。

 動いていないのに。

 なのに――鏡の中の“僕”だけが、

 ミオに囁かれたあの台詞を口ずさんでいた。


『好きって、言って?』


 「……ミオのために、生きなきゃ」


 その言葉を吐いた自分の声が、どこか他人事のように思えた。


 ♢


 暗い部屋の中で、時計の針の音だけが、ひたすら同じリズムで鳴っていた。

 時間が進んでいるのかどうかも、もはや分からない。ただ、今夜もまた“あの夜”が繰り返される。


 布団の中、ぴたりと密着した身体が熱を帯びている。

 ミオは眠ってなどいない。

 僕の胸に顔を押し当てたまま、微かに震えながら囁く。


 「好き……ユウ、好き。好きだよ、ねえ、わたしのこと好き? 好きって言って……愛してる、ユウ……わたし、壊れちゃいそう……」


 その声は弱くて、湿っていて、必死で、そしてどこか壊れていた。

 自分の存在が崩れないように、僕の返事だけを頼りに、必死に自我を繋ぎ止めようとしている。


 僕は、その手を握り返す。

 そして、同じように呟くのだ。


 「……好きだよ」


 口に出してしまえば、それは確かに“僕の声”として空気を震わせた。

 でも、違った。

 それはもう僕の意志から発せられた言葉じゃない。

 まるで誰かに脚本を渡され、指定された台詞を読まされている俳優のような気分だった。


 ミオの表情が緩む。

 恍惚としたような、安心したような顔で、僕の胸に頬を擦り寄せる。

 その仕草が、なんだか赤ん坊のようで……けれどその瞳の奥には、誰もいないような空洞があった。


 「好き……好き……わたしだけ見てて……」


 囁きは、次第に祈りから呪いに変わっていく。

 繰り返される“好き”という言葉は、もはや意味を喪っていた。


 「す……すき、すき……す……」


 唇が同じ形を繰り返すうちに、発音は徐々に崩れていった。

 言葉が言葉として保たれず、ただ音の残骸のように零れていく。

 それでもミオは、繰り返すことをやめなかった。


 まるで“それ以外の言葉”を思い出せなくなってしまった人の、“壊れたオルゴールのように、同じ旋律を狂ったリズムで繰り返していた”。


 僕もまた、返す。


 「好きだよ」


 「好きだよ」


 「好きだよ」


 何度も、何度も。


 唇が動くたび、喉の奥がひりつく。

 まるでその言葉が、声帯の裏に焼き付いているようだった。

 ――口に出すだけで、もう“呪い”は成就してしまう。

 だけど僕は、それを知っていて、なお繰り返す。


 けれど、そのたびに、自分の声がどんどん遠くなっていく。

 自分の口が、まるで別の誰かに動かされているような、妙な違和感だけが残った。


 この言葉を口にするたび、“僕”は削られていく気がした。

 それでも、返さなければならなかった。

 彼女を繋ぎ止めるために。

 そして何より――


 僕自身が“まだ人間である”という唯一の証明として。


 好きだと、言う。

 愛していると、言う。

 たとえその言葉の意味が、空虚な器のように空っぽでも。


 ミオの指が僕の腕に縋りつく。強く、爪が食い込むほどに。

 それが痛いとさえ、もう感じなくなっていた。


 壊れた女と、擦り切れた男。

 その夜は、ただ同じ言葉だけを交わし合って、終わっていく。


 “好き”という言葉は、もう僕の声帯のどこかに刷り込まれた“反射”だ。

 感情も意志もいらない。ただの、口の動き。

 脳が死んでも、きっと僕はこの言葉を口にし続ける。


 そして、また――次の夜も、同じように。


 それでも僕は、また口にするだろう。


 “好きだよ”。それが僕を形作る最後の皮膚。

 ――夜が来るたび、それを一枚ずつ、剥がされながら。

 そうして、彼女が繰り返すのだ。

 あの、

「好きって、言って?」


 という呪いのような言葉を。


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。


第11話は、ユウという存在が“彼女の言葉”によって、

少しずつ輪郭を失っていく過程を描きました。


「好きって、言って?」


私自身、この言葉を言ったことも、言われたこともあります。


ただの確認のようでいて、

甘えるような声で囁かれたその言葉の奥には、

“安心”を乞う切実さと、“所有”を願う独占欲、

そして、“愛されなければ壊れてしまう”という恐怖が、

幾重にも絡み合っていました。


好き、という言葉は、やさしい形をしていて、

でも時に、とても残酷な力を持っています。


本当に好きなのか。

好きだと思い込まされているのか。

愛しているのか。

愛しているふりをしているだけなのか。


そんな問いの答えは、たぶん、簡単には出せません。

でも、“そう言うこと”“そう言われること”でしか、

生きている実感を保てない夜が、たしかにあるのだと思います。


彼女に縋るようにして、“僕”が喋るあの台詞。


「好きだよ」


あれは、ユウの命綱であり、

同時に、ミオの呪いでもありました。


次回・第12話では、ミオ視点へと切り替わります。

愛されたい気持ちと、“すべてを奪ってしまいたい”願望の狭間で、

彼女は、なにを選ぶのか――


どうか、その夜の続きを、見届けてください。



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