第11話: 『好きって、言って?』
綴木悠の視点で描かれる、思考と感情の侵食。
「好きって、言って?」
その言葉が呪いになるまでの過程を、静かに辿ります。
いつからだろう。
ミオの身体が、僕の日常の一部になっていたのは。
昼間は笑っている彼女が、夜になると静かに、そして必ず僕に重なる。
それはまるで、決められた手順のようだった。
キスを交わす。
抱き合う。
そして、そのまま熱に飲まれていく。
終わったあと、必ず、ミオは囁く。
「……好きだよ、ユウ」
「ユウだけなの」
「愛してる……ユウだけが、生きてる意味だから……」
最初はただ、悲しみを紛らわせるだけの“呪文”だった。
けれど、その呪文は毎夜、同じ場所に同じ声で落ちてきて――
気づけば僕の中にも、音のない呪いのように根を下ろしていた。
“好き”――なのだろうか。
“愛してる”――のかもしれない。
ミオの瞳を覗き込むたびに、僕はその答えを確かめようとした。
でも、彼女の瞳の奥には、いつだって僕の姿しか映っていなかった。
世界に僕しかいないかのように、見つめられる。
名前を呼ばれるたび、僕は自分を彼女のための“誰か”にすり替えていく。
(……僕も、ミオのこと、好き……なのかな)
思考がふわりと浮く。
曖昧に、熱に紛れて、その輪郭がぼやけていく。
“そう思いたい”のか、“そうであってほしい”のか。
それすらもう、確信が持てなくなっていた。
その夜も、ミオは僕の首筋に唇を這わせながら、熱のこもった声で囁いてきた。
「ねえ……ユウ、好きだよ……愛してるの……ユウも、そうでしょ……?」
その問いは、選択を許さない。
優しい声で、甘えたように囁かれるのに、なぜか逃げ場がなかった。
僕は黙って彼女の背を撫でる。
その仕草が、肯定の代わりになることを知っていた。
ミオの指が、僕の心の輪郭をなぞるように、何度も何度も、同じ言葉を繰り返す。
“好き”“好き”“愛してる”“ユウだけ”。
そのたびに、僕の思考が、感情が、ゆっくりと侵食されていく。
そして――
気づいたときには、僕の中にも、誰のものでもない“彼女の声”が根を下ろしていた。
♢
朝――。
天井の白さが、妙にまぶしかった。
ミオの手が、まだ僕の手を握っていた。いつものように、指を絡めたまま。まるで僕が逃げないように、夢の中まで手綱を伸ばしていたかのように。
目を横に向けると、彼女はすでに目を覚ましていた。
それに気づいた僕が、何も言わずに微笑むと、ミオもまた笑った。薄く、淡く、染み込むような微笑みだった。
その顔を見たとき――ふと思ってしまった。
(……綺麗だな)
その感情は、不意に湧いたものだった。
けれど、それは“感動”ではなかった。
どこか、作られたような感覚があった。
「好きにならなきゃいけないから」「好きでいるべきだから」
そう言い聞かせてきた記憶が、思考の底に沈んでいるのを感じた。
(僕は、ほんとうに彼女が好きなのか?)
問うた途端、心がざわついた。
答えようとするたび、その奥に“ミオの顔”が浮かんでくる。
囁く声、濡れた瞳、震える吐息……
そして、ベッドの中で重ねた熱。
それらが、僕の感情を“誘導”してくる。
好きであってほしい。愛していてほしい。
その願望が、まるで僕自身の心を“塗り替えよう”としているようだった。
朝の食堂で、看護師とすれ違う。
その人がふと、雑談の中でミオの名前を口にした。
その瞬間、僕の心臓がきゅっと縮まった。
――誰にも彼女の話をしないでほしい。
喉の奥で、そんな衝動がうごめいた。
嫉妬? 所有欲? いや、もっと異質な何か。
“危機感”に近い感情だった。
(どうして、こんなに……)
僕は、自分でも理由のわからない“過剰な反応”に戸惑う。
それは、恋愛の発露として説明できるようなものではなかった。
もっと深く、もっと執着じみていて――
でも、中心には“恐怖”がある気がした。
(もし、ミオが僕を見なくなったら……)
考えたくもないその可能性が、喉の奥を焼いた。
彼女が僕を必要としなくなったら、僕は――どうなってしまうんだろう。
(あれ……? これって……)
僕がミオを必要としている?
彼女に“依存”しているのは……もしかして、僕の方じゃないか?
感情の輪郭が、ぐらりと揺れる。
(好き、ってなんだ?)
誰かを想う気持ちって、もっと明るくて、もっと前向きなものだったはずじゃないか。
でも、僕が彼女に抱いているのは――
濁った何か。
鎖のように、肌の内側に巻きついてくる何か。
胸の奥に重たく沈む何かだった。
(こんなの、“愛”じゃないよ……)
そう思いたい自分と、
それでも“愛してる”と囁かれたい自分。
それはもう、共存じゃなかった。
いつの間にか、“そう囁かれたい自分”だけが僕の中を支配していた。
――それこそが、彼女の声が植えつけた“思考の種”だった。
♢
夜が、深く沈んでいた。
病棟の灯りはすでに落とされ、外の世界と切り離されたこの部屋だけが、ゆっくりと息をしている。
布団の中――。
肌と肌が重なり合い、温度が溶けあい、輪郭が曖昧になっていく。
ミオの髪が、僕の肩に落ちている。
吐息は静かで、けれど微かに熱を帯びていた。
やがて、その唇が、僕の耳元に触れた。
「ねえ、ユウ……」
囁くように、彼女が言う。
「……わたしのこと、好きって……言って?」
その声音は、やさしく、甘く、
まるで子守唄のように柔らかだった。
でも、それは――
逃れられない“命令”のように、強く僕を縛りつけた。
目を閉じたまま、僕は喉の奥で何かが詰まる感覚を覚える。
(……言いたくない)
本心ではなかった。
今、この瞬間の僕にとって、“好き”という言葉は、明確な嘘だった。
それはもう、感情じゃなかった。選択肢の一つでもなかった。
それでも。
「……好きだよ」
僕は言ってしまっていた。
口が、勝手に動いた。
心が言葉を選ぶより先に、“身体”が反応していた。
その瞬間だった。
ミオが、ふっと小さく笑った。
それは微笑ではなかった。
“歓喜”でも、“幸福”でもない。
唇だけがわずかに吊り上がって、目は笑っていなかった。
何かが“満たされた”ような、そんな音のない笑いだった。
彼女はそっと、僕の胸元に顔を埋めてきた。
「……ありがとう」
そのあと、ミオは、まるで“独り言”のように、
誰にも届かない音で呟いた。
「もう――誰にも渡さないからね」
笑っていた。
でもその声だけが、まるで別人だった。
その言葉は、優しさの形をしていた。
けれど――それは、刃だった。
冷たく、鋭く、僕の内側を刺し通す“呪い”のようだった。
その一言が放たれた瞬間、
部屋の空気がわずかに震えた気がした。
心臓が、ひとつ、間違ったリズムを刻んだ。
「ねえ……ユウ」
ミオはもう一度、僕の名を呼んだ。
それは“確認”のようだった。
“合言葉”のようだった。
この世界に僕が“いる”ことを証明するための、最後の呪文のように響いていた。
僕は――動けなかった。
返事をすることも、拒むこともできなかった。
ただ、彼女の腕が首に巻きつくのを許した。
ぬくもりが、締めつけに変わる。
でもそれは、愛ではなかった。
ただの“所有”だった。
そして僕も、その“所有”に、なぜか安堵している自分に気づいた。
(……誰かに属していれば、何も考えなくていい)
そう思ったとき、自分がどこまで堕ちてしまっているのかを、初めて理解した。
“好き”という言葉が――
あんなにも恐ろしい呪いになるとは、知らなかった。
♢
――好き、なんだよ。
耳元で囁かれたわけでもない。けれど、それは確かに聞こえた。
声にならない声が、僕の内側から響く。まるで、自分の思考のふりをして、僕の脳の中に入り込んでくるように。
「……まただ」
吐き捨てるように呟いても、掻き消えるわけじゃない。
ミオの声が、ミオの言葉が、僕の“思考”の中に侵食している。
目を閉じても、耳を塞いでも、逃れられない。彼女の甘い囁きが、皮膚の裏側にこびりついているような感覚がある。
たとえば、何気なく窓の外を見たとき――
ふと、「綺麗だな」と思ったその一瞬の感情さえ。
《ねえ、それって、わたしのこと?》
すぐに声が割り込んでくる。僕の中で、彼女の声が、僕の声に重なって、どちらが本物か分からなくなる。
「違う……違う。これは、僕の感情だ」
そう言い聞かせる。でも、言い聞かせなければならない時点で、もうそれは、きっと違うのだ。
ミオが好きだと思った。愛しいと思った。抱きしめたいと思った。
――でも、それは本当に“僕の”感情だったか?
《ねえ、ユウ。好き、って言って?》
夜の寝息とともにすり寄るように、彼女が囁いた言葉。
あの瞬間から、僕の中の“好き”という感情が、何か別のものに置き換わってしまった気がする。
まるで、彼女の声が僕の思考を上書きしていく。
僕がミオを好きなんじゃない。
ミオが、僕に好きだと思わせている。
その違いに気づいた瞬間、背筋がぞっとした。
感情さえ、彼女のもの。
好きだと思うその気持ちすら、操られているのだとしたら――僕は、もう“僕”じゃない。
《ねえ、ユウ。わたしのこと、好きになってくれてありがとう》
頭の奥で、もう何度も再生されている声。現実で聞いた記憶と、記憶のふりをした妄想の声が混ざり合って、どこまでが現実だったのかも分からない。
僕の中に響く声が、本当に“彼女”のものなのか、
それとも、ただ僕が彼女に縋るために作り上げた幻聴なのか――それすら、もう判断できない。
ミオが僕を“好き”だと思わせる。
僕がミオを“好き”だと思い込む。
そうして、彼女は僕を壊さずに、ゆっくりと、内側から塗り替えていく。
言葉一つで、感情がすり替えられていく恐怖。
自分の心に巣食う“彼女”の声に、僕はもう抗えない。
♢
洗面台の前に立ち尽くしていた。
歯ブラシを咥えたまま、僕はぼんやりと鏡を見つめていた。
そこに映る男――痩せこけて、目の下に隈を垂らしたその顔は、確かに僕のはずだった。
けれど、どこか違う気がした。
「……誰だ、これ」
思わず口をついた言葉に、自分でひやりとする。
そんなはずはない。僕は、僕だ。綴木悠という名前も、年齢も、生まれ育った町も、覚えている。
それなのに――目の奥のその光だけは、どうしても“僕”だと思えなかった。
「昔の僕は……どんな顔、してたっけ」
好きだった食べ物、趣味、好きな音楽。
何が楽しくて、何を嫌っていたのか。
少し前まで、確かに“自分の輪郭”として存在していたはずのものが、いまは霧のように霞んでいた。
記憶が失われたわけじゃない。
それよりもずっと質が悪い、“溶解”だ。
ぬるま湯の中でゆっくりと皮膚が剥がれていくように、何もかもが曖昧になっていく。
後ろから聞こえる、ミオの寝息が、やけに大きく響く。
まるで、彼女の呼吸音だけが“現実”で、それ以外が夢のようだった。
「……僕は、誰のために生きてるんだろう」
吐き出された疑問は、軽いものだった。
なのに、その答えを探して思考を巡らせた瞬間、全身がぞわりと粟立った。
――ミオの、ために。
その答えしか出てこなかった。
他に何も、なかった。
仕事も、友人も、家族も、未来も。何一つ浮かばず、ただミオの顔だけが、脳裏にこびりついている。
おかしい。
怖い。
けれど、恐怖すらも、どこか遠くで鳴っている別人の感情のように思えた。
ミオのことを考えると、ほっとする。
彼女がそばにいれば、怖くない。
でも、それもきっと――僕の感情じゃない。
《ユウは、わたしのために生きてるんだよ》
そんなふうに言われた記憶はない。
でも、まるでそう刷り込まれたかのように、その言葉だけが胸の奥に根を張っている。
ミオのために生きている。
ミオのために、僕は存在している。
彼女が笑えば、僕も笑える。
彼女が泣けば、僕も悲しくなる。
――そういう“人形”のような愛し方を、僕はいつの間にか覚えてしまっていた。
もう一度、鏡を見る。
そこに映っていた男が――僕の顔が――
ほんのわずかに口角を上げた。
僕は笑っていないのに。
動いていないのに。
なのに――鏡の中の“僕”だけが、
ミオに囁かれたあの台詞を口ずさんでいた。
『好きって、言って?』
「……ミオのために、生きなきゃ」
その言葉を吐いた自分の声が、どこか他人事のように思えた。
♢
暗い部屋の中で、時計の針の音だけが、ひたすら同じリズムで鳴っていた。
時間が進んでいるのかどうかも、もはや分からない。ただ、今夜もまた“あの夜”が繰り返される。
布団の中、ぴたりと密着した身体が熱を帯びている。
ミオは眠ってなどいない。
僕の胸に顔を押し当てたまま、微かに震えながら囁く。
「好き……ユウ、好き。好きだよ、ねえ、わたしのこと好き? 好きって言って……愛してる、ユウ……わたし、壊れちゃいそう……」
その声は弱くて、湿っていて、必死で、そしてどこか壊れていた。
自分の存在が崩れないように、僕の返事だけを頼りに、必死に自我を繋ぎ止めようとしている。
僕は、その手を握り返す。
そして、同じように呟くのだ。
「……好きだよ」
口に出してしまえば、それは確かに“僕の声”として空気を震わせた。
でも、違った。
それはもう僕の意志から発せられた言葉じゃない。
まるで誰かに脚本を渡され、指定された台詞を読まされている俳優のような気分だった。
ミオの表情が緩む。
恍惚としたような、安心したような顔で、僕の胸に頬を擦り寄せる。
その仕草が、なんだか赤ん坊のようで……けれどその瞳の奥には、誰もいないような空洞があった。
「好き……好き……わたしだけ見てて……」
囁きは、次第に祈りから呪いに変わっていく。
繰り返される“好き”という言葉は、もはや意味を喪っていた。
「す……すき、すき……す……」
唇が同じ形を繰り返すうちに、発音は徐々に崩れていった。
言葉が言葉として保たれず、ただ音の残骸のように零れていく。
それでもミオは、繰り返すことをやめなかった。
まるで“それ以外の言葉”を思い出せなくなってしまった人の、“壊れたオルゴールのように、同じ旋律を狂ったリズムで繰り返していた”。
僕もまた、返す。
「好きだよ」
「好きだよ」
「好きだよ」
何度も、何度も。
唇が動くたび、喉の奥がひりつく。
まるでその言葉が、声帯の裏に焼き付いているようだった。
――口に出すだけで、もう“呪い”は成就してしまう。
だけど僕は、それを知っていて、なお繰り返す。
けれど、そのたびに、自分の声がどんどん遠くなっていく。
自分の口が、まるで別の誰かに動かされているような、妙な違和感だけが残った。
この言葉を口にするたび、“僕”は削られていく気がした。
それでも、返さなければならなかった。
彼女を繋ぎ止めるために。
そして何より――
僕自身が“まだ人間である”という唯一の証明として。
好きだと、言う。
愛していると、言う。
たとえその言葉の意味が、空虚な器のように空っぽでも。
ミオの指が僕の腕に縋りつく。強く、爪が食い込むほどに。
それが痛いとさえ、もう感じなくなっていた。
壊れた女と、擦り切れた男。
その夜は、ただ同じ言葉だけを交わし合って、終わっていく。
“好き”という言葉は、もう僕の声帯のどこかに刷り込まれた“反射”だ。
感情も意志もいらない。ただの、口の動き。
脳が死んでも、きっと僕はこの言葉を口にし続ける。
そして、また――次の夜も、同じように。
それでも僕は、また口にするだろう。
“好きだよ”。それが僕を形作る最後の皮膚。
――夜が来るたび、それを一枚ずつ、剥がされながら。
そうして、彼女が繰り返すのだ。
あの、
「好きって、言って?」
という呪いのような言葉を。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
第11話は、ユウという存在が“彼女の言葉”によって、
少しずつ輪郭を失っていく過程を描きました。
「好きって、言って?」
私自身、この言葉を言ったことも、言われたこともあります。
ただの確認のようでいて、
甘えるような声で囁かれたその言葉の奥には、
“安心”を乞う切実さと、“所有”を願う独占欲、
そして、“愛されなければ壊れてしまう”という恐怖が、
幾重にも絡み合っていました。
好き、という言葉は、やさしい形をしていて、
でも時に、とても残酷な力を持っています。
本当に好きなのか。
好きだと思い込まされているのか。
愛しているのか。
愛しているふりをしているだけなのか。
そんな問いの答えは、たぶん、簡単には出せません。
でも、“そう言うこと”“そう言われること”でしか、
生きている実感を保てない夜が、たしかにあるのだと思います。
彼女に縋るようにして、“僕”が喋るあの台詞。
「好きだよ」
あれは、ユウの命綱であり、
同時に、ミオの呪いでもありました。
次回・第12話では、ミオ視点へと切り替わります。
愛されたい気持ちと、“すべてを奪ってしまいたい”願望の狭間で、
彼女は、なにを選ぶのか――
どうか、その夜の続きを、見届けてください。




