79話 安田留松
27年夏、思いがけなく、吉岡から便りが来た。
吉岡の妻女の従弟に当たるものが、不況で職を失って困っている。下男でも良いから預かってくれないかという内容だった。
正平の家は太助夫婦がいて、家事全般に不都合はないが、吉岡の遠縁となれば無下に断れない。
上京させて会うことにした。
名前は安田留松。8人兄弟で子沢山の為、最後の子供にするということで名付けられたと言う。
「貧乏人の子沢山」の例にもれず、安田も子供の時から酒屋の丁稚奉公に生かされた。
その後独立して、小田原で飲み屋を開いて、一時は盛況だったが、今度の不況で客足はぱったりと途絶え、店を畳んだと言う。
「今度の取り付け騒ぎで、開業するにもお金を貸してくれるところはありません。
一時でいいのですが、雇ってもらえれば、新たな職業を探したいと思っています」
小学校を卒業しただけなのに、話し方の筋が通り、世間の動きをしっかりと考えている。
まだ、25になったばかりで独立精神の盛んなことに正平は感心する。
「私の家には執事がいて家事は滞りなくしてもらっている。だから下男は必要しないが、妻の仕事を手伝ってもらえないか?」
何か、やってもらうことはないかと考えていると、ふと思いついた。
「奥様のお仕事とはどういうことですか」
「大学で女生徒を教えているが、妻は日本の女性の地位向上を考えている。
女生徒が卒業しても良い就職先がないことを心配している。
君に仕事先を見つけることをしてもらえないか?」
「はい。私自身が失業している状態ですが、お手伝いできることならやらせてください。
奥様を紹介していただけませんか?」
現れたメアリを見て安田は驚きの顔を隠せない。まさか正平の妻が外人さんだとは思って見なかったようだ。
「私は学校の女子生徒が卒業しても、良い就職先がないことを残念に思っています。生徒も良妻賢母になるために学校に来ており、勉学のために学校に入ってくる生徒は少ないです。女性の地位を向上するにはまず女性が自立できる良い仕事先を見つけることが一番なのです。」メアリが安田に懸命に説明する。
「女性の地位向上と言われますと、平塚らいてうのような運動なのでしょうか?」安田は地位向上と平塚などの女性運動家と結び付けたようだ。
「それは心配しなくていい。妻は単純に自分の教え子のほとんどが卒業すると、嫁いでいくのが残念思っているだけなのだ。折角、学校で学んでも、その知識を生かすことなく、嫁に行くことを残念おもっているだけだ。
今の日本女性の働き場所は学校の教師ぐらいの物だ。後はデパートの店員とか電話交換手など学がなくても務まるものばかりだ。その現状を何とか変えるためにも、会社などに働きかけて女性を雇ってもらえるようにと考えている。平塚らいてうのような社会運動とは別の者と考えていい」
「それを聞いて安心しました」
平塚らいてうは日本女性の地位向上を目指した女性活動家の先駆けと言える。文筆にも優れ、日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』の発刊に際して、『元始女性は太陽であつた』はことに有名だ。一方、恋愛にまつわるスキャンダルも起こしていて、新聞紙上で面白、可笑しく取り上げられ誤解もされることもあった。
安田が、平塚らいてうと関係があるのかと聞いたのは、そんな事情だった。
「個人で動いても、誰も相手にしてくれないだろうからメアリの大学を紹介する。その伝手を使って、活動を広げていけばよいだろう。しばらくは手元が不如意だろうから、これを渡して置く」正平は紙幣の入った封筒をだす。
「ありがとうございます。今の女性がどのような職業に就いているのか、調べます」安田は手近な所から、始めることにした。
彼は、月に2回ぐらいのペースでその活動内容を報告するようになった。




