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旭日に顔を上げよ  作者: 寿和丸
10章 改元
76/257

76話 鈴木商店

前話で少し、鈴木商店について触れたが、当時の日本経済を知るうえで、鈴木商店の成り立ちから倒産までの経緯は示唆にあふれているので触れてみたい。

今でこそ、鈴木商店と聞いてぴんとこない人も多くいると思われ、町中の普通にある商店と勘違いされそうだが、当時は三井や三菱と並ぶ大会社であった。筆者自身も何となく聞いた覚えもあるが、この小説を書き出して鈴木商店を知るようになった次第だ。


1974年、鈴木岩次郎が神戸に鈴木商店を開業し、順調に売り上げを伸ばしていき、12年後に金子直吉が丁稚奉公に入る。だが、94年に岩次郎が死去してしまう。ここで妻の「よね」は店を続けていくか、廃業するか迷ったが、ここで、直吉のすがるような眼差しを見て、存続を決意したと言われる。店はそのまま直吉と柳田富士松が番頭として切り盛りしていくことになった。


99年、台湾総督府長官だった後藤新平は樟脳の専売制度を目指していたが、これに反対する業者が団結して立ち往生していた。ここに直吉が反対業者の団結を切り崩してしまった。これにより、鈴木商店は樟脳油の販売権を取得するとともに、後藤ともつながりを持ち、やがて台湾銀行からも融資を受けるようになる。

1902年になって、個人商店だった鈴木商店は出資金50万円で合名会社鈴木商店となる。株式化しなかったのは直吉の考えで、株式を発行すれば株主からあれこれ言われるのが嫌だったと言われている。このあたりが、直吉の独特のセンスなのだが、株式化しなかったため、後に台湾銀行からの融資に頼らざることになり、経済環境の激変に対応できなかった一因でもある。

ただ、鈴木商店は次々と会社を買収して経営を拡大していく。


14年に大戦が始まると、鈴木商店は海外電報を駆使し戦況を分析して、戦争が長引くと判断して、世界中で鉄、砂糖、小麦など資金の限界まで投機的な買い付けを行った。開戦当時、殆どの人が「戦争は早く終わる」と予測していたのだが、全くの逆張りを行って大もうけをした。

情報を集め戦局を予測するのなら、数は少なくても正解を言い当てられた人はいただろう。しかし、資産の全てを投機にあてることなど、先ずできることではない。優れた分析力を持ち合わせた上に、大胆な投資判断。このあたり直吉の商才がいかんなく発揮していた。

しかも鈴木商店は日本を介さない三国間貿易を始めており、鉄鉱石や小麦など欧州各国に売り込み、売り上げは急拡大した。直吉はロンドン支店宛に「この戦乱に乗じ、三井三菱を圧倒するか、この二つと並んで天下を三分する」とまで記している。直吉の強気の自信がうかがえるものだった。


19年から20年は鈴木商店の全盛時で、売り上げは16億円に達し、当時の日本のGNPの1割を占めたとも言われ、三井三菱を遥かに凌駕していた。

戦争中にスエズ運河を通行する船舶の1割は鈴木商店ものであったと言われ、またヨーロッパ戦線において塹壕を組み上げた土嚢の袋には鈴木商店のロゴの付いた小麦袋が大量に使われていたのだ。

ただ成功する者には妬む者が必ず現れる。18年に鈴木商店の経営する神戸にあったミカドホテルが焼き討ちに遭ってしまった。これは大阪朝日新聞が米騒動に絡めて「鈴木商店が米を買い占めしている」と報道してことにより起きたものだった。しかし作家の城山三郎氏によれば「鈴木商店が米を買い占めた事実はなく、これは朝日新聞と三井の仕組んだ企み」と主張している。

筆者は何の歴史資料も持っておらず、城山説を正しいとする根拠はない。ただ、朝日新聞が鈴木商店の米買い占めの根拠を示さなかったことと、何度もねつ造記事を書いてきた新聞社であることを踏まえると、城山説に傾いてしまう。


戦争の終了と共に特需がなくなると、鈴木商店の売り上げは一挙に激減する。大戦後の反動で株価、工業製品価格、船舶運賃が全て下落した。これに関東大震災が追い打ちをかけた。これで株式を上場せずに銀行からの借り入れのみで運転資金をまかなっていた鈴木商店は大きな打撃を受ける。鈴木商店の資本金1億3千万円に対し借入金が10億円を超えていた。

震災で多くの書類も焼失し、企業間で取引が成立しなくなる事態が発生する。慌てて政府は震災手形割引損失補償令を公布した。これは震災前に銀行が割り引いた手形のうち決済不能になった損失を日本銀行が補填するというものだ。鈴木商店と台湾銀行はこの制度を利用し損失の穴埋めを行うが、政府は黙認した。26年12月末の震災手形の合計2億680万円のうち台湾銀行は1億4万円で48%を占め、その台湾銀行の手形のうち7割が鈴木商店のものであった。


だが、前話での片岡蔵相の失言によって、事態は急変する。東京渡辺銀行に預金者が押しかけ、預金が引き出され、銀行は休業に追い込まれてしまう。そして台湾銀行にも取り付け騒ぎが押し寄せた。台湾銀行は鈴木商店に対し、新規融資の停止を通告し、このころ自転車操業になっていた鈴木商店は運転資金が閉ざされてしまう。4月に遂に倒産。


創業からわずか半世紀で日本のGNPの1割を占めるほどの売り上げを誇るまでに成長しながら、倒産に追い込まれてしまった。企業と政府高官の癒着、特定の企業と銀行の密接過ぎる関係。これがいろいろな場面で影響した。今から言えるのだが鈴木商店は大戦中の利益を早く、資本金の拡充に当て、台湾銀行も鈴木商店以外に融資先を広げておかなければならなかった。安定よりも成長重視、金子直吉は事業拡大に熱心だったが、不採算事業を畳むことは不得手だった。


ただ、鈴木商店の残したものは負債だけではない。後の日本の発展に寄与する多くの会社も残っていた。

神戸製鋼、帝人、日本麦酒(アサヒとサッポロビールの前身)、太平洋セメント、石川島播磨工業(IHIの前身)、日商岩井(双日の前身)など系列や子会社などを入れたら数えきれなくなる。

鈴木商店の事業の在り方、倒産になったことなど多くの批判はあるが、これだけの企業群を育てた功績は大きい。何でも手当たり次第に企業を買収したと言う声もあるが、金子直吉からすれば、「向こうから助けてくれと言われたから、買収したまでで、こっちから買収を仕掛けたものはない」と言っている。


鈴木商店の出来事はまだ日本経済が必死に背伸びして拡大にひた走る姿と重なる。政治家との癒着、官公庁への裏工作なども行ったようだ。それはまだ、日本経済には企業ルールが確立してない時代だったとも言える。

日本経済また一つの大きな経験をした出来事だった。


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