69話 護憲3派内閣(改)
この小説を書くにあたって、私は西園寺公望や石原莞爾を相当辛らつに表現することになると予測していた。それでプロローグでは西園寺を大徳寺、石原を水野と変えていました。しかし、書き進めていると二人を高く評価しないといけないと感じるようになったのです。
そこでこれから二人を本名のまま書いて行こうと思います。読者の皆様には混乱するかと思いますが、なにとぞご容赦ください。
また36話で水野雄二を搭乗させていますが、石原莞爾とは全く関係ありません。
24年6月、加藤高明率いる護憲3派(憲政会、政友会、革新倶楽部)は選挙で大勝する。憲政会が比較第一党となり加藤は内閣総理大臣となった。これによって史上初めて選挙結果を基に、加藤内閣が成立した。それまでの内閣は山県や西園寺などの元老と呼ばれる者の推薦で決まっていた。選挙によって、国民は時の政権を選択できるようになったのだ。この意義は大きい。
加藤高明は尾張藩の下級藩士の次男で、旧制愛知県第一中学、名古屋洋学校を経て、東大法学部を首席で卒業して、三菱に入社する。三菱本社副支配人となり、三菱創業者の岩崎弥太郎の娘と結婚する。その後大隈重信外相の秘書兼政務課長を歴任し、イギリス公使となる。第四次伊藤博文内閣で外相を務め、日英同盟締結に尽力する。
衆議院2期、貴族院勅撰議員となり、桂太郎と共に立憲同志会を設立し、桂の死後はその総理に就く。第2次大隈内閣の外相として、第一次世界大戦への参戦、対華21ヶ条要求などに辣腕を振るった。大隈退陣後は、同志会と中正会が合同して成立した憲政会の総裁として元老政治の打破・選挙権拡張をめざした。その後は10年近く在野暮らしを強いられ、ようやく首相の座を手に入れている。
大日本憲法では、天皇は軍事権、官吏の任命権を持ち、教育制度、宣戦布告・講和、条約の締結、戒厳令、非常時の大権など絶対的な権限を有していた。もし、非常大権が発動されれば、独裁国家になることも可能だった。国政を処理する時は、非常大権を含めて、国務大臣の助言が必要とされていたが、必ずしも助言に従う義務はなかった。
首相を含む国務大臣の任免権は天皇が保持しているが、任免手続きの詳細は憲法には明示されてない。替わりに元老の推薦で総理大臣が任命され、総理大臣(首相)の推薦で他の国務大臣が任命される形式だ。そして首相は他の大臣を推薦できても、罷免できる権限をもってない。首相の意に反する大臣がいても、罷免の権限はないのだ。
憲法の条文に内閣の文字はなく、国務大臣の合議体としての内閣であり、内閣管制という法令によって、内閣の首班としての総理大臣(首相)という役職が設けられていた。首相と他の大臣との違いは内閣のまとめ役と言うだけで、強制や罷免などの権限を持ってなかった。首相には他の大臣への命令権はない。
原内閣で始まったシベリア出兵は此の加藤内閣によってようやく終了する。
この間、7年間もかかった。その原因に軍の統帥権が首相、そして内閣になかったことが大きい。諸外国が簡単に撤退に踏み切れたのに対し、日本政府は軍に命令できなかった。
原首相は内閣の協調体制は比較的うまく行っていた。陸軍大臣や海軍大臣が逆らえば、撤退など口にもできなかったのだ。陸軍大臣の田中儀一も海軍大臣の加藤友三郎も協力的で、原首相の段階的に撤退する考えに従っていた。しかし、参謀本部は非協力的だった。作戦全般を担い、全軍の行動をとり行える参謀本部が言うことを聞かない限り、撤退などできなかった。原内閣は参謀本部の抵抗に手を焼き、何とか抑え込もうとして、閣議で何度も撤兵方針を決め、外交調査会にも承認させた。その権威付けでようやく、参謀本部を屈服させて、国内に置いての撤退する方針は整えられるまでになった。
だが、いざ撤退しようとすると、なんらかの撤退の名目を日本政府は欲した。あまりに多大な犠牲を払ったため、何の見返りもなく撤退を口に出来なかったのだ。原首相の場合はシベリアでの利権を確保であり、その後の政権も親日的な政権を現地に樹立することであった。その名目作りの交渉がうまくできなかった。
通常の戦争なら講和することで終了する。しかし、宣戦布告をしない紛争では何らかの協定を結ぶしかできない。そもそもソビエト政府とは国交がない。その国交のない相手と有利な条件で協定を結ぶのは難しい。しかも現地の親日政権は弱小でソビエト政府が認めるほどの実力にならなかった。次第に日本はシベリアから力を失っていった。
交渉は長引き、原内閣以後、高橋是清、加藤友三郎、山本権兵衛、清浦圭吾、そして加藤高明と内閣は変わった。
その間、ソ連との交渉に積極的な内閣もできたし、交渉しようにも関東大震災で中断状態にも陥った。
結局日本は、成果を得ることもなくシベリアより撤退せざるしかなかった。シベリア出兵に伴う人的損失は戦死2643人、病死690人だ。
加藤内閣の時ようやくにして、シベリアから撤退できたのだが、あまりに長すぎ、犠牲が大きすぎたと言えよう。
また加藤内閣で普通選挙法が成立した。それまでの納税額による制限選挙から、納税要件が撤廃され、日本国籍を持ち、内地に居住する満25歳以上の男性なら選挙権が与えられることになる。これで有権者は20年5月時点で307万人(人口の5.5%)28年3月には1240万人(人口の20.1%)になった。
ただ、翌年に憲政会と政友会のつなぎ役だった横田千之助が急死すると、両会派は仲たがいを起こし、護憲3派連立内閣は崩壊する。その後は、25年8月に憲政会単独の内閣で構成されるのだが、弱体化は免れなくなる。
「これっておかしいじゃない。」メアリが疑問を口にする。
「連立政権が崩れたなら、総選挙をして、民意を問うのが本当でしょう?」
イギリスなどの議会制度なども知っているメアリにとって日本の元老の在り方は奇妙に映るらしい。
「日本は国会や憲法ができて、まだ日が浅い。慣れるまでいろいろ試して経験して行かないと本当の議会制度にはならないと思うよ」
良子と違って、メアリは政治に関心を寄せている。それを正平は面白く感じていた。




