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旭日に顔を上げよ  作者: 寿和丸
最終章
253/257

253話 台湾の事情

もう一つこの選挙で行われた特徴に、台湾住民に国政選挙権が与えられ、国政参加の道が開かれたことだ。

35年に台湾住民に選挙権が与えられ、台北などの地方議会には日本人と共に台湾人も席を占めていた。それが36年に、日本が226事件などを通じて、全体主義的な傾向を強め、支那に地下資源を求め、蒋介石政府と衝突することになった。これにより蒋介石に同情的なアメリカとの関係は悪化の一途だった。

正平が北支からの撤兵、張作霖爆殺事件の処理などをしてきたのもアメリカとの関係を考慮してのことだ。ただ、アメリカ政府、特にルーズベルト大統領の対日観は相変わらずで、日本を軍事国家、全体主義体制と見なしており、時に内政干渉に近い要求までしてきた。そして外交交渉の折にはアメリカは経済制裁をちらつかせる有様だったのだ。それは国土が狭く地下資源に恵まれてない日本にとって、アメリカ以外の海外から資源調達に走ることになった。そのため、正平は亡命政権となったフランスやオランダなどから許可を得る形で石油やボーキサイト、ゴムなどの輸入の道を切り開いた。

また台湾の重要性を増すことに繋がり、台湾の治安が一層安定するよう多くの政策がとられた。

その政策の中に皇民化運動がある。これは国語運動、改姓名、志願兵制度、宗教・社会風俗改革の4点からなる、台湾人の日本人化運動である。

仕事や就職に有利なこともあって、台湾人にも受け入れられていくが、それと同時に台湾でも選挙をやりたいと言う声が強まっていた。

その声を受けて、正平は台湾人に衆議院選の選挙権を与えたのだ。


台湾で日本統治が始まってから、半世紀になり、住民の多くは日本の教育を受け、日本語が話せるようになっており、就学率は40年で57%にも達していた。正平はいつまでも台湾に自治を認めないままではいずれ不満が暴発すると考えた。

「台湾人に選挙権を与えることで、彼らも民主的な制度を実感する。いずれは彼らの中からも首長を選出し、本格的な自治制度になるだろう。」

その結果、本土と同じように自由党や民政党、政友会が設立され、また台湾独自の地域政党も生まれた。この中に台湾独立を掲げる者もいたが、正平は気にしない。

「現状の台湾が独立するのは、安全保障、経済力から見て非現実的。台湾人もそれに気づくはずだ」

実際に台湾独立党は地方議会の議席を得たが少数野党に終わっている。台湾人は独立することに不安を持つ者が多く、受け入れなかった。

それよりも台湾では選挙権を得たことの喜びが強かったようだ。

投票所に行く時、わざわざ正装して出かける者がいたと言う。それだけ、自分たちで選挙が行え、自分たちの代表を国会に送り込めることに意義を感じたようだ。


「ソ連との戦争に勝ったように、日本は大きな国、強い国だ。そしてこの国を率いているのは塚田首相であり、自由党だ。台湾でも自由党が力を持てば、いずれ台湾総統も自分たちで決められるようになる。我々の力で政治が行えるようになる。」自由党の候補者はそれを高らかに訴えていた。

このことに台湾人の多くが共感し、独立を叫ぶ声を無視した。

その結果、国会には自由党の議員が多く送り込まれ、台湾人が国会での発言権をもった。

台湾の地方議会でも自由党が多数派となり、台湾についての行政、予算、法案等について審議が行われるようになる。

台湾総統も地方議会の意見を無視するわけにはいかなくなり、多数派となった自由党に接近し、実質的に自由党が与党として、総統を支えるようになっていく。


もう一つの事情として台湾は内地の自治体と比べ一つにまとまり易い点がある。台湾は高砂族などの先住の種族がいた所に漢族が移り住み、更に日本人が入って来た。その為、台北などの5州3庁に行政地域が区分されていたが、出来てから日が浅く内地のように県単位として独自色を発揮してはいなかった。例えば九州などでは、福岡と佐賀など隣り合っていても県民性の違いは明確であり、鹿児島と宮崎などで古老の話し言葉を互いに理解に理解できない。それだけ、それぞれ九州の各県ごとに独自の文化や伝統が根付いていたのだが、台湾ではそれほどでもなかった。

どちらかと言うと、台湾としてまとまり易い。


このことが自由党にとっても都合の良いことになる。自由党の主張に地方自治の確立がある。これは明治維新より中央集権体制が強まり、中央官庁の指示や命令により地方自治体が従う構図となっていて、自由党員には不平不満が根強かった。

「小学校一つ中央の許可を得なければ、作ることも廃止することもできない」「何かしようとしても、予算を縛られ、中央にお伺いしなければならない」そんな嘆きの声が漏れていた。

「昔は、幕藩体制で、地方でも独自の行政が行えた。昔のように地方の判断で行政を行いたい」それが自由党員の大半の声だ。

自由党の主張は権限や財源をより多く地方に与えることで、地方独自の政策を行わせようとするものだった。

とこらが九州の事例のように日本は江戸よりも前から藩単位で纏まり、隣との藩とは競争関係になっていることが多くある。自由党の主張は一部理解されていたが、「隣の県だけが得することになりはしないか」と警戒感も持たれて、全国的な広がりがなかった。

「鉄道を隣にだけ通すのは許さない。うちの県にも通せ」などと言う声がすぐ上がってしまい、その調整は結局中央の官僚に任されてしまい、すぐに地方自治が確立するとは思えなかったのだ。


「それなら台湾にある程度の権限を渡して、モデルケースにすればよい。鉄道や電力、道路、水道などの公共事業などを独自に開発出来るようにさせる。そうすれば中央官庁からあれこれ言われなくても、独自の判断で行える。台湾でのやり方が上手く行けば内地でも、見倣おうとすることになるだろう」

「それなら、北海道も一つにまとまっている。ここも同じように州にすればいい」

自由党内での意見は次第に集約されていく。

正平はこの案に口を挟まない方針だったが、具体的な地方政府のイメージが出来上がる時、「必ず州都を決めないとならないが、その州の最大の都市を州都にするのは良くない。州都は10万人以下の、その州の真ん中に位置する所がいい」と注文を付けた。これはアメリカの州制度を参考にして。経済と政治まで一つの都市に集中するのは良くないと考えたからだ。

こうして、台湾と北海道を州にする、地方自治法が纏まった。


これには大きな波紋が生まれ、内地でも権限をより多く望むために州に移行する声が強まっていく。

もうひとつ、朝鮮において、「台湾のように我々にも選挙権や自治権が欲しい」と言う声が当然出てきた。しかも、彼らの主張は台湾と違ってやがて独立志向を帯びてくるのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 総督じゃなくて総統になってますよ。
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