243話 モンゴルへの工作
日本の周辺での混乱には、危機に陥った邦人の救援のため部隊を派遣できることはハルと確認し合えた。日本側は日本近くの騒動にいつでも介入できることを暗黙に認められたようなものだ。
正平は官邸に石原莞爾、水野、岡田、桜井などと会談する。
「これで、支那の近くで何かあって、派兵してもアメリカからとやかく言われることはなくなりましたな」ほくそ笑むのを隠しもせずに莞爾が言う。
「そうだ。お前が満州で暴れまわる前にこれだけの事前準備をしておけば、騒がれずに済んだんだよ」
「いや、それは分かっています」
石原は板垣らと計らい満州事変を起したが、予想以上の国際社会からの非難を受けて、満州制圧を諦めて、満州国独立に方針転換した。自らの作戦の失敗を自覚したのか、その後は北支分離論を主張する一夕会のメンバーとは一線を画すようになる。正平が北支からの撤兵を決断した時でも、武藤章などが北支に居直り続けたのを厳しく糾弾して、正平を支持する形になった。
正平も莞爾の能力を認め、一夕会メンバーだった者の中で唯一、彼だけを陸軍中央本部に残し、そのまま重要ポストに置き続けた。そして、今は次の戦略を練る時の最大のブレーンになっている。
「今のソ連はドイツと戦って、苦戦している。ここで日本が圧力を掛ければ、ソ連も折れて、日本に樺太や沿海州を割譲してくれると見たが、なかなか、折れそうもない。ロシア人はしぶといし、したたかだ。土地への執着は本能とも言って良い位だ。極東地域の割譲を認めないソ連にもう一段の圧力を掛けて、樺太と沿海州を放棄させる。そのことで意見を聞きたい。」
「支那はまた、蒋介石と共産党が仲たがいをし始めて、いつ動乱になってもおかしくない状態です」と水野が支那やその周辺の状況を一通り説明する。
「確かに今の支那は蒋介石と共産党が一触即発の状況で、ちょっと火を煽ればすぐに戦火は中国全土に及ぶでしょう。ソ連としても警戒して、国境警備に力を入れざるを得ないでしょうが、領土割譲に折れるほどの圧力にはならないでしょう」と岡田が意見する。
「そうなると、やはりソ連領内やモンゴルに手を出すしかありませんね」水野も同意する。
「だが、ソ連に直接手を出すのはまずい。わが国が少しソ連に圧力を掛けただけで、アメリカの国務長官が乗り出してきた位だ。日本がちょっかいを出せば、経済制裁をアメリカがしてくるのは目に見える。」と莞爾が言う。
「そうなると、やはり、モンゴルに火を付けるのが効果的で、害が及ばないことになります。ただ、モンゴルは治安が良いと聞いていますが、その辺はどうなのですか。桜井さん」とこれまで発言をしてこなかった桜井に問いかける。
桜井は警察官僚で主に公安に従事している。
1905年1月の日曜日、首都ペテルブルグにはロシア正教会の司祭ガボンを中心に、国王に請願の為の行進を始めた。これを歩兵部隊と騎馬兵がデモ隊に突入し、発砲して鎮圧する。国王に救いを求めてきた国民に軍隊が発砲して、虐殺したという話はたちまちロシア国内に広まった。これがロシア国民の反戦、厭戦感情に火が点いて、日露戦争終結に繋がったとも言われる。これらの反戦活動家に資金を提供し、援助していたのが明石元次郎大佐だったとされ、陸軍参謀本部の児玉源太郎の命令だった。彼の働きは10個師団にも相当するとも言われ、後に陸軍大将にもなった。
だが、日本陸軍はその後、諜報活動や工作活動に重視せず、シベリア出兵や満州事変などにおいても、情報収集や佳作活動に大して力を注がなかった。正平としてはソ連に圧力を掛けるためにも、ソ連内部を工作調略して騒乱を起こしたいと考えて、遅ればせながら国防省の一角に調査室と言う名目で、諜報機関を設けた。その立ち上げに桜井を呼び、国内のスパイ対策に当たらせた。その後、桜井は対ソ工作の専従にもなり、今日の会議でも呼ばれた。
「モンゴル国内は共産党政権により、治安は良く保たれています。」
「では紛争を起すのは難しいと言うことですか?」
「ソ連政府は共産主義をモンゴル人に押し付けております。社会主義教育、集団農場などにより統制を諮っており、政府に不満を抱く分子の摘発にも力を入れていて、反政府運動は全くの下火です。」
モンゴル国内においても、ソ連政府に反対する動きはあった。36年にスターリンからラマ教寺院の破壊を命じられたゲンデン首相がこれを拒絶した。ソ連宥和派のチョイバルサンに取って代わられ、ゲンデンはスパイ容疑で逮捕され、ソ連に送られ処刑された。
「ですがね、モンゴル人は誇り高き遊牧民族です。ラマ教(チベット仏教)を篤く信仰していて、寺院を破壊して回ったソ連には反感を持っております。ラマ教の僧侶や富裕な遊牧民を逮捕して押さえつけました。そして知識人の中にはモンゴル語に制限を加えるソ連に反感を持つ者もいる。特にモンゴル文字が禁止され、ロシア文字しか扱えないことに不満を持っています」
「モンゴルに不穏の種は残っているということですね。」
「まあ、下工作は調査室に期待しよう。軍資金は問題ないですね。」莞爾が桜井に聞く。
「現地の人間に任せていますが、資金の不足は聞いてません」
「それなら問題ないか。後は結果次第か」
「モンゴルの共産党政府が転覆すれば、ソ連も相当慌てるでしょうね」にやりと水野が言う。
「そうなれば最高だが、騒動が起これば、日本軍も出動できる。その時、共産党政府を一掃できる。」莞爾は含みのあることを言った。
満州の兵力で、モンゴル内のソ連兵を一掃できるか、不兵量に不足はないか協議した。
「とにかく、ことを起すのは、モンゴル内に紛争が起きてからだ」そう確認するように正平が言って会議は終了する。




