232話 天津における事件
正平は蒋介石とは昨年11月に南京で初めて会見することができた。
日本側は満州国を認めて貰う代わりに蒋介石政権、および支那には干渉しないことを約束する。
「支那では国民政府と共産党が一応共闘して、日本と戦うことにしたが、肝心の日本軍が消えれば共通の敵はいなくなる。そうなればまた内部で争うだろう。」
それが正平の読みであり、「放っておいても支那は国内で権力闘争を繰り広げるだろう。蒋介石が勝とうが、共産党が勝とうが日本は支那のことには干渉しない。支那の混迷は日本にとって競争相手が無くなることで、放っておいて差支えない。」
蒋介石は国内の統一、実権を掴むことが第一であり、日本と戦くのは、統一が成し遂げてからの認識だった。だから当然、日本を目の敵にする張学良とは相いれなくなるし、西安での周恩来との約束などは無効と考えた。蒋介石は日本との戦いより、国内統一に動き出し、権力基盤の強化を優先した。
そして彼を脅かす存在として共産党を意識し始め、次第に共産党員を政権から排除していった。
そこまでは正平の読み筋の展開だった。しかし、推測には全くないことが起きてしまう。
田原青年は「大陸浪人」を目指す28歳の日本人だ。彼は大川周明などの「日本はアジアの模範、指導者になり、欧米列強に虐げられているアジアの人民を助け、援助するのだ」という教えに共感し、中国に渡った、正義感の篤い野望に満ちた青年だった。大陸に渡って3年になり、中国語も流ちょうになり、現地の事情にも明るくなった。そんな彼が天津に来て、日本との商品の受け渡し役になっていた。小売業者から日本との取引を最初は通訳をしていたが、実直な仕事ぶりを買われ、今では貿易の仲介や相談などもしている。
彼が支那人から信頼されたのは、常に現地人の立場にいて、時には日本人とも衝突したこともある。身体も大きく、空手、柔道や剣道の腕前も高く、喧嘩でまず負けたことはない。そんなことで、小売商人の用心棒も引き受けてもいた。その彼に見過ごしできない事件が起きた。
「娘が連れ去られそうなんです」知り合いの露店商人が泣きついてきたのだ。慌てて、現場に行くと、商人の家の周りには破落戸達が取り囲んでいて、それを遠巻きに近所の住人が見ていた。
破落戸達は娘を連れ去ろうとしたが、いち早く娘が家の中に逃れ閉じこもってしまい、家の前で地団太を踏んでいた。
「ちょっと、通してくれ」群衆をかき分けるようにして破落戸どもの前にすすむ。
「何だ、てめえは!」
「他人の家の前で騒ぐのは感心しないな」
「何を」その言葉に逆上して一人が、飛びかかると、もう一人も後に続く。
破落戸達は喧嘩なれをしており、素人相手なら簡単に延してしまう。だが、相手が悪い。
田原は掴みかかろうとした者たちを数秒もせずに地面に叩きのめした。
「や、やったな」残りの破落戸達はあまりの早業に、手出しもできず「覚えていろ」と逃げ出すしかなかった。
「助かりました」群衆の歓喜の声と共に、娘の親が頭を下げていた。
だが騒動はこれで終わらなかった。その翌日の夜、田原が露店で晩酌を重ねていた時に、二人連れの男が不意にやって来て、「でかい面をするな。」と言って銃弾をぶっ放した。
本当は脅しだけのつもりで体に当てるつもりはなかったのだが、腕も良くなくて狙いが外れ顔近くに弾が行き、田原が反射的に体を動かしたことで、弾が頭に当たってしまった。即死だった。
犯人は町の地域ボスと呼ばれる陳則董で、昼間部下が叩きのめされたことに腹を立てて押し掛けたのだ。ただ殺すつもりは全くなく、脅しつけるつもりだった。
「しまった」ところが頭に命中してしまった。陳は相手が日本人であることを承知していた。
「厄介な奴を殺してしまった」彼は地域ボスをしているくらいだから頭もきれる。
北支から撤退していたとはいえ、天津には在住の日本人の安全を守るために、官憲がまだ残っており、日本兵に警察権なども与えられていた。
「日本の憲兵がいずれ乗り出してくる」と思った。
そうなれば、破落戸達を集めた所で対抗できない。彼はさっさと逃亡を図った。そして逃げ込んだ先がイギリスの租界だった。
この当時の中国は蒋介石が実権を握っていたとはいえ、各地には実力者が勢力を張り、外国勢力も残っていた。天津にはイギリス人がまだ多く住み、イギリス政府は市の一区画に軍隊を置いていた。これを租界と呼び、イギリスの支配権が認められ、日本の憲兵も手出しはできないことになっていたのだ。
これに陳は目を付け、日本の官憲から逃れようとしたのだ。
日本小部隊を預かる林中佐は田原青年と面識があり、「若いに似ずしっかりしている」と高く評価していた。その青年が支那人の破落戸に殺されたとあって、憤慨は収るはずもなかった。
「直ちに、その支那人を捕まえろ」と部下達に命令する。
その部下たちはすぐに陳の居所を突き止めて、イギリス租界ということも無視して陳を捕えた。
最初は日本人と現地人の揉め事で済んだはずだった。林中佐も丁寧にイギリスと交渉して犯人の引き渡しを要求すれば何の問題も起こらなかっただろう。日本の兵隊がイギリスの租界に無断で足を踏み込み、捕えてしまったのは明らかに行き過ぎだった。
当然、イギリス側から猛抗議が現地の日本領事館に入った。
「日本兵は日本人を殺害した犯人を捕らえただけだ」と領事館という態度だった。
だが、イギリス側はこれで収まるはずもなく、日本とイギリスの外交問題にまで発展した。
ここに至って日本の外務省も事の重大さに気付き、謝罪をすることになる。
約1か月の交渉の末、「現地の日本兵を引き上げる」など約束してようやくイギリスの怒りを解くことができた。
これで事件は、ケリがついたように見えたのだが、ここにアメリカ側が文句を言いだして、新たな外交問題になってしまった。




