228話 ルーズベルトの出馬
正平は勉強会でこう持ちだした。
「フーバー訪問団の帰国した後でも、アメリカの対日感情は変わらない。今後の対アメリカ外交をどうするか考えたい。」
これまでの外務省などの報告から、正平はルーズベルトの対日悪感情の軟化に期待できなくなっていた。
「アメリカ大統領は今年で任期が切れますね。アメリカ大統領は任期4年で2期までとなっています。今の大統領では日米関係の改善は難しいでしょうから、次の大統領に代わってから、本格的に交渉に乗り出した方が良いかと思います」
大蔵官僚の馬場が冷静な口ぶりで返した。
「そうですね。首相はこれまでも多くのルートを使って、関係改善を呼びかけて来ましたが、ほとんど答えてくれません。これはアメリカ外交と言うよりも、大統領の個人的な性格によるように思います。」外務官僚の多田も同じだ。
首相就任以来、正平は日米外交を最優先として、改善に取り組んできた。北支からの撤退、張作霖爆殺事件の処理をして、更には支那国国民党政府とも関係改善に動き出している。蒋介石とはまだ会見してないが、近い時期に会う予定が組まれてもいる。アメリカの言って来た要求にほぼ答えてきたのだ。
アメリカの姿勢軟化を期待して、ユダヤ難民救出にも力をいれた。ドイツに占領されたポーランドにいたユダヤ人たちが隣国のリトアニアに逃れ、現地の日本領事館に多数押しかけてビザの発注を求めてきたのだ。当時のヨーロッパ諸国や北米諸国はドイツと敵対している中、日本はドイツとは友好関係を保っており、日本を経由して海外に脱出しようと考えたのだ。
ドイツ政府の顔色を窺って外務省幹部はビザ発注に消極的だったが、正平は「できるだけ多くのビザを発注しろ」と幹部の尻を叩いた。アメリカ国内にはユダヤ人社会が力を持っており、彼らを通して日本との友好を訴えてもらう狙いからだった。
当時のリトアニアはソ連の占領下であり、各国の大使館や領事館に閉鎖を求めていた。限られた期間だったが、杉原領事館は可能な限りのビザを作成し、約5000人近くがシベリア鉄道を経由して、40年7月に日本に入国できた。これには当然アメリカユダヤ人協会から感謝されたのだが、それでもルーズベルト大統領の姿勢に変化は見られない。
「やはり、新大統領に期待するしかないか」それが結論となった。
一方のルーズベルトは悩んで迷っていた。
「私の進めてきたニューディール政策がようやく成果を見せてきた。経済が好調に推移し失業率も大幅に改善しつつある。ただ、ヨーロッパの情勢はいつドイツがイギリス本土に侵攻仕掛けるか気がかりだ。ここでイギリスが防衛に失敗すれば情勢は一気にドイツ側に傾く。何としてでもこれを阻止しなければならない。今すぐにでもアメリカ軍をヨーロッパに派遣しなければならないのだが、国内の派兵反対の世論は根強い。このままではアメリカが何の関与もできないまま、ドイツがヨーロッパを制してしまう。
粘り強く、世論を説得しなければならないのだが、私の大統領任期は半年もない。私に替わって海外派兵に前向きな候補を立てなければならない」
そのように考えていたのだが、思うような後継者が見つからなかった。
当初彼は側近のホプキンスに後を任せようと考えていた。ところが39年の夏にホプキンスは胃がんの摘出手術を受け、その後は療養生活を余儀なく送ることになった。他の有力な民主党議員にも大統領選出馬を持ちかけたが、色よい返事はなかった。
「困った。このままではヨーロッパの戦争に無関心な、参戦に消極的な人物が大統領になってしまう。そうなればドイツがヨーロッパを制することになっても、アメリカはイギリスを助けないだろう。」
彼はイギリスがドイツに負けること、更には大西洋を渡ってアメリカ本土にドイツ軍が侵攻することまで本気で悩んでいた。現状のドイツ軍が狭いドーバー海峡を渡ることさえできないこと、イギリス軍が空でも海でもドイツ軍に勝っていることに目を向けなかった。
「ガラガラヘビが海を越えてやってくる」と言う国民向けに訴えたキャンペーンを何度も仕掛けた。
「私以外、ヨーロッパの出来事に関心を払っている者は見当たらない。私でなければヒットラーの野望を撃ち砕く者がいないのではないのか。
かといって、私が続けて大統領職を務めることは、大統領が1期4年で2期の不問束を反することだ。不文律を破ってまで出馬して良いのか。」
既に彼は、引退後の生活を送る準備をしていた。田舎にベッドルームのあるコテージを3つも建て、その間を車椅子で行き来できるようにし、お気に入りの家具を持ち込んでいた。更には蔵書や蒐集した切手やコインを展示できる記念館を建てようとしていた。
悩みに悩んだ末に、11月の大統領選への出馬を決意した。
この大統領選で共和党候補を破り、引き続き大統領職を務めることになったのだが、得票数は前回を大きく下回った。国民はルーズベルトの実績を評価したのだが、多選には躊躇ったのだ。
正平たちはアメリカの選挙を当然のように注視していた。
「大統領が代われば日米関係も好転する」そんな期待が裏切られる結果となった。




