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旭日に顔を上げよ  作者: 寿和丸
22章 日米の戦略
221/257

221話 近衛文麿

近衛は5摂家の第30代当主であり、後陽成天皇の12世孫にあたる。父親は貴族院議長を務め、文麿も早くから政治家を目指していたようだ。父の没後、25歳で公爵を継ぎ、すぐ貴族院に入り政治家の道を歩み始めた。

家柄に加え、一高から帝大に入った学歴、更に180を超す身長であり、貴公子を漂わす風貌は大衆の期待を集め、早くから首相候補になっていた。

226事件の後、発足した広田内閣が1年もしないで倒れた時は、西園寺から首相になるよう推薦されが、これを固辞した。この時彼が首相になっていたなら、正平に首相の椅子が回ってくることはなかったはずだ。


文麿は首相就任要請を固辞したのは、事件を起こした皇道派と親しかったことが理由だった。ただ、当時の政治状況では誰が成っても無事に務まるとは思えず、首相の座をすぐに明け渡すだろうと見ていた。誰もが首相になるのをためらうようになってから、首相を受けた方がやりやすくなると考えた。

彼の替わりに正平が首相になると「あんな軍人上がりの、政治経験の無い者が首相を受けても直ぐ行き詰まり、放り出す」と思っていた。

だが、その打算は正平が3年も首相に座り、崩れた。

それどころか、総選挙で勝利して首相の座をより強固なものになった。

「このままでは、塚田首相に思いのままにされてしまう」そんな焦りも芽生えるようになる。

特に正平の対米協調路線には不満だった。

「あんなに米国に阿るような弱腰では我が国の主張が通らない」


文麿はパリ講和会議で西園寺に随行して、人種差別撤廃を呼びかけた。しかしこの主張は白人国家から無視されてしまい、これが欧米列強、特にアメリカに強い不信感を抱いた。

「アメリカのウィルソン大統領は平和主義、人権擁護など美しい言葉を使うが、いざ自分たちに火の粉が降りかかるようなれば、きれいごとを言わなくなる。大統領が人種差別撤廃を口にしないのは、アメリカの人種問題が複雑だからだ。結局きれいごとを言うのも自分たちの都合次第で変わる。」

このようにアメリカへの不信感が強くなっていた。それだけに正平のアメリカへの軟弱ぶりには不満だった。

「なんでアメリカを気にして支那から手を引こうとしているのか」

文麿には北支撤兵を決め、満州政府の主権拡大を容認する正平の姿勢が気に食わない。

「そして、ドイツがヨーロッパを席巻しようとしている状況でも、まだ英米を気にしてドイツとの同盟に消極的だ。明らかにアメリカを怖がっている」

それが、松岡などのドイツ同盟論に賛成し、統制派の軍人将校とも接触するようになっていた。


そんな文麿の屋敷に、軍人と役人の二人が来訪した。

来訪目的を告げられ、応接間に通す。

「官邸から着ました。人払いを願います」その一言で、二人が面白くないことを告げに来ていると察する。ただ、官邸と言う言葉を聞き、側近を席から外させた。

「どういう要件だ」

「阿部と言う秘書がおられていますな?」役人が最初に口を開く。

「阿部がどうした」

「ソ連人と深く付き合っておられていますね」

「だから?」

阿部は先日から警察から呼び出しを受け、そのまま拘留され家族や弁護士も面会を許されてない。そのことには文麿も多少の懸念を持っている。

「閣下の持っている外交情報や軍事情報を渡されていました。」

「何!」

「そのソ連人はスパイです。わが国の機密情報を得ようと一昨年から盛んに活動していました。そのスパイと閣下の秘書が何度も接触していました」

「だからと言って、阿部がスパイの協力者とは言い切れんだろう」

「半年前から公安内部では、そのソ連人にスパイの疑いを向け、密かに国内の協力者を洗い出しにかけていました。その結果、阿部氏が協力者であると判断しました」

「・・・」近衛は黙って金子の次の言葉を待つ。

「はっきり言って我々はソ連のスパイを泳がしていたのです。そして阿部氏が何度もスパイと会談していることを掴みました。先ごろ、彼を問い詰めた結果、閣下しか知りえない情報まで渡していたことが分かりました。その情報はこちらでもたらした偽のもので、閣下にしか渡っていないのです」

「・・・」近衛の顔は見る間に青ざめていく。

「阿部氏が積極的にスパイに協力していたことが分かりました。このことに閣下はどのようにお考えですか?」

「阿部がスパイの協力者であるなら、極めて重大なことだ。阿部をこの屋敷から追放する」

「それだけですか?」

「それだけとは?」

「閣下の秘書がソ連のスパイの協力者で、機密情報を流し続けてきたことに責任は感じられませんか?」

「勿論、責任は感じる。」

その時、向かい合った席の間のテーブルが「どん」と音がした。水野が叩いたのだが、さして力は込めてない。それでも緊張した場面での突然の物音にはっとさせられた。

「随分、甘い考えだな。秘書だけの責任にしてトカゲのしっぽ切ができると思ったら大間違いだ」

水野の声はさして張り上げてはいない。しかし、軍事訓練で命令に慣れている水野の口調には自然と凄みが出る。

「せ、責任?」

「あんたは貴族であるとともに、政界の重鎮だ。そのあんたの身内からスパイの協力者が出たとなって、許されると思うのか?あんたは売国奴の汚名がかぶるぞ」

「わ、私にどうしろと言うのだ」さっきから近衛の声はふるえていた。

「政界からの引退」一言短く言う。

少し沈黙した後、絞り出すように言った。

「わ、分かった」


日本に亡命したリョーノフからソ連駐日大使館員の一人がスパイであり、軍事情報などを集めていることが知らされた。これを基に公安などが調べた結果、彼は軍人や政治家に広く接触していて、内部情報が筒抜けの状態だった。

特に、若い軍人や官僚には社会主義への憧れを持つ者がいて、スパイに協力することにためらいはなかったようだ。

また官邸にもスパイに知らずに協力していた者がいた。幸いに下級職員であり、重要な立場でなかったことから機密漏洩はなかった。

金子たちはスパイの協力者をもう少し泳がせてみようと考えていた。

ただ、近衛と統制派の繋がりが目に余るようになり、処分の方針を固めた。

官僚と軍人など、20余名が中央から外され、役人は左遷で済んだが、統制派に近い軍人は全て退役に追い込まれた。

「少し手ぬるいと思いますが」金子や水野はこの処分に不満だった。

「いや、中心人物を取り除ければ、それで事態は沈静する。あまり大事になれば、新聞記者などが嗅ぎつけてうるさくなる」そう言って正平は取り合わなかった。


このスパイ事件はひっそりと報じられ、逮捕者は出たが重罪に問われることはなく、世間の目を引かないまま幕を閉じた。

少しして、近衛が体調の不調を理由に政界から引退を表明する。

誰も近衛の引退とスパイ事件を結び付けて考えた者はいなかった。


40年当時よりも少し後になるがゾルゲ事件と呼ばれるソ連スパイ事件が起きている。この話はこれをモチーフに書いたもので全く筆者の妄想から生み出したものです。史実とは異なることをご了承ください。

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