191話 ポーランドの苦悩
ポーランドは10世紀後半にポーランド公国として建国し、ほぼ現在と同じ領土まで拡大するが1138年に7つの領土に息子や后が相続する形で分裂した。その後、モンゴルの侵入、ドイツ騎士団の植民、ユダヤ人の移民が続き、国の分裂状態は続いたが、1485年になって隣国リトアニアと連合国を組む。スエーデンなどと協力関係を築いていたが、オスマントルコやロシアからの圧迫をうけるようになる。18世紀にはいると、内戦や外国からの干渉が清国となり、ロシア、プロイセン、オーストリアなどにより国土が分割されていく。ポーランド人は独立を目指し蜂起するが全てロシアなどに鎮圧され、独立できたのは世界大戦の後だった。ロシア革命とドイツ帝国が瓦解し、19年のヴェルサイユ条約によりようやくポーランド共和国として承認された。
建国後は「ポーランドの英雄」ピウスツキが実権を握り、外交政策ではソ連やドイツとも不可侵条約を結ぶなどして友好関係を築いていた。
この頃までは大戦後の混乱期をポーランドはうまく乗り越えていた。
ところが35年にピウスツキが没した頃から、ナチスドイツが台頭するようになり、ポーランドの平和にも陰りがでた。
ポーランドはヒットラーとも友好関係を結んでいたが、ドイツのオーストリアとの合邦、チェコスロバキアの解体により脅威を感じるようになっていた。ヒットラーが飛び地の東プロイセンと自由都市ダンツィヒを狙っているのは誰の目にも明らかだった。ドイツが自由に東プロイセンやダンツィヒに通行するにはポーランド領になった西プロイセンを通らなければならない。
この「ポーランドの回廊」が両国の関係を複雑化していた。
この地は、ドイツにとって東プロイセンの渡り廊下であり、ポーランドにとって唯一の海に出られる場所だった。両国にとってこの地は譲れぬものとなっており、どちらの領有権の主張にも正義がある。
ここにおいて、どちらが正しいかどうかなどは問題にならない。どちらが強いかどうかだった。
重要な点は、ポーランドの国力はドイツに大きく見劣りすることだった。
ナチスドイツの進めた、全体主義の経済発展は目覚ましく、38年時点ではイギリスやフランスさえも凌駕するほどで、ヨーロッパ最大の国力を誇るまでになっていた。それに反し、ポーランドは世界恐慌の余波を引きずり、飛躍できないでいた。これだけの国力に差ができると、強大な国は弱小の国に過大な要求をしてくるものだ。
案の定ヒットラーは「ポーランドの回廊にアウトバーンの建設を認めろ」と要求してきた。その他にもポーランドの回廊を通る鉄道や治外法権も要求しており、これはポーランドの主権を無視するものだった。ポーランド人の誇りを無視するもので、到底認めることのできないものだ。
ただ、これを冷静に見れば、交渉の余地が大いに残されていた。まず、アウトバーンや鉄道の認めても、ポーランドの海への進出を阻むものではなかった。ポーランドの特産品をアウトバーンや鉄道を使って、ドイツに輸出するのも可能だ。ポーランドにとっても、決して損ばかりの話ではなかったのだ。
圧倒的な国力の差が段階でドイツを跳ねのける力はポーランドにはない。それなら、ドイツの要求を呑む替わり少しでもポーランドに有利な条件を獲得する道を探る方法もありえた。
国が解体されたチェコスロバキアの現状を見るとポーランド人がヒットラーに信頼を出来ないのも無理はない。ただヒットラーも支配したスロバキアの国民の人権は守っている。チェコ人の人権も認め、非道な人権無視を押し付けはしていなかった。それはチェコスロバキアを戦争で討ち負かしたのではなく、ヒットラーの要求を受け入れてくれたからだ。敗戦国でもない国民には支配国者もそれなりの配慮は行っている。
もともとチェコスロバキアの国自体が大戦後の混乱で権力の空白により生まれた国だ。国内に多くの人種を抱え、国民に統一感など生まれようもなかったし、チェコ人とスロバキア人がどれほど国家意識をもっていたのかはなはだ疑問だ。
ドイツ軍の進撃が国家分裂の引き金になったのは確かだが、チェコスロバキアの国自体が多くの矛盾を抱え、解体するのは自然の成り行きだったとも言える。
それに比べ、ポーランド人はより多くの国民と国土を抱えながらも一つ民族国家として成り立っていた。分裂と支配されていた歴史が長かったとはいえ、ポーランド人はまとまりポーランドの地に住み続けていた。独立のために何度も国民が蜂起してきた歴史もある。国民が国家意識を強く持っていた証だ。それがあるなら、ドイツの圧迫を受けようともチェコスロバキアと同じ運命になったとは思えない。ドイツに左右されようとポーランド人は一つとなって、国家を存続しようと願い続けていたと思う。ポーランドの回廊にアウトバーンができてもポーランド人がばらばらになる心配は少なかった。
勿論ヒットラーの要求を受け入れれば、更なる要求が追加されてくることもありえただろう。
「ヒットラーは信用できない。要求が通れば次にはもっと過大なことを言って来るに違いない」それが多くのポーランド人の気持ちだった。
何より折角手に入れた「海への入り口」をドイツ人に邪魔されることにポーランド人の誇りが許さない。
だが指導者として、最も避けるべきは国土を戦場にすることであり、他国に支配されることだ。戦場となれば多くの国民の血がながれ、国土は荒れ果てる。敗戦国となり他国に支配されれば国民の人権は無視される。そのようなことを指導者は選ぶべきではない。
ドイツと戦っても勝てる見込みがなく、ドイツの要求を撥ねつけ、戦争の道をどうして選べようか。
負ければ、ポーランド国は消滅し、ポーランド人の権利まで奪われる。敗戦した国民の生活程みじめなものはないのだ。
38年11月の時点で、交渉継続か戦争への道かポーランド指導者の悩みは尽きなかった。
海に隔てられ、大陸と離れていた島国の日本から見て、こうしてみるとポーランドの運命は過酷と言うしかない。大国に挟まれた小国の運命と一言で言えるが、一歩踏み外せば奈落に落ちてしまう綱渡りの状態だ。指導者が判断を間違えれば、国は滅び国民は苦難の底に叩き落される。指導者の判断が今こそ、ポーランドの運命を決めかねない時期が迫ろうとしていた。
正平にとっても、重要な判断を迫られる時期が間もなくやって来る。
ヨーロッパで戦乱が起これば必ず世界が巻き込まれる。それにもかかわらず日本がヨーロッパ情勢に関与する力はほぼゼロであり、調停・仲介など出来ようもない。正平は遠くからこれを見守り、日本をどのように導くか判断しなければならなかった。




