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旭日に顔を上げよ  作者: 寿和丸
19章 世界大戦への道
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186話 ヴェルサイユ体制崩壊

ドイツ経済が目覚ましいほどの躍進を遂げたことから、ヒットラーは国土の拡大政策に打って出た。

以前に話した通り、まず35年1月に鉄や石炭などが産出するザール地方を住民投票で帰属させた。36年3月には非軍事武装地帯として制定されていたラインラントに進軍させた。これはドイツにとっての大きな賭けであったが、フランスやイギリスはこれを静観するにとどめた。本来ここでイギリス、フランス両国が強い態度で応じていたなら、ドイツの進軍を押し留めていたかもしれない。前にも話したが、この時、ドイツの将軍グデーリアンは「ラインラントに進軍をした時の48時間は私の人生で最も不安な時」と述懐している。ヒットラーもフランス軍が繰り出して来たら、とっとと尻尾を巻いて逃げるつもりだった。

この時の両国の優柔不断な対応がヒットラーに拡大政策への自信を与えたのは間違いないだろう。

自信を得た者は更なる野望を抱くものだ。

無事にラインラントに進軍できたドイツは続いてオーストリアの併合を進める。ヒットラーの頭にはドイツ人の再統一を認めないヴェルサイユ体制の崩壊があった。


先の大戦まで、オーストリアは中欧の大国として君臨していた。その領土は現在のオーストリア、ハンガリー、チェコ、スロバキア、スロベニア、セルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナを網羅し、一部のウクライナ、イタリア、ルーマニア、ポーランド領も入っていた。人種も多様でドイツ人、ハンガリー人、ボヘミア人、クロアチア人など10の民族がいた。公用語はドイツ語とハンガリー語であるが、地域によって民族の言語で話されていた。各地方は自治権が認められており、オーストリア=ハンガリー帝国と称していたが、緩やかな国家連合と言えた。

何故これだけの多くの民族が一つの国の中にいたかと言えば、トルコとロシアの脅威から逃れるためだった。帝国内にある限り、人々は自由に帝国内を移動でき、生活できた。「欧州の火薬庫」と言われたバルカン半島を含みながら、人々が比較的に平和に暮らせたのは帝国のおかげと言って良い。残念ながら、国民の中に統一感が目覚めることはなく、常に分裂の要素を抱えており、オーストリア帝国は敗戦と供に瓦解するしかなかった。


ところでドイツ人には前から民族の統一を願っており、統一の仕方にオーストリアを含めた大ドイツ主義とオーストリアを含めない小ドイツ主義という二つの考え方があって対立していた。対立したのはオーストリア国内の異民族の扱いの問題だった。つまりオーストリアまで入れてしまえば統一した「ドイツ」にも異民族が入り込み混乱が生じると北部のドイツ人に思われたからだ。そこでオーストリアを抜きにした小ドイツの北部のプロイセンを中心にして、「プロイセン帝国」が誕生した。1866年にプロイセンとオーストリアの戦争でプロイセンが勝利し、ここで「ドイツ帝国」が誕生する。小ドイツ主義が勝利したことになったが、オーストリアに住む1000万のドイツ人が取り残されることになった。


世界大戦の敗北により、オーストラリア=ハンガリー帝国は分裂し、オーストリアは共和制国家となった。ドイツ人だけの国家になり懸念された異民族の問題は無くなり、新たな大ドイツ主義により統一されても良かったのだが、ヴェルサイユ条約ではドイツとオーストリアの合邦は禁止された。このことにヒットラーは激怒していた。

やがてドイツ内においてはナチスが台頭してドイツ民族の統合の声が大きくなり、これがオーストリアにも飛び火してオーストリアナチス党が生まれる。彼らの合邦の主張は明らかな条約違反で、ドイツからの干渉を嫌ったオーストリア首相ドルフースは国内のナチス党を非合法化した。ところが34年7月にオーストリアナチス党がクーデターを起こし、ドルフースを暗殺してしまった。

これに、世界各国は衝撃を受け、イタリアのムッソリーニはオーストリア国境近くに軍隊を集結する事態にまで発展する。非難の集中を浴びたヒットラーは35年5月に「オーストリアを併合するつもりはない」と声明を発表するしかなかった。


ラインラント進軍で意気揚々としていたヒットラーもこの時までは小心ぶりを見せている。

ところが38年になってもオーストリアの経済は世界恐慌の苦境から脱しておらず、目覚ましい復興を遂げたドイツに羨望の眼差しを向けるようになっていた。更にあれだけ合邦に反対したムッソリーニがアビシニアに侵攻して、オーストリアへの興味をなくしていた。

この機会に、ヒットラーは恐る恐るオーストリアにドイツ軍を送りこんだ。抵抗を覚悟しての侵攻であったが、迎えたのはウイーン市民の歓呼と花束だった。こうしてドイツは平和裏にオーストリアとの合邦に成功した。


ヴェルサイユ体制の矛盾したものにチェコスロバキアの存在があった。チェコスロバキアは大戦後にチェコ人とスロバキア人が合同して作られた国家で、ドイツ人、ハンガリー人、ポーランド人なども多く抱えていた。大戦中にチェコ人とスロバキア人の兵士はオーストリア国軍に組み込まれていたが、積極的に戦おうとせずむしろロシアの捕虜となった。そして戦後帰還すると両民族の兵士は軍事的空白地帯となっていたモラビア地方を制圧していった。オーストリア=ハンガリー帝国だった地域なら構わず攻め入り、二つの民族以外が多く住む地域まで領土とし、これがヴェルサイユ条約で認められた。

このような事情からチェコスロバキアは力で制圧した人口国家であり、また帝国の持っていた工業力を7割以上押さえた世界10位の工業国でもあった。更に条約締結時に国内の少数民族を保護する約束であったが、国家成立後、それは反故となり、チェコ人とスロバキア人の優遇政策が次第に施行されていった。


以上の経緯からドイツとの国境に接するチェコスロバキア領のズデーテン地方には300万のドイツ人が住み、ドイツとの併合を願う気持ちが強かった。

38年9月にヒットラーはズデーテンのドイツ人に蜂起を呼びかけ、チェコスロバキア政府は戒厳令を発動し、一気に戦争状態に高まった。

ここでヒットラーはミュンヘンにイギリス首相チェンバレン、イタリア首相ムッソリーニ、フランス首相グラディエを呼び集め、協議を行った。この会談にヒットラーは戦争も辞さない強硬な態度で臨み、各国首脳は折れる形でズデーテン地方の併合を認めることになった。この時チェコスロバキア政府の要人は誰も参加しておらず、全くの蚊帳の外だ。

ミュンヘンの会談ではヒットラーは「これ以上の併合は望まない」と表明したが、事実上チェコスロバキアは解体することになった。これ以降チェコスロバキアの各民族は独立を志向するようになり、チェコとスロバキアは分裂し、各民族の自治が認められていく。


ドイツとオーストリアとの合邦、ズデーテンの併合ヴェルサイユ体制の崩壊でもあった。

ヴェルサイユ体制はオーストリアの分離、チェコスロバキア国家の成立のように、ウッドロー=ウィルソン米大統領が提唱した「民族自決」「民族独立」の大原則が踏みにじられて発足された。

1919年ヴェルサイユ宮殿には、「もう二度と悲惨な戦争、世界大戦を繰り返さない」と集まったはずなのに、各国の利権が絡み合い、ドイツへの過大な賠償と、ドイツ人に民族の分裂を押し付けるだけのものだった。このような形ではドイツ人の不満は高まり、体制破棄を主張するナチスドイツが台頭するのも当然だったのだ。

20年目にしてヴェルサイユ体制は起こるべくして崩壊した。


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