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旭日に顔を上げよ  作者: 寿和丸
19章 世界大戦への道
183/257

183話 ドイツの躍進、アメリカの停滞

1938年は歴史的に見て、戦争と平和への分かれ道だった。その岐路の選択権を握っていたのはヒットラーとルーズベルトそしてスターリンだったと言える。

ヒットラーはこの年になると、念願だった「ポーランドの回廊」への野望を隠さなくなり、誰の目にも旧ドイツ領のダンツィヒを取り戻そうとしているのは見えていた。ラインラントへの進軍、オーストリア併合、チェコスロバキアの解体とドイツの拡大策は功を奏していた。ドイツがこれほどまでに拡大政策をとれたのは、ドイツ経済が目覚ましいほどの躍進をして、ヒットラーが外交戦略にも自信を持てたからだ。

33年にヒットラーが選挙で政権を握ると経済改革、つまり全体主義の政策を次々に行った。


ヒットラーが首相就任する1年前にはドイツの失業者はピークに達し、557万人もいた。それが38年には43万人までに減少して、人手不足が心配されるほどにまでなっている。ヒットラーはアウトバーンなどの公共事業を多くやって、直接的に労働者を雇い入れた効果だが、それ以上に、産業を振興して大手企業が多くの労働者を雇った事が大きい。

アウトバーンの建設では100キロにつき、年間2万人の雇用を生むと言う触れ込みだったが、34年で6万人、35年で9万人、36年で10万人程度が建設工事に従事したにすぎない。また若者に勤労奉仕を義務付け干拓事業などに従事させ、女性を家庭に戻すために結婚奨励金を用意した。どちらも社会にあふれ出る就職希望者を減少させる効果があり、全体主義だからこそやれる政策だった。たしかに毎年40万人出現する若者の就職希望者を勤労奉仕させることで、新たな失業者を生み出さないことになる。しかしいずれは社会に若者は出ていき仕事を求める。若者の勤労奉仕は一時的に失業者を減らすことができても、根本的には減らせない。

ドイツの失業者が劇的に減少したのは、企業が多くの労働者を雇うようになったことが大きい。


実はヒットラーが政権に就く前に、すでにドイツ経済は回復の兆しがでていた。ドイツの企業は不況にあえいでいた間、経営効率改善に励み余剰の人員を整理していた。これにより最大600万人近くの失業者を出現させることになった。逆に言えばドイツ企業は多くの従業員を抱え込む能力を有していたことになる。32年はドイツ経済がどん底だった時で、それ以降から企業の経営は効率よくなり、業績が向上して従業員を雇い入れる機運がでていた。そこにヒットラーの産業振興策が加わる。自動車税の減免などの減税対策、国庫助成による住宅建設は企業活動を活発化させ景気を浮揚させた。これで企業は従業員獲得に乗り出すようになり劇的に失業者が減っていった。それによってヒットラーは失業者の減少を自分の実績として大いに宣伝できた。


ヒットラーが為政者として優秀なのは、ドイツ国民に自信を取り戻させ、国民の統合を推進したことだった。ドイツは19世紀から続いていた労働組合が破壊され、替わって「労働戦線」が組織され、被雇用者と経営者を揃って加入させた。これにより今まで激しく対立していた賃金交渉は無くなり、国家の信託官が賃金を決めることになった。全体主義により国家が民間企業の賃金にも口を入れたのだが、それにより激しかった労働紛争を抑え込んだのも事実だ。

ヒットラーの政策でユニークなのが、冬季救援活動として「一鍋日曜日」運動だった。これは冬の毎月第2日曜日にジャガイモ、玉ねぎ、肉などの安価なもので鍋料理を国民一緒に囲もうとするものだった。各家庭ではその日の食費で切り詰めた分を、救援事業に寄付した。これは義務ではなかったが、しないでは済まされないイベントになっていた。このようなことを通して、国民の一体感を増し、誇りを取り戻すのに成功した。


これらの政策により、ドイツの国民所得は33年から37年までの4年間に50%も増え、GNPは11%向上した。税率は富裕層が37%であったのに対し、国民の大半を占める低所得層は6.7%に過ぎず不公平感を押さえていた。国民の消費活動も活発となり、4年間でワインは50%増消費され、自動車の保有台数は3倍にもなった。それでいながらほとんどインフレは起きてない、見事なまでの経済成果を示していた。


それに引き換え、ルーズベルトのアメリカはどうだったかと言うと、お世辞にも成功とはいえない。33年の大統領選でルーズベルトは現職大統領フーバーをこき下ろし、「平和時の史上最悪の浪費政権」と罵り、「財政赤字を止め、借金を止める」と公約した。それでいながら当選すると、「ニューディール政策」を掲げ、失業対策として公共事業をまい進した。その結果は前話で言ったように、公共事業を行うことで失業者を救済することはできたが、全国的な広がりに欠け一部の失業者だけが恩恵に預かれただけだった。アメリカ政府の財政赤字が増大してしまい、公共事業を縮小するしかなくなり、するとその反動からたちまちにして不況がやって来たのだ。

世界恐慌が始まった29年がアメリカ経済のピークで、バブルの絶頂期だった。それ以後10年間、アメリカのGNPは一度も上回ることができなかった。

38年の時点で二人の経済政策を採点すれば、ヒットラーは優等生であり、ルーズベルトは赤点落第者と評価するしかない。


同じように公共事業をしながら、ヒットラーとルーズベルトの経済政策の明暗はどうして起きたのだろうか?

それはドイツとアメリカの置かれていた経済状況が違い過ぎていたからだ。ドイツは戦争に負け過大な賠償金を負わされて四苦八苦していた。一方のアメリカは戦場になったヨーロッパの国々に物資を売り込み、金を貸し受けていた。その莫大な利益により、アメリカは世界最大の債権国になっていた。29年の世界恐慌が始まり、アメリカ市場で株価が暴落して、自殺者が相次ぐほど社会問題になったが、それでもアメリカは世界最大の債権大国だった。

33年を出発点とすれば、ドイツがマイナスの経済状態あったのに対し、アメリカはピークから落ちたとはいえ、まだプラス状態だった。34年と37年を比べればドイツの経済成長率が高く、アメリカの成長率が望むほどではなかったのは当然だった。


前話で正平が言ったように自由経済に好不況はつきものであり、不況の時は不採算の事業や効率の悪い企業を淘汰する機会と捉えるべきなのだ。ルーズベルトが公約通りに財政赤字を止めていたなら、アメリカ経済はさらに悪化しただろうが、それでも効率の高い企業は生き残り、次なる機会に大きく飛躍する準備をしたことだろう。新たな産業が芽生え、陳腐な産業と入れ替わることが早まっただろう。例えばIBMは11年創業の会社であるが、パンチカードなど計算機械を手掛けて、国勢調査の計算処理で事業を伸ばしていた。後のコンピューター産業の基礎をこの頃に固めている。

自由経済市場では企業が独自判断で経済活動を行うので、未来の産業がなんであるか、どの分野に投資するべきか決めるのは経営者に任せた方がいい。政府は失業者増大して社会の安全秩序が破壊されるのを防止するのに専念するべきだ。失業保険の充実や求人紹介、職業訓練などを積極的に行いながら、直接雇用などはしなくていい。

ルーズベルトのやったことは結果として「お金をばらまいた」だけとなった。


私は学校でTVA(テネシー川流域開発公社)のことを世界恐慌からアメリカを救った成功例と教わったが、それほど効果のなかったことを後で知った。32個の多目的ダムを中心にした総合開発でありながら、効果は限定的だった。この事業で全国の民間会社に行き渡るほど経済効果になるはずもなく、民間の投資意欲は低迷したままだったからだ。冷え切った民間需要を取り戻すのは公共事業だけでは無理だった。

私も全てのダム事業が無駄だと言うつもりはなく、失業対策や景気浮揚を狙って行うのではなく、災害対策などに効果があると思っている。正平も大規模なダムを計画している。今後、このダム開発が効果をあげるかどうか見守っていてください。

それから、アメリカの大統領には二人のルーズベルトがいた。26代大統領のセオドア=ルーズベルトと32代大統領のフランクリン=ルーズベルトだ。両者は親戚の関係でもあった。今までもそうでしたが断りを入れなければ、単にルーズベルトと書けばフランクリン=ルーズベルトを指すとご承知しておいてください。

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