176話 ラジオ声明5
226事件が起きてから2年、正平は事の経緯を話すべきと考えた。
「一昨年の2月に、首都東京を揺るがすクーデター事件が起こりました。事件を起こした者達は、陸軍の青年将校で、『昭和維新』『尊皇斬奸』を唱え、天皇の名をかたり政治を壟断しているとして、政府要人などを襲撃したのです。
襲撃されたのは岡田啓介首相官邸、高橋是清蔵相邸、斎藤実内相邸、鈴木貫太郎侍従長邸、渡辺錠太郎教育総監邸、牧野伸顕伯爵邸が襲撃され、高橋蔵相、斎藤内相、渡辺教育総監、岡田首相の義弟とそして犯行を防ごうとして警察官5名も亡くなられました。
彼らは「君側の奸」を討つと言いながら、天皇陛下のお気持ちも考えずに犯行に及んだ。
事件を知って陛下はお怒りになられ、討伐を命じられています。
彼らこそ、「天皇陛下の軍隊」だと騙りながら、好き勝手に暴れた輩だったのです。
計画も未熟であり、犯人たちは政府要人の人柄を調べもせずに、襲撃した。岡田首相官邸を襲撃した際に、義弟の松尾氏を誤って殺害した。犯人たちは本人かどうかを確認しないまま松尾氏を襲ったのです。それだけ、犯人は襲撃しようとする人物が、どのような人なのか分かろうとしなかった。本当に「君側の奸」なのか考えることもしないで、風評だけで判断したのです。
こんなバカげた行動だったのです、
ここで彼らの行動を起こした理由・背景を考えます。陸軍にはいくつかの派閥があり、事件を起こした者達は自らを天皇の軍隊「皇軍派」と称していました。これに対抗し、国家を統制しようと考える「統制派」がありました。また陸軍は大村益次郎・山県有朋が基礎を固めたことから長州閥が実権を握っており、「山口派」を形成していました。事件は此の陸軍の派閥争いが背景にあったのです。
犯人たちは天皇の軍隊と自称する「皇軍派」の一派でした。彼らは皇軍派の指導者の言葉をうのみにして、行動を起こしてしまった。
どのような組織、会社でも派閥はあるものですが、陸軍では実権を握ろうとして、殺害事件まで引き起こしたのは重大です。このようなことはどのような理由があろうと到底許されません。
国民には深く認識して欲しいのですが、このようなクーデターでは何も問題を解決できないのです。
彼らは困窮している農家を救済すると言っていたが、何一つ救済する手立てを考えてなかった。そんなことで農民は救われますか?
クーデターが成功して、彼らが実権を握ったからと言って、良くなったでしょうか?
彼らは社会主義に傾倒していたが、どのような経済政策を執るかなど計画もしてなかった。
彼らは政府の重要な人物を殺しておいて、自分たちの指導者に政治を行ってもらうかとしか考えてなかった。その指導者がどのような経済政策をして、失業者を無くし、農家を救う手立てを考えているのか問うこともしなかった。ただ、指導者をあがめただけの子供にも劣る者達だった。
こんな者達が実権を握っても、世の中は混乱するだけで国民の生活はよくなりはしない。
明治以前なら、戦争や暗殺により権力を握ることができた。平清盛、源頼朝、足利尊氏、織田信長など武力で権力を握った。
武力以外で権力構造を変えることはなかなかできなかった。
だが、現在わが国には憲法が作られ、法律が制定されている。明治より前なら、刀や鉄砲で人を脅し、言うことも聞かせることはできた。
だが今は法律により、生きる権利が守られている。権力者の思いのままに、国民を処刑することなど出来ない。法の下には平等であり、何人も法を順守しなければならない。武力に頼らなくても、法律によって世間は動いている。武力を使うのではなく、法律を変えることにより、世の中を変えられるのです。
そして法律に不備があれば、選挙で選ばれた代表により、法律が変えられるのです。
ここで江戸の頃も法律はあったと疑問に思われる人もいるでしょう。
しかし明治時代よりの前には憲法と選挙がなかったのです。江戸時代は武士が自分たちに都合の良い法律を作り、自分たちに都合のよい政治を行えた。侍が一番偉くて、次に農民、その下に職人、より下が商人とした士農工商などの制度も作ったのです。侍以外は意見を言うことも許されない時代だった。
憲法が出来たおかげで、人は対等に物が言えるようになった。
そして選挙によって、良くない制度や法律、あるいは景気が悪ければ為政者を変えることもできるのです。
武力など使わずに世の中を変えられるのです。
我が国は選挙によって政治家を選べ、その結果総理大臣も変えられます。
私自身は、226事件の混乱処理のために選挙を経ずに首相に任命された。私もこれは異常なことと認識しており、いずれか選挙を行って、私への評価を国民にしてもらおうと思っている。
ただ、前回の総選挙が行われたのは、事件の直前で、まだ2年しか経っておらず、国会議員の任期を半分残しております。従って、国会をすぐに解散させるのは国政が停滞し、短期に変化してしまい、望むべきことではありません。
しかし、必ず選挙を実地して、私の仕事への評価を国民から審判される覚悟です。
国民に分かって欲しいのは武力で世の中を良くは出来ず、混乱を生むだけです。
国民は選挙によって、国政を変えられること。武力では何一つ良い結果をもたらさないことを理解して欲しい。」
正平は226事件の背景に陸軍の派閥争いがあったことを話した。しかし、「宇垣派」を長州閥と言い、自身が近かったことは伏せて置いた。これは後の選挙を考えてのことだ。
実際には226事件後、広田内閣、林内閣、近衛内閣と政権が変った。
38年初頭のころ、日本は日中戦争が激化の一途だった。国共合作がなった蒋介石軍は本格的に攻撃を仕掛けてきて、日本軍を苦しめていた。これは日日本軍上層部の判断を超える事態だった。日中戦争などやらなくても良かった戦争だった。
広田内閣はともかく、日中戦争を防止拡大できなかったのは林内閣と近衛内閣に大きな責任がある。
林内閣は政党の支持を取り付けられず、国会運営に苦労したことから37年に突如、国会を解散した。まだ36年に選挙をして1年しか経ってない時の解散だった。林内閣に協力的な政党の勢力の伸長を目論んでのことだったが、国民は林を拒否した。林が選挙などしないで日中友好に心血を注いだなら、あるいは戦争を防止できたかもしれない。
そして、近衛内閣で柳条湖事件から日中戦争が勃発してしまう。近衛には戦争を防止し、拡大していくのを傍観するしかなかった。
林も近衛も平時の首相なら問題なく勤められただろう。官吏として見れば林も近衛も有能だ。特に近衛は他人の意見をよく聞き、判断できる人物だった。ところが、戦争が始まり、戦線が拡大するような非常時な場合は、八方美人的な人物は何もできない。自分の意見を持ってないか、他人の意見を聞きすぎて、何もできないのである。近衛は他人の意見を聞きすぎた。
日中戦争が起きた当時、日本には乱世に強い指導者がいなかった。乱世では己の考えをしっかりした者でないと、歩むべき方向を指図できない。その点で、林銑十郎と近衛文麿は好人物であったが、当時の首相として任が重かったと言える。




