167話 ラインラント侵攻
ラインラントはベルギー、ルクセンブルクからフランスに到る国境沿いの、ドイツ西部のライン川河畔を示す名称だ。
ここはローマ時代にはドイツで最も栄えた地域であり、ケルン、マインツなどの主要な都市が含まれる。周辺地域には地下資源も豊富で、ライン川を利用した交通網が発達した地域でもある。そのため、たびたびフランスからの侵攻を受ける地帯でもあり、ルイ14世やナポレオンも食指を伸ばし、フランスの支配下に置かれていた。1815年にウイーン議定書で正式にプロイセン領となり、ドイツ帝国成立後は工業地帯となっていた。
それだけの重要な地帯なこともあって、大戦終結後のヴェルサイユ条約により非武装地帯とされた。そして、フランス軍が治安維持を担っていた。
フランスは先の大戦でドイツによって、国境を破られ、大きく浸食された経験を持つだけにナチスの軍拡路線に警戒していた。
「ヒットラーは平和の仮面をかぶっていただけだ。条約を順守することなど考えてもいない」
「ドイツをこのままにしてはいけない」
「ドイツをこのまま野放しにしてはつけあがるだけだ」
そのような声がフランス国民にも上がり始めた。ところがフランス政府はラインラントから軍を撤退させる。
「おいおい、これで大丈夫か。ドイツが図に乗って、攻めてくるんじゃないのか」
フランス国民は心配の声を上げた。
そしてとうとう、36年3月にドイツはフランス軍の居なくなったラインラントに軍を進めてしまう。
ヒットラーにとってラインラントへの進軍は大きな賭けだった。
フランスなどの主要国がドイツの条約違反を理由に戦争に踏み切るかもしれなかったのだ。
ナチスが政権を取り、軍備拡張に走りだしたばかりであり、当時のドイツ軍はフランス軍と比べても見劣りしていた。
「今のドイツ軍ではフランス軍に勝てない」それがドイツ軍首脳の考えだった。
「ラインラントへ兵を進めた後の48時間は私の人生で最も不安なときであった。 もし、フランス軍がラインラントに進軍してきたら、貧弱な軍備のドイツ軍部隊は、反撃できずに、尻尾を巻いて逃げ出さなければいけなかった。」とドイツの将軍グデーリアンが語っているほどだ。
ヒットラーにしても、確信をもってラインラントに進軍を決めたのではない。フランスが怒って立ちあがれば、撤退をする考えだったのだ。
ところが肝心のフランスが先頭に立って、ドイツ制裁に動き出さなかった。
フランスの外交の特徴として、本国近くでの争いを好まないことがある。特にドイツとは正面から戦いを挑む気概を持ってない。
普仏戦争で大敗し、先の大戦でも大きな損害を被った歴史があるだけに、ドイツと事を構えるのは慎重だった。
特にフランス軍の首脳はマジノ線を防衛線として考えており、ラインラントへの関心が薄く、ドイツ軍と対峙する気はなかった。
そしてフランス国会が選挙中だったのも大きい。政治家が国内の選挙に関心を寄せる中、フランス外相のプランタンがイギリスに足を運んだ。
イギリスの態度次第で、制裁に動くか決めようとしたわけである。
結果的に言うと、フランスはラインラントに軍を送らなかった。
歴史的に見て、フランスのこの時の対応が、ヒットラーの拡大路線を勢いづかせ、次の戦争を引き起こすことになる。
ヒットラーはこの大きな賭けに勝った。
ラインラントに進軍したドイツ兵は住民から花束で熱狂的に迎え入れられた。
これをドイツの宣伝相が「ヒットラー総統の大勝利」「ラインラントは総統の手によって、解放された」「これまでの政権でできなかったことが、成し遂げられた」とあらゆる賛辞、美辞麗句を使い持ち上げる。ヒットラーの得意顔はいかばかりだっただろう。
ヒットラーは自信を深め、軍拡路線を推し進めた。
民間消費財の生産を後回しにして、軍事物資の生産に集中する。
戦車や飛行機、潜水艦は次々作られてゆき、機械化されたドイツ軍は他国を凌駕するほどになっていく。
大きな戦力を持てば、新たな野望を抱くのが常だ。
ザール地方、ラインラントを取り戻した後、ヒットラーはかつてのプロイセン領、「ポーランドの回廊」と呼ばれる地方に目を付けないはずはなかった。
一方、この当時のヨーロッパの最大の経済大国、軍事大国だったイギリスはナチスドイツをどのように見ていたかと言うと、危険と見なしてなかった。
ドイツのラインラント進軍をイギリスは静観していたのだ。それどころか、いつもドイツのことばかり騒ぎ立てるフランスに辟易もしていた。
「なんで、フランスはあんなにドイツを気にするんだ。共産主義者の活動の方が余程危険ではないか」
イギリス国内ではコミンテルンに参加した者が多くいて、計画経済導入を訴える声があった。
支配階層にとりこのような声は無視できないものだ。
イギリスはドイツを使って、ソ連の共産主義に対抗させようという考えをもった。そしてドイツからの同盟の話を持ちかけられてもいた。
フランス外相からの対応を問われても、腰を上げる気はさらさらなかったのだ。
正平はこれらの動きを見て、アメリカから軟化の姿勢を引き出すよりも、イギリスとの友好を計る方が成功すると考えた。
「メアリの手紙でもルーズベルト大統領に変化の兆しはない。当分アメリカとの協調は難しいと考えるよりないだろう」
佐藤外相とも話し合い、駐英大使に接触を試みさせる。
「日英同盟を復活」それが正平の目標となった。




