139話 軍務大臣
大臣を起用するうえで一番気を使ったのが軍事大臣だった。
賀谷を蔵相に起用しても、軍事大臣が造反しては内閣で予算案を取りまとめすることも出来なくなる。
佐藤が如何に中国政府に友好を呼びかけても、軍部が暴走したら逆の結果になりかねない。
誰を陸軍大臣、海軍大臣にするかで内閣が左右される。
「まずは閑院参謀総長だ」首班の任を受けることを決意した塚田は、翌日から陸海軍の要人、政治家などに協力を要請していた。その中でも閑院宮は陸軍内部に大きな力を擁しており、是非とも支持を取り付けておきたい人物だった。閑院宮は皇族でありながら、騎兵出身で実戦経験もある生粋の軍人と言って良い人物だ。どの派閥にも属さないことから、中立的な人事として、参謀総長に据えられていた。
訪ねるとまるで待っていたかのように応接間に通されると閑院がすぐに現れた。相変わらず偉ぶることのない態度に正平は安心した。
「この度、西園寺さんより首相になるように言われました、ぜひ閣下の協力を得たいとお願いにまいりました」と単刀直入に切り出す。
「君が受けるのは当然だよ。今の状況を変えられるのは君しかいないと思っている」
「私は富国強兵のためには陸軍の近代化を必要です。空軍の創設も図らなければならないと考えています。そのためには是非とも閣下のご支援をお願いしたいと思っております」
「陸軍の近代化は進めなければならないし、空軍の創設も必要になって来る。そのためには人事をどのように考えているのか?」
「まず陸軍大臣ですが、参謀に押さえの効く人でないと困ります」
「寺内ではだめか」
寺内は親子2代に渡り軍人の家柄で、父親は元帥まで上り詰めていて家柄も申し分なかった。1つ年上だったが陸軍大学では正平とは同期で、人となりは知っていた。その時の印象では彼は頭の出来もよく、戦場経験もあり度胸も申し分なかったが、他人の意見に耳を貸さない傾向があった。直情径行で思わず本音を言ってしまいがちで、国会答弁で不用意な発言をしかねない懸念があった。“割腹問答”で国会を混乱に陥らせた張本人であり、正平としてはとても任命したくはなかった。
「軍人としては有能です」
「軍人は務まるが、大臣向きではないということか」正平の顔を覗き込むように言う。閑院宮は要職の陸相が次々に交代するのは良くないと考えていて、引き続き寺内の続投を考えていたようだった。ただ、国会の紛糾は寺内に責任があるとも思っており、それ以上寺内を推すこともなかった。
「だったら、君がやれよ」それは首相が陸相を兼任することだ。
この言葉で正平の陸軍大臣兼任が決まった。
一方海軍大臣は永野修身をそのまま続投する肚だった。寺内が割腹問答に憤慨し、広田前首相に浜田国松の懲罰動議を要求した時、押しとどめようとした。常識ある言動に正平は引き続き海相の続投を決めていた。
閑院の他に陸軍関係でもう一人会っておくべき人物は宇垣だった。
宇垣は長年陸軍の要職を務めており、実質上宇垣派で陸軍上層部が固められていた時期もある。これが水田を筆頭とする統制派との大きな軋轢を呼び、今回の首相人事で参謀室に毛嫌いされた理由でもあった。ただ陸軍大臣を何度も経験しており、何回も首相候補と噂になるほどの実績を重ねていた。今度も首相候補筆頭だったが、参謀たちに邪魔された形となり、相当腹に据えかねているはずだ。
正平にとって
宇垣は永らく上司として仰いだ人物で、それを差し置いて、首相になるのだから挨拶だけはしようと考えた。
「この度思いがけなく首相を拝命しました。しかし今も私は首相には閣下が最適任と思っております。」
「俺は参謀共に嫌われ過ぎたようだから、君がなって当然だよ」憤懣を押し殺すように言う。
そう言っても今度の首相選びを宇垣は釈然としてない。一旦は宇垣に首相の内命が下りながら、軍部、特に統制派の妨害で頓挫したのだ。そして代わりに部下であった正平が首相になる。この展開は急すぎて、宇垣は情報を把握するのに手一杯で、正平の首相拝命を知るのも遅かった。
その確認をとる前に正平の方から訪ねてきてくれた。
「西園寺さんは最後まで宇垣さんを推していました。ただ、統制派の締め付けが強くて、閣下を推挙できませんでした。」
宇垣は少し、顔を赤らめてはいたが、正平の説明を黙って聞いた。
「分かった。俺も首相にいつまでもこだわっていない。それよりもこれからの日本をどうするか、考えているのか?」
「まず、北支に展開する軍隊をどのようにするかが喫緊の問題です」
「あいつらは頭に血が上っているから、どこかで暴発しないとも限らないからな。早く撤退させるべきだな。だがそれをどうやる?統制派が上層部を握り続ける限り、撤退には応じないだろう」
それは正平も同じ意見だった。
「閣下のお知恵をお借りしたいのです」その言葉に驚いたように目を丸くする。
「随分、俺を買ってくれるが、君は自分の思う通りにすればよいのではないか。俺は皆から嫌われ過ぎた」
「閣下はこれまでのご経験が無駄だと思っておられるのですか、私はそうは思いません。閣下の持つ人脈は私にはないものです。そのお力をお借りしたいのです」
その言葉の真意を探るように正平の顔を見つめた。正平もきちっと目を合わせた。
「ふん。うまく丸め込まれたな。では問題なことを言ってみろ」
正平は宇垣に顔を近づけ、小声でささやくように言った。
宇垣との会談は極秘裏であり、会談場所には二人だけだ。それども声を落としたのは誰にも聞かれたくなかった。
「非常手段だがそれしかないな。俺も尽力しよう」
最後はそう言ってくれた。




