138話 塚田内閣の骨格
「北支に展開している部隊を率いているのは武藤章だ。彼は永田鉄山に心酔して、『北支を中国から分離させ、日本の支配下に置く』という永田の考えを遺言のように考えている。その実現性を疑いもせず動いている。俺が撤兵など言い出しても、絶対に従うはずはない。」
北支に展開する部隊をどうやって撤退させるか、悩みは尽きなかった。自分にそれができるだろうか、自問自答する。
「いかにして陸軍将校たちを説得させて戦争拡大を防止できるか」陸軍の暴走を食い止められるか、非常に難しい状況と思わざるを得ない。
北支の駐屯軍は騒乱を引き起こしてでも北支を中国から切り離そうとしている。北支で混乱を起こすことにより、事態が収束されるのを遅らしてきた。正平が北支からの撤兵政策を始めれば、軍部の反発を招き、首都に混乱を起こして首相から引きずり下ろすことまで考えるだろう。まして昨年のクーデターで軍部の武力を怖れる空気は政財界に蔓延している。元老や重臣も真っ向から軍部を批判できなくなっているし、天皇陛下も批判を口にしてない。こんな状態で正平に成算などあるわけなかった。
「今の状態で北支に注力するのは愚の骨頂だ」
外交だけでなく、経済にも目を広げてきた正平には北支に展開することの不合理さが痛いほど分かっている。
「永田は北支などにある地下資源に注目して、北支分離を提言したが、効果はほとんどない。北支に展開しながら陸軍からどれだけの地下資源が埋まっているかほとんど報告ないのがその証拠だ」
「本当に北支の地下資源を必要としたなら、今頃日本には多くの北支からの地下資源が入ってきてよいはずだ。しかし、そんな報告は全くない。北支に展開する部隊はただ、戦争をやりたがっているだけだ」
それが正平の見方だった。
何より北支に展開することで中国政府との緊張は高まるばかりだ。
中国政府は国際連盟などを通じて、アメリカやヨーロッパ諸国と連絡を取り合っている。
「アメリカやイギリスでは中国政府に同情的なものが多い」
正平の認識では日本は欧米中心の国際社会で悪者のイメージが膨らみかけている。
「北支から何の実益もないまま、ただ北支に軍隊を置くのは実害しかもたらさない」
だが、今の陸軍は永田の遺言を忠実に実行しようとする統制派で固められている。
「いまここで、性急に俺が北支撤退を主張しようものなら、俺は直ちに粛清される」
このまま手をこまねいて北支の軍隊を放置しては、新たな紛争の火種を生む。かといって、撤兵を主張すれば「腰抜け、売国奴」という非難が正平に向かいかねない状態だ。
「武藤たちの暴走をどのようにして食い止めるか」正平が首相の大任を背負った時、真っ先に解決しなければならない問題だった。
それには身近に協力者がぜひ必要だ。本心で言えば勉強会のメンバーで組閣したいところだが、彼らを大臣に起用するにはまだ年齢も経歴も足りなかった。
「大臣には私の意見と同じ考えの者を起用したい」
内閣の構成をどのようにするか真っ先に取り組まねばならない仕事であり、まず蔵相、外相、内相そして軍務大臣を誰にするかだ。
「大臣の要請をする前に、意見の一致を確認しないといけない。その人事で躓けば内閣は瓦解する」
主な大臣は前内閣のから引き続いて採用する方針だが、その前に自らの方針を説明して納得して入閣してもらう考えだった。
大臣として最も重視したのが大蔵大臣である。前内閣では軍事費の膨張に歯止めをかけられず、内閣の崩壊に繋がった。同じ轍を踏みたくはない。
「陸軍にしっかりと意見を言える人物でなくてはならない」
そこで目を付けたのが、高橋蔵相時代、軍部と渡り合って軍事費の予算を切り詰めていた主計局長の賀屋興宣だ。
「高橋さんの路線を引き継いでもらうことになりますが、問題はないですね」
高橋は世界恐慌の混乱後続いたデフレ脱却を行うために、就任するや積極財政をしいて乗りきった。積極財政はしばし財政の悪化を招き、批判もあったが日本は世界恐慌からなんとか脱却できたのだ。その後経済が順調に推移するに従い、引き締め気味にして軍事予算もカットしたのだが、これが陸軍将校の怒りを買って殺害された。日本にとってクーデターにより高橋という頼みとなる人物を失ったのは痛手だ。彼なら軍部の圧力に負けずに適正な予算案を作成できたはずだ。それを賀屋によりやってもらおうとした。
「ええ、その方針で行きたいと思います。」賀屋はこれに同意した。
「予算は昨年度と同じ事になり、来年度からが新内閣の仕事になります。」
明治憲法では政府の予算案が衆議院で会期末までに通過しなければならない時は、前年度の
「いつも、もめるのが陸軍と海軍の予算取りですが、どうされますか?」
顔つきはごく普通に話しているが、正平に陸軍と海軍の軋轢をなんとかできるのかという暗黙の問いかけでもあった。かつて高橋が軍事予算で苦労していたことをしゃあしゃあと切り出すあたりやはり大蔵省を経験したしたたかさがあった。
「私は陸軍大臣と兼任するつもりですが、不必要なものは削減する方針です」
「なるほど、そうしていただければ助かります。海軍も陸軍が無茶を控えてくれれば無理は言わないでしょう」
実際に陸軍と海軍のライバル意識は強く、いつも相手側より少しでも多くの予算取りをしようとしていた。ある海軍将校などは『敵は陸軍である』と言ったという噂まで流れていた。
「ただ、陸軍海軍とは言わず、近代化機械化に重視と兵士への処遇は配慮したいと思っております」
「予算枠は限られており、緊縮気味の予算ではあまり期待はされないでください」
「この件については今後も話し合っていければと思います」
「それについては同意します」
最初こそ腹の探り合いもあったが、最後は相当詰めた会話となっていた。
外務大臣には前首相の広田からの推薦もあり佐藤尚武を起用する。
「中国との関係を改善してもらいたい」
「それは同意しますが、北支に展開する兵をどうしますか?」
佐藤も北支からの撤退を重要視していた。
「大変対応の難しい問題だが、北支の扱いは今後の日本の運命を決めかねると認識しています」
「それを聞いて、私も中国との交渉に前向きになれます」
「欧州の情勢をどうよんでいますか?」
「ナチスドイツの軍拡路線は欧州に緊張をもたらしています。このままだと戦争は不可避と考えますね」
「大戦が不可避だとしても私は参戦しない考えですが、佐藤さんはどう考えます」
「私も日本が参戦する大義も、メリットもないと思います。参戦の必要性はありませんね」
「できればアメリカとも国交の改善をしたいのだが、どう考えます」
「勿論私も同じ考えですが、中国問題を解決しないとアメリカとの改善は進まないとみます」
なおも、佐藤とは国際情勢について突っ込んだ話をして、互いの認識を共有していった。




