125話 岡田内閣退陣
二・二六事件での責任を取り、36年3月9日、岡田内閣は総辞職した。
では岡田内閣はどのような内閣だったのだろうか。少し振り返る。
岡田内閣発足時、後継の首相を決める立場の西園寺は「前の斎藤内閣は帝人事件で失脚したが、工作によるものであり、明らかな失政があったとは言えない。だったら、次の内閣も同じ海軍大臣で穏健派の岡田が良いだろう。」
そうやってできた岡田内閣は、当初から中継ぎの性格が強かった。
そこに国会内の勢力図式が影響を与える。300議席を持つ政友会は、国会最大勢力でありながら首相を出すことができなかったので、岡田内閣には当初から対決姿勢だった。それをお構いなしに岡田は政友会の山崎達之輔・床次竹二郎・内田信也を取り込んで内閣に迎えこんだ。彼らは大物であったが非主流派であり、言ってみれば政友会の内輪もめに岡田は手を突っ込む形になった。当然、政友会執行部は3人を除名し、岡田内閣とは敵対関係になった。これを見ても岡田が政治的感覚に優れているとは言えないだろう。
更に、新大臣の藤井蔵相が健康問題から就任5カ月で辞任する。藤井は前内閣で大蔵次官をしており、前蔵相高橋の強い推薦で大臣にしていた。
そこで岡田は「あなたが強く推した藤井君が辞任してしまった。責任をとって蔵相をあなたにしてもらいたい」とやや強引に高橋を蔵相に迎え入れたのだ。この高橋が軍部を抑え込んだ話は前にしたが、政友会執行部の怒りを更に買うことになる。
「ふざけるな。我々に相談もなしに入閣するとはけしからん」
そうは言っても高橋は元政友会の総裁である。流石に除名は出来ず、別離宣言して、完全に敵の立場になってしまった。ここから、政友会は、美濃部の「天皇機関説」などを利用して、様々な攻撃を執拗に始めるようになる。
このようなことから、岡田内閣の政局運営は当初より不安定で、軍部からの要求に逆らいきれず、第二次ロンドン軍縮会議を脱退し、関東軍の華北進出を許すことになる。
勢いづいた政友会がここで内閣不信任案を国会に上程し、可決され衆議院は解散する。ところが国民は政友会のこの動きを批判的に見ていた。
第19回総選挙で、政友会は大きく議席を減らし、与党の立憲民政党が第1党になり政局は落ち着くかに見えた。
岡田の苦労した甲斐が報われるかに見えた矢先に二・二六事件が起きたのだ。
当時の状況から岡田内閣に非はないのは、明白だ。
だが、前任の斎藤前首相、片腕と頼む蔵相・高橋是清、義弟の松尾を失い、岡田の受けた精神的ショックは大きい。
頼りとしていた高橋蔵相と身内で献身的に支えてくれた義弟を失った事に、岡田は強い喪失感を持ってしまった。すっかり内閣を続けていく意欲を失い辞職を決意する。
その時、落ち込みようは相当、酷かったのだろう。事件後、昭和天皇に拝謁したときの岡田を見て、天皇は、「岡田が自決するのではないか」と深く危惧したといわれている。
後任の首相をまたも選ぶことになった西園寺は、一旦は、貴族議員議長の近衛文麿を推薦する。
事件後の事態を収拾するには政治経験も深く、各方面とも繋がりを持つ近衛しかないと判断したのだ。しかし、近衛は病気を理由に辞退してしまう。だが本当の理由は、近衛は皇道派に同情していて、自らの手で関係者を重い処分に課せられないと考えていたからと言われている。
そこで重臣とも協議して、枢密院議長・一木喜徳郎は岡田内閣で外相をしていた広田弘毅を推した。西園寺もこれを了承し、近衛を介して吉田茂を説得役として派遣した。
「いやこのご時世、私では荷が重すぎます」広田は拒んだ。
「他に誰がいます」吉田の強い説得に広田もついには承諾し、西園寺は広田を3月5日に首相に任命する。
広田は挙国一致内閣を目指すのだが、ここで組閣は軍部の抵抗で組閣は難航する。
軍部は内閣の顔ぶれを見て、不平を言って来たのだ。
軍部から好ましからざる人物として吉田茂(外相)、川崎卓吉(内相)、小原直(法相)、下村海南、中島知久平があげられた。吉田は英米と友好関係を結ぼうとしており、『自由主義者』であると言うのだ。結局、広田が外務大臣を兼務し、吉田は辞退して駐英大使に任命になる。また小原、下村らも辞退し、川崎を商工相に据えることにより、なんとか3月9日になって、ようやく広田内閣が成立した。
このようなことからも分かるように当時の政界では軍部の力が強く、軍部の顔色を窺わなくては大臣を選ぶのも出来なかった。
事件の後、政界では「軍部に逆らえば殺される」という恐怖心が充満した。総理大臣になろうとする者は皆無だったのだ。そのような中で広田が総理大臣を引き受けたので、広田は「火中の栗を拾った」と言われ、「広田」にちなんで「拾った内閣」と言われるほどだった。
広田は1878年に福岡の石材商に生まれ、地元の小学校を出たのち、修猷館高等学校に入学。陸軍士官学校を目指していたが、三国干渉に衝撃を受け、外交官を目指すようになる。
幼名は丈太郎だったが、卒業直前に禅宗の僧侶から「お前は自分で自分に責任を持てると思うなら自分で名前を考えろ」と言われ。「弘毅」と改名した。福岡で
福岡で頭山満の支援を受け、上京し、東京大学法学部政治課を学び、また頭山の紹介で副島種臣、山座円次郎、内田良平などを知る。卒業し、一度は外交官試験を落ちたが、翌年には首席で外務省に入っている。
その後多くの海外勤務をするのだが、いくつかの業績を上げている。駐ソ全権大使をしていた32年に満州事変が起こり、政府は直ちに撤兵する旨を各国政府に通告するよう訓令するが、広田は一人慎重姿勢をとり、ソ連に通告しなかった。その後、関東軍がチチハルに居座り日本は各国政府から非難を受け、各国の駐在大使も信頼を損ねるのだが、広田だけは例外だった。
また25年には、広田は欧米局長として、日ソ基本条約を各方面に働きかけ、締結させ日本はソ連と国交を回復し、シベリア出兵問題を最終的に解決させた。この時、「外務省には幣原外相、出淵 勝次外務次官、広田の3人の大臣がいる」と言われたほどだ。
33年に斎藤内閣で外務大臣に就任し、駐日アメリカ大使のグルーと信頼関係を得る。斎藤内閣では対ソ強硬論を主張する、荒木陸相や大角 岑生海相を抑え、「皇国国策基本要綱を骨抜きにしている。荒木陸相はここでも封じ込められており、陸軍内部で評価を落とすことになった。
岡田内閣でも引き続き外相を務め、35年に帝国議会において「私の在任中に戦争は断じてないと云うことを確信致して居ります」と発言する。彼は日本の外交姿勢を「協和外交」とし、全ての国との協和を目指すと考えていた。これには蒋介石や汪兆銘などからも評価を受ける。それ以降中国に対する強硬外交から融和的なものに改められ、在華日本代表を公使から大使に昇格させ、諸外国も追随させる動きとなった。
一方、軍部はこの融和政策に反対で、中華民国との軍事衝突があるたびに、高圧的な態度で交渉し、梅津・何応欽協定などを行ったのは記述した通りである。当時の日本は中国に対し、外務省と陸軍とが別々の交渉をしていたことになる。
そのような難しい状況下、広田は外相として実績を上げ、首相となった。




