121話 華北分離政策
113話で小畑の考えを書いて、永田と対立したと書いた。
小畑と永田は対支那政策で対立したのは、欧米列強の中国政策をどう見るかでもあった。
小畑は「支那に手出しすると必ず、支那に利権を持つ英仏やアメリカの反発を受けかねない」と反対した。
この時は小畑の主張が通り、北支の北京政府には関東軍も進軍しなかったし、圧力をかけて来なかった。
事実、満州事変での世界各国の反発により、関東軍は満州の直接統治ではなく、満州国独立策を取るほかなかった。
国民政府が国際連盟に訴え、日本は世界各国ら非難を浴びることになった。
そして日本と支那の関係は塘沽協定によって、満州事変は収まり、それ以来、比較的平穏に過ぎていた。
真崎が教育総監を更迭される前の35年5月、林陸相と永田軍務局長は満州に赴いた。林が対満州事務局総裁を兼務しており、そのための満州視察で、永田は事務局参与として随行した。
その最中に、天津の日本租界で新聞社の社長の暗殺事件や非武装地帯での日中軍の小競り合いが起こる。
このようなことは当時の治安の悪い支那の状況下では、珍しいことではなかったが、ここで酒井隆支那駐屯軍事課長は北京の何応欽国民政府の北平主任に猛烈な抗議をする。
一、これらの事件は日本への挑発行為であり、停戦協定違反である。
二、今後このような行為に対し、自衛上の必要な行為にでる。
三、華北においてのこれらの同様な事件の発生を根絶するため、国民政府軍などの撤退を要求する。
これは国民政府の勢力を華北から排除するのが目的で、永田などとも示し合わせていた。
酒井と何応欽の交渉が続いている最中に永田は「北支那政権に対する天津駐屯軍の交渉は了解している。『既に、矢は弦を放たれた』のであり、中央においてもこれを支持すべき」と電文を中央本部に発している。
これを受け、陸軍内部と参謀本部では橋本陸軍次官と岡村寧次が中心になって、「問題の処理は現地軍に担当させ、国民政府勢力を河北省から撤退させる要求を、行わさせる」などの意見にまとめられた。
次いで、満州にいた林陸相、永田事務局長、土居原賢二奉天特務機関長と首脳会議が開かれる。そこでは関東軍の一部を長城傍近くの古北口、山海関、それに錦州に集中することを決める。それは国民政府に圧力を加えるものだった。これに梅津美治郎駐屯司令官も応じて、酒井は強い態度で何応欽に要求した。
これに中国側も折れて梅津=何応欽協定が成立する。
内蒙古のチャハル省においても国民政府と協定が結ばれ、国民政府を排除している。
これによって、国民政府勢力を華北から分離する工作が成功する。
この一連の流れは永田が林陸相の満州視察を利用して、中央本部や関東軍とも連絡しながら、交渉させたものである。
以前なら、英仏米はすかさず反応して、国民政府を支援したことだろう。
しかし今回、英仏米はほとんど何の動きも見せなかった。また国民政府も外国に支援要請の動きを見せなかった。
1935年3月にナチスドイツが再軍備宣言を行った。ヴェルサイユ条約を破棄して急激な軍備拡張路線に走ったのだ。
これに欧米各国に衝撃が走った。
イギリスやフランスにとってナチスドイツの動きは、どうにも気になる。少し前に大戦引き起こした強大な国のことだった。嫌でも大戦の悪夢が思い出された。
そんな時に、遠いアジアにある中国の事情など他人ごとにしか映らない。
それは中国大陸への利権を狙うアメリカについても同じで、中国大陸よりもヨーロッパ大陸に関心が向かうしかなかった。
再び、ヨーロッパでの緊張が高まると見て取った永田は「日本が支那に過大な要求を突き付けても英仏やアメリカは何も動かないだろう」という読みがあった。
国民政府は頼みの綱の英仏米の支援が期待できない状況で、日本に譲歩するよりなかった。
予てから考えていた永田の戦略。
永田は国内における不足資源の供給を満州とモンゴルを含む中国に求めていた。中国を国防確保の資源基地と見ていたのだ。
それには、国民政府の勢力を華北から追い出すよりない。
永田は林陸相が満州に滞在している際に、ことを起こして決着を付けようとした。
永田の読みがずばり当たったと言えよう。
華北から国民勢力を一掃できたことにより永田の戦略を一歩推し進めることになった。




