108話 休戦協定
32年10月、万里の長城の東端に位置する山海関で日本軍と中国軍が衝突する。
犬養内閣の時から関東軍の満州による軍事行動は過激になり、満州国は東の3省の他に内モンゴルの熱河省を領内に組み込む形勢になっていた。しかし、熱河省は張学良のまだ影響が大きく、関東軍はここを実質上も支配下にしようとした。ただ陸軍中央は関東軍の熱河省の編入方針を認めてはいたが、国際連盟などとの関係を考慮して、熱河省への進軍は認めていなかった。
熱河は清朝の夏の保養地として知られ、満州と中国本土の間にくさびのように存在し、その終端は山海関で海に接していた。この地は満州国の一部とされ、その山間地は北京を含む中国北部を威圧する場所としても、重要であった。またアヘン栽培による収益が当地の価値を高め、その地理上の位置が戦略的・政治的に重要なものとなっていた。この地を支配していた湯玉麟は、かつては張学良の部下だったが、満州国の熱河省長に就任していた。張学良はこの地から産出され、天津と北京に流れるアヘンをさばくためにアヘン販売局を設けて莫大な利益を上げ、自身の満州国における工作活動資金としていた。
この状況下で事件が起きたのである。
翌33年1月になって、山海関でまたもや日中の軍が衝突する。
この衝突は支那駐屯軍の策謀によって引き起こされたもので、山海関を占領するまでに拡大する。
陸軍中央は梅津美治郎を派遣し、「英米からの嫌疑を呼ぶ行動は満州問題の解決を困難にする」と言って注意を与えている。
ただ、関東軍がこれを素直には聞かなかった。
2月になって、斎藤内閣が熱河省の軍事侵攻を承認すると、関東軍の熱河作戦が本格化する。
これに対し張学良は熱河攻略を決意し、南京政府軍も加えて正規軍を熱河に侵入させるが、撃破されてしまう。逆に関東軍は3月には省都の承徳を占領し、さらに長城にまで達する。
ここで張学良は敗北の責任を取って軍事委員会北平分会代理委員長を辞任するのだが、蒋介石にとっては張学良の配下を抑えたことになり、北支への足掛かりを掴むことになる。
一方、板垣征四郎天津特務機関長は反蒋介石勢力を集め、クーデターを起こさせる謀略作戦をしている。
永田鉄山参謀本部情報部長は板垣に謀略工作の資金として300万円程度の金を渡している。その際に「蒋介石は敵であり、日本国に敵対する勢力は北支から除くしかない。是非とも6月中に目的を達成して欲しい」と述べた。
だが、こんな計画で永田や板垣たちは成功すると思っていたのだろうか。
何一つ準備もなく、時間さえなかった。本当にこの計画は杜撰としか言いようもない。
親日的な勢力を使ってクーデターを起こさせるなら、もっと事前に周到に準備しておかなければ成功など覚束ないだろう。
案の定この計画は失敗した。
これで思い起こさせるのが日露戦争の終結の裏話だ。当時ロシアの民衆は生活苦に困り、負け続けている日本との戦争にも嫌気がさしていた。首都ペテルブルグで「戦争中止」を叫ぶ大きなデモが起こり、これを鎮圧しようとした警察が市民を殺害する騒ぎとなった。これによりロシア政府は講和条約締結を受け入れざる状況に追い込まれた。このデモには日本軍人が裏で工作をしていたとも言われている。ロシア国民の心情に上手く入り込み、日露戦争反対の声を大きくさせたのだ。
これに比べ板垣の工作は準備も時間もない。思い付きで始めたようなものだった。
その後も関東軍は4月に長城を越えて河北省に侵攻し、長城から大砲の射程範囲内にある中国軍をすべて排除している。
22日には「中国軍が灤河以東から完全に排除された」と発表する。
そして以後の日本軍は中国軍が新たな攻撃を行わないことを確認後直ちに撤退する予定であることを示した。
これに対し、昭和天皇は真崎参謀次官に「河北からまだ撤退しないのか」と問いただされている。
天皇陛下の中国との紛争を懸念する心境が伝わる話だ。
真崎は「速やかに兵を撤退すべし。しかざれば奉勅命令下るべし」と関東軍に指示し、関東軍は長城にまで撤退する。
だが、これも長くは続かなかった。
翌月、5月になると再び長城を越えて河北省に侵入し、北京や天津に進撃する。
真崎は北支政権を屈服させるか、崩壊させるべきとの指示を与えている。もはや天皇陛下の詰問は頭にない。そこには親日政権樹立を謀る板垣らの工作を容認していたことが見て取れる。
その後も関東軍は進撃を続け、北京の北数10キロの地点にまで到達する。
ここに至って、5月25日に中国側から停戦が求められ、31日に河北省東部に非武装化地帯を設ける内容の停戦協定が締結された。
これで一応満州事変は終結されることになる。
これを見ても、この当時の日本軍は力だけに頼ることしかできなかったと言えよう。
板垣たちが謀略工作を考えていたようだが、結局うまくいかなかった。
この当時の日本軍には敵を謀略で混乱させる発想がなさ過ぎた。
戦国時代の武田信玄は、敵を混乱させるのにあらゆる手段をとることに躊躇していない。
「戦争を仕掛ければ味方も損害を受ける。それなら金を使ってでも敵国の武将を寝返らせた方が安上がりだ」信玄の発想は柔軟だった。
金や女、嗜好品あらゆる物を使って敵将をなびかせようとした。その結果、信玄は長い時間と準備をして敵国内に味方を増やすのに成功する。
今川義元が亡くなった後、最も駿河に領地を広げたのは勝利した織田信長ではなく信玄だった。川中島で上杉謙信との戦いが互角でも、北信州の大半を信玄は手中に納めている。また北条と上杉が戦いを繰り広げた上州の地もいつの間にか信玄が領土にしている。
戦国時代、最も戦さ上手だったのは謙信で、最も策略上手なのは信玄だったと言える。それに比べ関東軍は力だけで満州問題を解決しようとした。
そもそもこの当時の日本には諜報活動の中に、敵の錯乱を起させる部署が存在させてこなかった。後に陸軍中野学校が設立されるのだがあまりに遅かったと言える。




