104話 満州領有計画
張作霖を爆殺工作したのは河本大作であり、満州事変の引き金になった盧溝橋事件を実行したのは板垣征四郎と石原莞爾も、関東軍に所属する一夕会のメンバーだった。
この二つ事件により、日本は満州から引くに引けない泥沼にはまり込むことになった。
前に書いたように、当時の若槻内閣は戦線不拡大の方針を執り、正平も金谷参謀総長もそれに従って、関東軍を抑え込みにかかり、今一歩のところで一夕会を陸軍中央から追い出すまでに手を打っていた。それが、思わぬ内閣不一致により若槻は首相を辞任し、正平たちの考えていた陸軍人事は行えなくなったばかりか、宇垣派は陸軍上層部から外されてしまった。
その後に首相になった犬養も戦線拡大は不承知であったが、関東軍の暴走を止めることはできない。石原は関東軍を動かし、戦線を拡大していく。
「満州問題を解決するには、満州を日本領土にすればよい」それが石原たちの考えだ。
日本陸軍は「日露戦争で多大な犠牲を払ってまで獲得した満州を手放すわけにはいかない」と全国各地で講演会を開いて主張した。これに多くの国民やマスコミも賛同し、満州での関東軍の行動を熱狂的に支持する。
この声に押される形で、犬養内閣も満州での関東軍の動きを黙認するしかない状況に置かれるようになったのだ。
満州では石原と板垣が、そして国内では永田鉄山が実権を握るようになっていた。
ただ、外交関係に大いに悩むことになる。
中国政府は国際連盟に「日本軍の侵略行為」と提訴し、アメリカも9か国条約に違反している抗議してきた。
そして32年1月にはアメリカのスチムソン国務長官は不戦条約違反を理由に、満州事変の状況を一切認めないとする方針を表明した。
これにより石原たちも目標の変更を余儀なくされ、対外国との対応を考えて、「現地住民の意思による独立国」を志向するようになる。
ここで日本陸軍は新たな事変を起こす。同じ年1月末に上海で日本軍と中国軍が衝突した。上海はヨーロッパ諸国やアメリカの権益がいくつも重なる地である。ここで衝突事件が起これば、満州から外国勢力の関心が薄れることを狙ったのだ。
このようなことをして、3月に、関東軍は地元の有力者を脅して満州独立を認めさせる。
元首を摂政として清朝最後の皇帝溥儀で、首都は長春を改称して新京とした。日本の権益である租借地や満州鉄道の利権はそのまま継続した。
溥儀を摂政にしたのは、満州を形の上で共和国の体をとり、侵略と見なされないようにした工夫である。
満州は満州族の発祥の地であり、清朝の祖であるヌルハチが「金」を起したことに発する。溥儀にとっても満州での独立国の誕生は清朝復活のまたとない機会と思えたのだ。
溥儀が皇帝を名乗ったのは34年3月からだ。
満州国の最高権力者は溥儀であるが、名目に過ぎず、実権は関東軍が握った。満州国の首相や各大臣は溥儀の側近や現地の有力者であるが、実際は日本から送り込まれた官僚が取り仕切っていて、本当の支配者は関東軍司令官だった。
満州国の施政は関東軍によるものとなり、流石にこれではまずいと思ったのか、日本政府も34年2月に対満事務局が設置し、満州国の政策に関与できるようにした。しかし同局の総裁は陸軍大臣の兼任なのだから、どれほどの関与ができたのかうかがい知れよう。
関東軍の行政は現地の状況をあまり顧みなかった。日本人の入植者に土地を与えるために、現地人から土地を取り上げた。また赤字財政を補うためにアヘンの販売を公認したとも言われる。反日活動を疑われた現地人は碌な調査もないまま即断即決され、処刑された。
余りの関東軍の横暴さに、現地有力者で満州国の趙燕京外相や韓雲階新京市長は抗議の声を上げた。また日本から送り込まれた官僚のなかにも、抗議して受け入れられなかったことから辞職する者もでている。
特に板垣征四郎の高圧的な態度、力を誇示する姿勢は反感を生んだ。
この一連の流れを見ても、関東軍の計画のちぐはぐさや行政能力のなさが分かる。このあたりの文献を読んでも石原たちが事前に満州領有計画をどれほど練っていたのか大いに疑問だ。
ただ、この時の満州の実情はほとんど日本国内に知らされておらず、国民の多くは満州国誕生を歓迎していた。
これに対し「いくら喉が渇いていようと、盗泉の水は飲むな」政治学者の吉野作蔵は正論を言っている。
また国際政治学者の横田喜三郎は「満州事変は国際法」と明言している。
残念ながら、これらの声は少数派で新聞にも取り上げられなかった。
正平は満州の情勢を詳細には知らなかったが、マスコミよりは良く把握していた。その情報を会のメンバーにも伝えておいた。
「今の満州の事態を見れば、いかに一夕会の計画が未熟なものか分かる。彼らは軍事力があれば支配できると考えていて、行政などをどうするかまで考えてもいない。このままでは行き詰まる」
それが彼の率いる勉強会の結論だった。




