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パン職人と頬の痛み

大量の粉だった。

いつもの三倍仕入れたという粉。それは勿論――戦場だ。


あたしは朝からずっとパンをこねている。

天然の酵母をいれて、醗酵させて空気を抜くためにだんだんっと艶やかな大理石のプレートに叩きつける。パン屋、というかこうなるとパン職人の世界だ。


――マイラおばさんはあたしの顔を見るなり謝った。

「リドリー、悪かったね。あんな失敗作を食わしちまってさ」

と、心底申し訳なさそうに言っていたが、できれば触れて欲しくなかった。パンのえぐみと一緒に変態が脳裏で踊る。辞めて欲しい。

 あたしはエプロンをつけながら引きつり笑みで「平気ですよ。あたしマイラおばさんのパンをいつも楽しみにしてるんです。そんな顔しないで?」と続けた。

「それに、何でもチャレンジしないと。新作パンはイメージとインスピレーションだっていっていたのはマイラおばさんでしょ?」

「そう、そうだね。

判ったよ、リドリー。あんたがそう言ってくれるんならあたしも心強いよ! そうだね、新しいパンは挑戦だよね」

――めげないあなたが大好きです。


あたしは心の中で泣いていたが、今現在はとてもキモチがいい。

パンを叩きつける行為というのは凄いキモチが良いものだとはじめて知った。

「パンは叩いてやるのが一番さ。

ふっくら、ふんわりの美味いパンを作るコツは、力いっぱい投げたりぶつけたりすることさ!

 あんたもやってごらん。頭の中で大嫌いなやつを思い浮かべるのがコツだよ?

まぁ、あんたにそんな相手がいるかどうかあやしいけどね」

豪快に笑ったマイラおばさんだが、それはもう当然――あたしの内部はただ今絶好調に魔術師を叩きのめしている。


もうむしろ何故昨日のうちに息の根がとまっていなかったのだろうとすら思えてくるから不思議だ。

 あたしは一心不乱にパンを叩いた。

こねた。投げた。作りまくった。

――マイラおばさんが多少引いたところで、今のあたしは物凄く清々しいのだった。

パン屋というのはとても素晴らしい職業だったのだ。

天職かもしれない。

「えっと、少し休みなよ?

せっかく明日は半日休みだっていうのに……あんた疲れて動けなくなっちまうからね?」

 マイラおばさんの助言と同時、今日は閉店となっているパン屋のガラスベルが軽快な音をさせた。

「ばーちゃん!」

元気な調子で入り込んできたのは、弱冠十一歳の将来有望株―――マイラおばさんの孫であるアジス君。

 ほわほわとした栗毛の髪と、やんちゃな緑の瞳をくりくりさせた愛らしい少年だ。

アジス君はそのままの勢いでマイラおばさんに抱きつき、ついでひょこりとその影からこちらへと視線を巡らせた。

「リドリー、働いてるか?」

「頑張ってるわよ、アジス君」

あたしはクスリと笑ってしまう。

「働き者はいい嫁だって言うぞ。おまえはきっといい嫁になれる」

 うんうんとうなずく弱冠十一歳。

「それに比べて、かぁちゃんはちっとも働かない。あれは嫁には向かないんだ」

――何度も言うが弱冠十一歳。

 この口調はどうやら彼の父方のお祖父さんのものらしい。あったことはないが、きっと物凄い偏屈親父に違いないとあたしはにらんでいる。


「生意気な口きいてるんじゃないよ。

それより、あんたの母さんはどうしたんだい?」

「母ちゃんは道端で話しこんで動かないからオレ一人で来たんだよ。まったくオンナってヤツは困ったもんだよな」

 アジス君のお母さんのターニャさんはまだとうぶんきそうにない。

あたしとマイラおばさんは顔を見合わせ、笑いあった。

「腹はへってないかい?

昨日の残りパンでもおあがり」

「今日は焼いてないのかよ?」

「今日は下準備だけさ。明日の朝に一杯焼いて収穫祭に備えるからね。

ほらほら、手を洗っておいで。リドリー、あんたもだよ。ちょいと休憩にしよう」

 マイラおばさんの柔和な顔がさらに優しいものになる。


家族っていいなぁ。


なんて、落ち込むことを考えてしまった。

――あたしって結構懲りない性格かもしれない。

ついでに後ろ向き。

 全部捨ててきたのだ。

自分で捨てたのだ。

何度も同じキモチで沈むなんていい加減にしろ、あたし。


「どうした?」

水場で並んで手を洗っていたら、アジス君がひょこりと下からあたしの顔を覗き込んできた。

緑の瞳が真摯にあたしをみあげていて、あたしはうまく笑えているかどうか途端に不安になる。

「何でもないよ?」

「ふーん?」

「――なんかおかしい?」

「オトナってめんどくせえな?」


弱冠十一歳の少年よ、君には何が見えているのか?

あたしは引きつった。

「そうだ。明日はオレが案内してやるからな」

「え、うん。楽しみにしてる。この町の収穫祭ははじめてだから」

「別にそんなに面白くないぜ? 毎年十四歳のオンナが女神役でパレードして、美味いもの食って踊って騒ぐだけ」

「うちのほうの街ではね、女神はコンテストで選ぶよ?

ここはそういうんじゃないみたいだね」

――妹のティナも、十三の年にコンテストで優勝して花冠をつけて女神を演じた。

あの子は本当に可愛い子だから、むしろ当然だったろう。

脳裏に金色のふわふわとしたティナが浮かんだ。

「もともと人が少ないからな、この町。今年は確か領主さまのトコのコだろ?

去年は靴屋の娘だった」

アジス君は昨年のパレードの様子を楽しそうに語っていたが、やがてマイラおばさんに呼び戻された。

「あんたたちいつまで手を洗ってんだい?

ふやけちまうよ?」

笑いながら言われ、あたしとアジス君は顔を見合わせて笑った。



「領主さまは随分と素敵な人みたいね。

お客さんが言ってたわ」

 売れ残りのパンを(カマド)で多少焼きなおし、あたたかなミルクでパンを食べる。

その時の話題でそういえば、マイラおばさんは嬉しそうに、

「そりゃあね、ご領主さまは立派な方さ」

と言い、

アジス君は「おっさんだろ」と冷たい。

十一歳には二十歳過ぎた人間は【おっさん】らしいという恐怖にあたしは身震いした。

あたしが【おばさん】と呼ばれる日も近い。

「明日はきっとご領主さまもパレードに参加されるんじゃないかね。なんといってもアマリージェ様が女神役だしね」

「それは楽しみですねー」

もちろん、人気の高いご領主さまのご尊顔だ。

「オンナってそんなんばっかなぁ」

アジス君は盛大に溜息を吐き出す。

「さてと、そろそろ暗くなる」

そう言い出したのはマイラおばさんで、それを合図にしたようにアジス君が席を立った。

「リドリー、送ってく」

「え?」

「明日の祭りのおかげで、街に知らない顔がちらほらいんだよ。

町の中に入れなくて外に野宿してる連中もいるしさ、暗くなると物騒だろ? 送ってく」

 弱冠十一歳の少年はそういいながら少し伸びた前髪をかきあげた。


――君は何故に十一歳なのか。

あたしはその男前さに少しばかりくらりときてしまう。

「でも、祭りの準備で町の人達だっているし」

「トシゴロのオンナが遠慮してんな」

「……」

「送ってもらいなよ、リドリー。そんなチビスケでも声と度胸だけはいっちょまえだからね。何かあれば大声で啖呵の一つで町の人がくるさ」

 カカと笑うマイラおばさんに、あたしは肩をすくめてこれ以上断るのも難だと思い、甘えることにした。

「チビスケはよけいだ、ばーちゃん」

アジス君はふんっと横をむいた。



 薄暗くなった町中。

石畳の道を歩きながら二人で祭りの話しやマイラおばさんの凶悪パンのことを話題にあたし達は楽しく帰路についていた。

 手をつないで、まるで本当の姉弟のように。

無邪気に笑い、怒るアジス君が可愛くて思わず頬が緩んでしまう。

そんなあたしの心を突き刺すように、突然――


「リドリー!」

名前が呼ばれ、あたしがそれを認識する前に、

パシンっと激しい痛みが頬を打った。


――金色の巻き毛がふわりと風に揺れていた。

目元を真っ赤にして、振り上げた手をそのままにその場に立っていたのは、


「ティナ……」


あたしは、一年ぶりの妹の姿に目を見開いた。


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