出会い
神都アンバルロガには傭兵区、神殿区、王宮区、一般居住区と多くの人間が区枠に分かれて生活をしている。それがトラブルを生まない最善策であり、長い歴史の中の中で守られて来た伝統であった。
そんなアンバルロガの一般居住区の一画にある学校。広大な敷地にところせましと並んだ多くの建物。その建物一つ一つが区分けされ、そこでもまた住み分けが施されている。そんな建物の一室に、これまたところせましと並んだ大量の書物、道具類。棚に収まりきらなかった本や道具類が、床にも投げだされて転がっている。ほぼ全てが大学の図書館にも貯蔵されているものの写本ではあるが、中にはここにしかない、貴重なものもある。部屋は閉めきられていて、中に人はいない。シンッと静まりかえった部屋には僅かな写本の発するカビ臭さとインクの匂いが充満している。
その床に無造作に投げ散らかされてできた本の山が崩れる。一人の男が身体を引き起こす。
「……あ、危ない。死ぬところだった」
本に潰されて死ぬなんて大袈裟な事を言いながら彼はその白く細い身体で窓を開ける。日射しを遮る雨戸も開けると、眩しい日光が目を焼く。
「……ううっ、眩しい……」
寝起きと空腹と三日ぶりの日光浴で立ちくらみを引き起こす。しばらく窓から下の往来を眺める。学生達は自分に気付かずに楽しそうにおしゃぺりをしながら行き交う。その内の何人かは、開かずの窓と有名な窓が空いている事に気付き、拝み始める。なんでも、窓が開いている時に願い事をするというお まじないがあるらしい。この間外に出た時にそんな話を聞いた。全く根拠がない事に何故うつつを抜かすのだろうかと、彼には不思議で仕方がない。
そんな時、ふと一人の少女に目が止まった。
懐かしい記憶が頭を駆け回る。気付いた時には部屋から飛び出していた。近くにいた学生が開かずの扉が開いた事に驚き腰を抜かす。彼はそんな事に目もくれなかず構内を走って表に出る。キョロキョロと見渡して彼女の姿を探す。
慣れぬ日の光の中を走るのは彼にとって大きな負担になった。それでも縺れる足で必死に走った。
角を曲がった所で人とぶつかってしまう。彼は転んだが、相手は一緒にいた連れが支えたようだった。
「す、すまない!」
謝って立ち去ろうとするが、目の前の少女が自分が探していた相手だと気付く。昔と変わらないその姿に、目が熱くなる。
「シルヴィア!」
抱きつこうとしたところ、頬に強い衝撃を受けて、彼の意識は闇の中に落ちていった。
リョーはメイと共に、これから通う学校の見学に来ていた。傭兵区の人間というだけで周りから奇異の視線を送られる。リョーは一切気にしていないようだが、腰の剣は周りを威圧するには充分だった。
「お? メイ、ここでは医学についても学べるみたいだぞ?」
魔力と高い教養を必要とする魔法と違い、医学は誰にでも使える薬品を作れる学問だ。何より、魔法使いよりも安定した収入が魅力的だ。魔法使いになったところで、学籍を置き続けて勉強に没頭するか、戦場に立つかのどちらかしか道はない。町でアミュレットの作成、販売というのもあるが、流行が大事という、どちらかというと服飾系の仕事に近いものになる。
それらを考慮してリョーはメイに、色々なものに触れさせたいと思っている。
「なんだか、兄さん楽しそう」
クスクスとメイが笑う。リョーは僅かに感じた照れくささを誤魔化すように前にでる。
今まで仕事でどこか遠方の都市に足を運んだ事もあるが、そういう時は決まって行商人や露天商といった、メイの目の治療の手掛かりを探すばかりで、学校という空間に目を向けた事はなかった。実際に学校という空間に足を踏み入れてみると、自分の住む世界、見てきた世界とは明らかに違い、色々と目移りしてしまったのがメイには楽しそうに見えたらしい。実際、見慣れぬ風景は楽しませてはくれるが、空気は明らかな拒絶の色をしめしている。
学校に行くのには、それなりの家でないと通えない。というのも、金がかかるからだ。基本的な文字や計算は親に習い、生活の中で鍛えられていくものの、いざ学問となると訳が違う。そこでは様々な事を学ばなくてはならないのだ。魔法を習うならば神話も多く読み、深く理解しなくてはならないし、医学ならば薬草の効能や人体の構造を覚えなくてはならない。
リョーも簡単な読み書きは出来るし、いくつかの神話こそ知っているものの、神の力を借りるだけの魔法は大した効果を発揮しない。神話への理解が浅いからだろう、と独学を悔やむ。
リョーは学校に通う事なく、戦場に向かう途中で神話や魔術に関する基本的な文献に目を通しただけだった。結果として得た魔法は自分にとって都合の良いものだったが、もっと効率的な運用が出来るならば、その方法を知りたいと思ってしまう。それで戦場での生存率が上がるならばなおさらだ。強力な魔法が使えれば、局地戦での生存率はうんと高くなるだろう。だから学を増やしたいとは少しは思うのだが。
「いや、良いや、俺は。剣さえあれば」
「もー、そうやって~」
メイが頬を膨らませる。リョーは可愛い、と蕩けた表情をしながらメイを眺めていると、胸元の小さな赤色の石のついたネックレスから、退屈、という思念がリョーの頭に飛んでくる。それはリョーと使い魔の契約を交わしたメドゥーサのルーフィアだ。呼ばずとも出てきては我儘をいうのが困りものだが、戦闘に関しては申し分ない実力を発揮してくれる。大人数の戦場で呼ぶと後々面倒な事になるのは明白のために、辺境の魔物狩りや山賊狩りの際によく力を借りる。
戦闘中も変化の魔法が解けなければ良いのだが、模擬戦でも最後まで保った事はない。おそらく戦場での活用は程遠いだろう。
頭を悩ませるのはそれだけではない。神殿の動きだ。
そもそもにして、いさかいの絶えない傭兵区の中でも特に事を構えるリョーの妹、メイの目の治療をクラーラに命じたのも理解に苦しむ。リョーに対する牽制か、目の治療方を確立した事での収益の確保目的か。
また、クラーラを傭兵区に迎えた時に襲われた後、一向に動きがないのが気になる。いつ矢を射られるのか解らない恐怖とリョーが射られた事への怒りで傭兵区は嫌な空気に包まれた。
神殿の行動はあまりにも不可解過ぎた。
だが、何も襲われる事を期待している訳ではない。平和ならそれで良いとリョーは楽観視し、束の間の平和を満喫しようと伸びをする。
ちょうど角に差し掛かる。メイが角から飛び出して来た男とぶつかる。リョーは慌ててメイを支えるが、男の方は無残に尻餅をついた。
スリか? リョーは男を睨む。
「す、すまない!」
大層慌てた様子だった。モタモタとしたそのトロさからはスリという線は薄そうだった。大体において、メイは持ち物をハンカチくらいしか持ってないのだから、スリの心配もいらないのだが。
四肢は細く色白く、白衣に眼鏡という出で立ちが、まさにリョーが想像していた学生のモチーフに符合する。部屋に引き込もって本ばかり読んでそうだと思えた。
「ああ、こっちも」
「シルヴィア!」
すまなかった、という謝罪を遮り叫んだかと思うと、あろうことか、男はメイに飛び付いていた。
流行りか何かか?検討違いな事を考えながらも、リョーはその男の頬を殴り飛ばしていた。
「に、兄さん!?」
「やっべ……」
男が泡を吹いてのびていた。まさかここまで打たれ弱いなんて思わなかった。傭兵仲間なら笑って済ます程度だったのに。リョーはメイの方を見ながら、乾いた笑顔を浮かべる。
「ハハハ、いや、悪い。あまりにも軟弱過ぎて……想定外だ」
「いや、兄さん、思いっきり振り抜いてたよね!? っていうか、どうして殴ったの!?」
「いや、えっと……」
「とにかく! あっち連れてって介抱しよ?」
メイに言われるがまま、近くの広場にまで担ぐ。始終メイから白い視線を浴びせられる。リョーはまさか一般区にいる人間がここまで打たれ弱い事を想像しておらず、頭をかく。メイの護身のために来たのだが、自分の株が下がりかねない。
「……研究者かな、この人」
「学生だろ?」
「え? そうなの?」
「え? 学校にいるんだから、学生だろ?」
「……兄さん? 学校には、学生以外にも学生さんに授業する人とか、いろんな人いるよ?」
「……ああ、そーだな……」
「白衣着てたら、研究者を疑うものでしょ?」
「そうなのか?」
「今まで歩いてて、白衣きてた人なんていた?」
そういえば、あまり見なかった気がする。いたとしても、リョーよりも年上っぽい相手ばかりだった。だとすれば、とんでもない事をしてしまった気がする。
「研究者か……。殴り飛ばしたら不味かったかな」
「そりゃ、不味いに決まってるでしょ? だって、学校の偉い人だよ?」
「……むー」
リョーにはどうしても、目の前で伸びている相手が「偉い人」という風に認識出来ないでいた。学生でないにしても、使いっ走りとか、そういった感じだった。これは早急に手を打たないと不味そうだ。
「っつーか、いい加減目ェ覚ませ」
リョーは事もあろうか、白衣の男の頭を蹴り飛ばす。メイは顔を真っ青にして、声にならない叫びをあげる。
「ッッッ!?」
学生生活終了の報せを聞いた気分だ。メイは殴り飛ばし、さらには蹴り飛ばす兄の神経を疑う。そして、男は少し呻いたかと思うと、やがて瞬きを繰り返す。意識を取り戻した男を、ハラハラとメイはみるばかりだった。
「起きたか?」
メイを死角に追いやり、リョーが顔を覗き込む。男はしばらく状況が理解出来ないでいる様子だったが、やがてハッと我に返ったようで立ち上がろうとする。
「す、すまない! 僕は!」
「まぁ、落ち着けって」
胸の中心に手を添えて、体幹を押さえる。普通前から暴れる人間を押さえようとしても殴られるだけで実用性はない。だが、リョーは目の前の男が殴りかかるような事はしないように思え、抑え込む。まずは冷静になってもらわなくてはならない。そして、自分が殴ったという事を忘れてもらわなくてはならない。
「アンタ、大丈夫なのか? 角から飛び出してきたと思ったら、いきなり飛びついてくるもんでよ。まさか顔面から壁にダイブするとは思わなかったから、思わず避けちまったんだが」
サラッと嘘をつくリョーに男は唸り記憶を辿ろうとし、メイは青い顔がさらに青くなる。男はパニックを起こしているのだろう。だが、それがちょうど良い。記憶を改竄するにはその方が好都合なのだ。
「覚えてないか? 俺の妹にいきなり「シルヴィア」って叫んで飛びついたんだぜ?」
「き、君の妹君? それは失礼を!」
「いや、良いって。誤解だったんだろ? こっちも思わず守ろうとしてよ……結果あんたの顔は壁に激突しちまったんだしよ」
「……いきなりそんな粗野な真似をした僕を君は何も咎めずに許すというのかい? ……ああ、傭兵なんて柄の悪いゴロツキとそう変わらないって聞いていたけど、そんな事はないみたいだ! 傭兵にも、君みたいに大らかな人格者がいるって解って良かったよ!」
「そうかそうか」
ペテン師がニヤリと嗤う。これは昔カローナに教えてもらった手法だった。といってもこういう事があるから相手の話には気をつけろという話を、誰かにしていたのを立ち聞きしただけだったのだが、こういった不測の事態には用いるようにしている。
男が異常なまでに愚直であった幸いに、リョーは嗤う。どこの神に感謝すれば良いのかも解らないが、事の顛末はリョーの望む方にへと転がっているように思えた。願わくば、この男に恩を売って色々と楽をしようとすら思えた。
「んで、俺の妹はそんなにそのシルヴィアって奴に似てたのかい?」
「あ、ああ。雰囲気が良く似ていてね。……だが、僕だって解ってるんだ。シルヴィアは……もう帰って来ない……」
「……そう、か」
厄介事に首を突っ込んでしまった気分だった。リョーは恩を売る計画を破棄して、退散する事に決めた。
「じゃ、じゃぁ、俺達はこれ」
「兄さん?」
メイが冷たい目で見ていた。ああ、これはそういう事なのだろう。なんてこった。すでに結末は決まっていたようだった。メイが前に出て、男の手を取る。男は懐かしさと、もう手に入らないものを感じ取り、寂しそうな顔をする。
「詳しいお話、聴かせて頂けませんか?」
ああ、やっぱりとリョーは肩を落とす。男はメイの申し出に驚き、再び、瞬きを繰り返した。




