氷の上の日々
「と言う訳で、めでたく月光ルナさんが我がテニス部へと入部してくれることになりました!」
流子が拍手すると同時に、春香と夏海も手を叩いて笑みを浮かべる。
昼休みに昼食の為に中庭に集まった時に、簡易的にお祝いを受けることになった。ルナは流子にある質問をする。
「で、選抜大会っていつやるの?」
「あと1ヶ月後。エントリーは2週間以内にしないと駄目なんだけどね」
「ふーん、でも4人でいいなんて随分少人数でいいんだね」
その発言が出た瞬間、場の空気が凍りついた。
そして、流子はいそいそと正座し、ルナに向かって静かに深く頭を下げた。
ルナはそれを不審な顔つきで見守る。
「えー、月光ルナさんに大変申し訳ないのですがお詫び申し上げます」
「……?」
「ようするに、地区予選に出るには4人いればいいけど……そもそも部活動として認められるには5人必要で、しかもその先の都大会に出るには最低7人いないと駄目と」
「うん。他にも人手がいるなんて言ったら渋られるかなーと思って敢えて言わなかったんだけどね」
「それはもういいんだけどさ……結局、あと2週間以内に3人くらい入部させないといけないって事?」
ルナが尋ねると、流子は首を横に振った。
「都大会までに2人入部してくれる当てはあるの。だから、最低であと1人入部してもらえばいい」
「あと1人……」
夏海が弁当のハンバーグを飲み込んでから口を開く。
「最悪助っ人でもいいんだけどね。幽霊部員でも大会の日だけ参加してくれればいいし」
「けどそんなのメンバーに入れてたら勝てっこないわよ。最後の試合に回されたら詰むし、最初に捨て試合するのも嫌だし」
「できれば経験者がいればいいんですけど……」
春香がそこまで行ったところで、何者かが近くに来ていることにルナは気がついた。
流子もルナの視線に気がついて振り返り、そして一瞬固まったかと思うと罰が悪そうに目を逸らした。
「流子、赤川先生がアンタのこと探してたわよ」
「あ、そうなの。それはどうもわざわざありがと……」
珍しくどこか遠慮がちに話している流子に、ルナは不思議に思う。すると、流子に話しかけた少女が自分をみていることに気がついた。
白く繊細な肌に、グラデーションの掛かった青と白の長髪が雪原のような儚げな美しさを感じさせる。
「……あなた、新入部員?」
「そーだけど」
「ふーん、1人見つかったんだ。それは、よかったわね」
台詞だけなら祝福しているようだが、どこか皮肉めいた言い回しにルナは違和感を覚えた。
少女が去ったあと、夏海が流子に腕を組んだまま投げかけた。
「流子、いい加減誘いなよ」
「いや、それはさ……」
「つらら先輩なら経験者で実力もあったって、流子が一番良く分かってるでしょ」
つらら先輩と言うのは、先ほどの少女のことだろうか。
ルナが尋ねようとすると、流子がそれを遮るように一歩引く。
「私先生が呼んでたみたいだから、ごめんね」
そうして勢いよく逃げ出した流子の背中を見送り、ルナは夏海に尋ねた。
「夏海先輩、つらら先輩ってさっきの人?」
「うん。まぁ隠すことでもないから言うけどね…」
「流子とつらら先輩は、昔同じテニスクラブに通っていたの。確か幼稚園の頃からだったかな…… 二人でペアを組んでいたんだって。あんまり強くなかったみたいだけど、そりゃもう仲のいい二人組だったって」
「仲良かったんだ」
「うん。きっかけは二人が小6くらいの時だったかな…… なんか、シングルスの大会に出る子が急に都合が悪くなってね、代理でつらら先輩が出場することになったの」
問題は、その内容だった。流子とダブルスを組んでいた時とは、全く違う動きで勝ち進み、つららはその大会であっさりと優勝してしまったのだ。単なる偶然かと思いきや、その後の大会や試合でも、つららはいつも上位に入り続けた。
つららに、シングルスプレイヤーの才能があるのは誰が見ても明らかだった。
流子は考えた。このまま自分とペアを組んでいていいのか、と。
自分がつららの足かせにしかなっていないのは、他の誰でもない自分自身が一番分かっている。なら、つららの為に自分が出来ることは……
『流子? う、嘘、よね……?』
『嘘じゃない。もうコンビは終わり』
『なんで? 約束したじゃない、私達、二人で一緒にトッププレイヤーになろうって』
『もう分かってるでしょ…… 私達、終わってるんだよ』
自分の腕に縋ってきたつららを、流子は振りほどいた。別れたくない、つららに、酷いことなんて言いたくない。
そんな自分の気持ちを押し込めて、流子はつららを一方的に見捨てるふりをした。後ろで泣き続けるつららの姿を、流子は、必死で見ないふりをした。
「とまぁ、こんな感じかな。とある人に聞いた二人の昔話は。事情があったとはいえ、流子の方から一方的に振ったわけだから、流子からしたら今更自分のところに勧誘するのは筋が通らないって渋ってんのよ」
「……ふーん」
「私は、正直に謝って仲直りして欲しいんだけど……」
春香の意見に、夏海は静かに頷いた。
二人に仲直りをして貰いたいのは夏海も同意見なのだが、流子もつららも意地を張っているのか中々まともに会話しようとしないらしい。
そこまで聞いたところで、ルナは踵を返して立ち去ろうとする。
「ルナ? どこ行くの」
「ちょっと、野暮用」
街の外れに静かにそびえ立つ、雪北神社。その境内を、つららは無表情で掃除していた。
箒を動かすたびに、落ち葉やゴミが地面を転がっていく。ゴミを一箇所に集めて引き上げようとした瞬間だった。
背後からなにかの気配を感じたつららは、素早く振り返って箒を盾にする。そして、飛んできたテニスボールを上に弾いて左手でキャッチする。
そこには、ラケットを持って堂々と立つルナがいた。
つららはルナにボールを投げ返しながら尋ねる。
「何か用?」
「ちょっとね。せっかく小石どけてくれたんだし、ちょっと打っていかない?」
ルナはさっきまでつららが掃き掃除していた場所に移動して挑発するように流し目を向ける。
つららは溜息を吐いて箒を地面に捨てる。
つららは自分の水色のラケットを振って、ルナの打ってくる打球を返していく。
二人共それなりに速いスピードのボールを打ち続けるが、決して遠くへ飛ばしたりはしていない。相手が打ちやすい場所へとひたすらスピードボールを返し続ける。
「私、はっきり言うんだけど、さっさと仲直りして入部して欲しいんだよね!」
「絶対、嫌!」
「なんで。私が頼んでるから?」
「別にアナタが駄目とかじゃない」
「やっぱり、流子先輩じゃないと駄目?」
「……!」
僅かにだが、打球のスピードとキレが上がった。ルナはその変化を感じて笑みを浮かべる。
「……生意気な1年!」
「先輩が面倒くさいだけじゃないの?」
つららが思い切り打った打球を、ルナはラケットで掬い上げるように受け止める。すると、打球は全く弾まずにガットの上を静かに転がって留まった。
つららは生意気な顔で微笑んでいるルナをじっと見つめ続けた。
翌日、流子は放課後になって校舎裏のコートに向かっていた。
そして、コートの中にいる人物を見て足を止めた。そのまま反転して帰ろうとしたが、後ろに待ち構えていた夏海に捕まり、そのままコートの中へと引きずり込まれる。
そして、コートの中で仏頂面で立っているつららと無理やり対面させられる。
「えーっと……私、どういう状況か分かんないんだけど……」
「私は、そこの生意気なルーキーに連れてこられただけ」
「……ルナ?」
珍しく恨めしげな顔で見つめてくる流子を、ルナは無視して顔を背ける。
夏海と春香がネットを張って二人の元へとやって来た。
「色々言いたいことあるだろうしさ、テニスプレイヤーならテニスして語らせようってなったの」
「二人で対戦したことなんて、全然なかったんだよね? いい機会だと思うな」
春香に頼まれて、流子は複雑な気持ちになる。
確かに、昔にもつららと対戦したことは殆ど無かった。つららを見ると、自分のラケットを持ってはいるがコートに入る気配がない。
流子は観念して、自分から先に一歩踏み出した。
「1ゲーム先取でいいよね?」
「いいわよ。1セットなんて面倒だし」
流子のサーブで試合が始まった。流子の打ったファーストサーブはサービスラインギリギリに落ち、まっすぐつららの右側に向かって飛んで行く。
つららはストレートに打ち返し、サイドラインスレスレにボールを弾ませる。流子はすぐに追いついてストレートへ打ち返した。
そして、つららが返球しようと力を込めてラケットを握り締めた時だった。コートに一際冷たい風が流れ込む。つららのラケットがボールを捉えたインパクトの瞬間、ボールの周辺が氷に覆われ、勢いよく弾けとんだ。
その迫力に押されて、打球はどこに行ったのか流子やギャラリーのルナ達が目で探し出す。
「……あっ」
ボールを最初に見つけたのはルナだった。つららの打ったボールは、あの迫力とは裏腹にネット際をゆっくりと転がっていた。
何が起こったのか分からず混乱する夏海達を尻目に、流子はボールを拾ってサーブを構える。
「0-15」
コールした直後に、先程より力を込めてサーブを打つ。再びつららは力いっぱいラケットを振ってボールを打ち、その瞬間氷が砕けて周囲に飛び散る。
流子はすかさずネット際に駆け寄り、バウンドしたドロップショットをギリギリで拾い上げる。返って来たボールを、つららはまた冷気を纏ったラケットで打ち返す。
その瞬間、今までと同じく氷が砕け散ると同時に物凄いスピードボールが、流子の脇を抜いて行った。
この現象に、夏海は口を開けて呆然とした。
「同じモーションなのに、全然違う打球になった」
「……」
流子はボールを拾うとつららを見て、小さく溜息を吐いた。
「流石。同じモーションでスノードロップとアイシクルショットを打ち分けるスタイルは変わらないのね」
「アンタの様子見も全然変わってないじゃない」
「0-30」
流子のサーブからラリーが始まる。今度は、長いラリーが始まった。
相変わらずつららのショットは同じモーションからドロップショットとスピードボールが打ち分けられ、夏海達からは区別がつかなかったが、流子はまるでどちらが飛んでくるのか分かっているかのように動き対処している。
「部長、もうあのショットに対応できるようになったの……?」
「まあつらら先輩のショットは流子が一番見慣れてるだろうし……そうなるとデータテニスの本領発揮かしらね」
「データテニス?」
聞きなれない単語にルナが問いかける。
「相手の癖、動き、過去の試合結果……あらゆる要素から試合の展開を予測して対応し、追い詰めていく優れた身体能力や必殺技のない流子が、勝つために研究し続けたプレイスタイル」
(クロスで抜ける……)
流子の左に打って読みを抜けようとしたが、流子はそれを読んでいたのか素早く打ち返してポイントを決める。
その後は互いに1ポイントずつ取り合い、30-40になる。
「……フゥっ!」
サーブを打ち返し、長いラリーが始まった。
最初は戸惑いが強かった流子も、打ち合っているうちに本気で勝ちを狙っている様子だった。
ルナは長いラリーを見ながら呟いた。
「つらら先輩、やっぱり練習続けてただけあって強いね」
「え、つらら先輩ってもうテニスやってないんじゃ」
春香の問いに、ルナは首を横に振って否定した。
「昨日打ち合って分かった。ブランクがある人の動きじゃない。ずっと練習を続けてた人の動きだよ」
「じゃあつらら先輩、やっぱり……」
ラリーが続いていた最中、隙を見てつららが決め球を打った。
しかし、それを予測していた流子は素早く反対側に移動してボールを追いかける。
(あの位置からの打球なら追いつける。そこからストレートに返せば……)
流子のラケットがボールに触れる……しかし、ギリギリフレームに掠っただけで、ボールはそのまま流子側のコートに決まる。
流子は呆然としてボールを目で追いかける。
「……私が思ってたより、強くなってたんだ」
「アンタが変わってないだけでしょ、あの日からずっと」
つららは自分のラケットをカバーに仕舞うと、コートの外に出ようとする。出入り口で立ち止まり、暫く動かずにいたが、やがて舌打ちをして乱暴に入口を開けて出て行ってしまった。
つららに背を向けたまま俯いている流子を、夏海が背中を強く叩いて訴える。
「何やってんの、追いかけなさいよ」
「いや、私……」
「いいから!」
夏海に背を押され、ルナと春香も「さっさと行け」と目で訴える。
流子は最初は重い足取りだったが、徐々に足早になってつららを追いかけた。
人のいなくなった教室で、つららは窓際に佇んでいた。
流子はつららの後ろ姿を暫く眺めていた。何を話すべきか、言葉が喉元まで来ては引っ込んでしまう。
幼い頃に見慣れていた後ろ姿は、見違える程変わってしまっていた。短かった髪も、腰に届くほど伸びていたし、どちらかと言うと外で走り回るような子だったのに、今は部屋の中で本を読む落ち着いた美人になっている。
そうして変わっていくつららを、流子は少し離れた所で見ているだけだった。変わったね、なんて一言も言えないくらい、流子はつららに対して言葉を投げかけられなくなっていた。
「つらら……私、その……」
ごめんなさいとか一緒にテニスがしたいだとか、そんな月並みの台詞を言うだけでいいのに、どうしてかそんな事すら言い出せない。どうしても、その手前で止まってしまう。
そんな煮え切らない様子の流子に、つららは絞り出すような声で糾弾する。
「どうして……」
「つらら、私、その」
「なんで帰って来てって言ってくれないのよ! それだけでいいのに! 私は、アンタに、そばにいて欲しいって、言って貰いたいだけなのに!!」
つららは、流子の襟を掴んで胸元に顔をうずめる。
流子はそれをたた黙って受け止めて、口を開いた。
「私は……私だって、そうしたかったよ。でも、私じゃつららの隣にいられなかったんだよ。それを自覚するのが嫌で……色々理由つけて、逃げて、でも、ホントに離れたら、ホントに離れ離れになるかもしんなくて……だから、何も言えなかった」
「馬鹿じゃん……」
「でも今なら言えるよ、つらら……もうコンビは組めないけど……おんなじチームにいたい。そこで、同じ夢を見よう」
「何よ、その夢って」
「全国制覇」
余りにも高望みが過ぎるその言葉を、つららは黙って受け入れた。
そして、小さな声で流子に尋ねる。
「いつまで、そうしてんのよ」
「……ごめん」
そうして流子はつららの手を掴んで……自分の体から引き剥がした。
「は?」
「ん? 顔見て話せって意味じゃなかったの?」
つららは信じられないようなものを見る目で流子を睨みつけ、そして勢いよく頬をひっぱたいた。
「いいわよ、やってやるわよ。言っておくけど、ちゃんと全国行かないと許さないんだからね!?」
顔を真っ赤にして捨て台詞を履いて立ち去るつららを、流子は涙目で見送った。
頬がヒリヒリして痛みが引かない。思わず溢れる涙を、流子は拭き続けた。
流子が自分の間違いに気がついたのは、事の顛末を夏海に話し、「……えっ、あんたなんでそこで抱きしめ返さないの?」と突っ込まれた後だった。




