第二話 「初めての~」(一歳)
心の手紙。
拝啓。
前世の家族へ。いかがお過ごしでしょうか。母さんはご壮健ですか。僕がいなくても、上手くやっていけているでしょうか。こちらはまあまあです。不自由な身体になんとか慣れ始め、新しい人生にも段々と落ち着きを取り戻してきたところです。いえ、一歳児が前世の家族を思慕するというのもおかしな話ですが。
生まれ変わって一年目。
結果から言って、転生による新たな人生は俺にとってかなり幸福なものであった。
まだどんな場所のどんな家に生まれたか定かではないが、部屋の内装や住人の格好などを観察するに結構裕福な家庭なのだと推測できる。少なくとも今のところ、衣食住に困ったことはない。
しかし、それらメリットと今の自分の境遇をいざ天秤にかけるならば、やはり生活しにくいことこの上なく、あまり充実したものであるとは言えないのは確かだ。
何よりこの一歳児の身体では、やれる事も限られてくる。そして最近知ったのだが、この家の人たちは俺に対してかなり過保護だということであった。
特にこの二人に関してはさらに……。
「シャシティル。さあこっちに来るんだ。父様が遊んであげよう」
「シャスティ。良い子ね、ママが抱っこしてあげるわ。こっちにいらっしゃい」
まだ脚力が発達しておらず、仕方なくうつ伏せの状態でいる俺。そしてその目の前には、こちらに両手を広げる男女が二人。
銀髪蒼眼の綺麗な女性と、金髪金眼の強面の男性だ。二人とも、俺がこの世界で目覚めた時に最初に目にした人間である。
言語がよくわからないので断言はできないのだが、俺に接する時の態度やいつも一緒にいる時間を考えると、恐らくこの二人が、俺の“新しい両親”なのであろう……。
男性の方は三十代の前半くらいだろうか。如何せん髭面で詳細な年齢を把握できないのだが、俺の予想が当たっていれば子を持つ父親としてはまだ若い方だろう。
そして女性の方はもっと若い。年を誤魔化しているとかそういう問題以前に、外見からして女性特有の幼さが残っている。若く見積もっても十九歳、下手したら前世の俺と同い年かもしれない。ともあれ、俺が今まで見てきた女性の中でも指折りの美人だ。
…話を戻そう。
つまり、そうだ。この夫婦が俺の両親で、俺は今、彼らのうちどちらかの元に辿り着かなければならないという究極の選択を迫られているわけだ。
言葉が通じずとも、この状況を見れば一目瞭然だろう。一体いつから親の意地の張り合いになったというのか。最初は単に子を可愛がるつもりで接してきただけだったはずに違いない。それが今では……俺がどちら側に向かうのか、父母の懐き度を競って確かめようとしている。なんというか、俺は親バカの修羅場を目の当たりにしているんだな。
「シャスティル。おーいシャスティ。私がタカいタカいしてあげよう。お前好きだろう? さあ、こっちへおいで」
「シャスティ。母様といっしょにご本よむって、お昼に約束したのよね。いっぱい読んであげるから、母様とお庭に行きましょうねー」
「何だと。約束ってなんのことだ? 私は知らないぞ?」
突然表情を険しくさせた父が、母の方を振り返って何やら非難めいた口調で問う。ちなみに会話の中に頻繁に出てくる“シャスティル”という言葉、多分俺の新しい名前だ。毎日何十回も聞いてきたので、今なら完璧に発音できる自信がある。
「あなたが政務中に、シャスティとした約束のことですわ。父様はお仕事で忙しいから母様と遊ぼうって。それなのにあなたが予定よりも早く帰ってこられるんですもの」
「む、娘の顔を思い出したら、無性に会いたくなったのだ。もうすぐ立てるようになるかもしれないという時に、おちおち雑務などに徹してなどいられるか」
「まあ! なんて体たらくな領主様なのかしら。ねえシャスティ。あなたは父様みたいな不真面目な人に育っては駄目よ?」
何か俺に語りかけているようだが、言葉がわからんので返答のしようがない。ていうか、こんな険悪な状態で選びたくねぇなぁ……。もはや恒例行事となりつつあるこの父母選び。どちらに転んでも、俺にとってはただ心苦しいだけという。何故なら選ばれなかった方は物凄く落ち込むからだ。
この前は父の懐に辿り着いたっけ? その時は母が一時間くらい号泣していたように思う。選ばれなかったことがそんなに悔しかったのか悲しかったのか……恐らくその両方だろうけど、悲しむ親の顔を拝まなければならない俺の心中も察してほしい。
こういう時いつも決まって後悔するのは、何故俺は前世の記憶を全て引き継いでしまったのかということだ。一歳児らしい子供の純粋な感情だけで行動できれば、わざわざ変な気を遣わずに済むだろうに。
仕方ない。少し気が引けるが、今回はあえて中立でいこう。
一歳児のクセに余計な知恵を回す自分に罪悪感を感じながら、俺は匍匐前進の要領で這い這い歩きをこなし、口喧嘩する夫婦の間に入っていった。
「シャスティル?」
すると当然の如く両親がいぶかしんだ。
何をするのかと、疑問九割と期待一割未満の視線を浴びせられながら、俺はその場に尻を落ち着けて両親の顔を仰いで口を開く。
「とーしゃ。かーしゃ」
俺は「父様。母様」と発音したつもりだったが、きっと上手く言えてはいまい。言語の理解不足もそうだが、呂律も回っていないのだ。
けれど、一歳児の舌足らずな言葉など些細な問題だろう。それは確かな魔法の言葉となって、子持ち夫婦の親バカ精神に絶大な効果を与えたようである。
一瞬の沈黙ののち、俺はまず母親に抱きすくめられた。
「嗚呼、シャスティル! 聡明な子! 私たちの愛しい子! 聞きましたかあなた!? この子いま言葉を……!」
「あ、ああ! もちろん聞いたとも! 何を言ったのか分らないが、確かに喋っていた!」
く、苦しい…!
「朴念仁なバッシュ様! お偉方と念仏を唱えすぎて耳が悪くなったのではありませんか!? この子は今、『父様。母様』って言ったのですよ!」
は、母上。あなたのけしから――柔らかい胸に押し付けられて息が……。
「あ、ああ。そうなのか。それは嬉しい限りだ。それはそうと、そろそろ放してやらないとシャスティルが……」
「なんですか、その淡白な反応は! この子が喋ったのですよ! もっと喜んだらどうですか!」
「いや、私は嬉しいぞ。あるいは君より喜んでいるかもしれない。だが、な……我が子の呼吸が気になってそれどころではないのだ」
「え………ま、まあシャスティ! ごめんなさい、大丈夫!?」
ぜぇ……ぜぇ……し、死ぬかと思った……!
転生してそうそうあの世送りなんて洒落にならん。やはりこの方法は取るべきではなかったか。いや、まあ両親の機嫌が改善されたのは結果オーライだな。うん、そう納得しておこう。
◆ ◆ ◆
物理的に、赤ちゃんの立場になって一番辛かったのは何かと問われれば、俺は真っ先に“排泄と食事”だと答えるだろう。行動の自由に制限が付くというのは考えるまでもなく、想像以上に辛いものである。
俺の沽券にも関わるため多くは語らないが、排泄時のおしめの取替えとか、乳母と思われる女性(確定はできないが、母に次いで俺の世話をしてくれたから恐らく乳母だろう)からの定期的な授乳とか、母様と一緒に入浴エクセトラ…。
オホン! つまり、そういうことだ。
俺は今、生活する上で決して見過ごせない切羽詰っている事情がある。
生きる上で本能的欲求を満たす行為が如何に重要であれ、俺の意思とは別に身体をどうにかされるというのは精神的に堪えるものがあるのだ。
まあ身体が赤子だから仕方ないので屈辱とまではいかないが、底知れない恥辱に包まれたのは言うまでもない。生後六ヶ月辺りで乳歯が生えてきたと判明した時は、両親はもちろんのこと俺まで歓喜したほどである。何せようやく乳房からの養分摂取から離乳食に移れるのだから。
と、食事についてはようやく落ち着いたとはいえ、まだ排泄処理と入浴の件が残っている。
自力で歩けるようになれば、自分の足で厠に花を摘みに行けるようになれるだろう。だが毎日の入浴はどうする。あの過保護な両親のことだ、俺が一人で風呂に入れると伝えたところでそうそう納得はしてくれまい。もしかすると、物心ついても一緒に風呂に入ってる可能性だってある。
い、いや。あまり深く考えないでおこう。俺はまだ一歳なんだぞ? 今からそんなに思いつめていたら、十歳になる頃に顔が気苦労で歪んでいるかもしれないじゃないか。
けど、早く歩けるようになるのに越したことはないよな……。
「よーぃ。あうくろー(よーし。歩くぞー)」
「頑張ってシャスティ。母様も応援しているわ」
ということで俺は今、歩く練習をしている。
俺の第二の母親……もとい母様が、俺から少し離れたところで両手を広げた。
ここまでおいでという意味なのだろう。俺はベッドの支柱を杖代わりに、ゆっくり膝を伸ばして立ち上がる。
母様までの距離は目安でおよそ二メートル。かつての俺なら大股二歩で余裕に到達できる距離だが、さて…。
意を決して、最初の一歩を踏み出す。
足を僅かに持ち上げると、必然的に片方の足に負荷がかかる。この軸が崩れれば支えがない限り転倒を免れないわけで、俺としてはもっとも重要な局面と言えた。
上げた足を前に出し、床に下ろす。これが最初の一歩。手はまだ支柱についたまま……ここからが本番だ。
「…頑張って、シャスティ……!」
母様が俺の名前を呼ぶ。もしかして応援してくれているのか。だったら、俺もそれに報いなければな。
覚悟を決めて、俺は支柱から手を離した。不安定なバランス感覚に若干焦りながらも、両手で傾きを調整しながら、次の一歩を踏み出す。そのクセを忘れないうちに、もう一歩。そしてまた一歩。
初めてコマなし自転車に乗るのと訳が違う。肉体的な欠点を補いつつ、自分なりに工夫をして歩みを進めてみる。
両足でバランスを整えるより先に足を動かせ。そうすれば、自然と体勢は保たれる。
――そして。
「っ…シャスティ!」
一メートルを少し越えた辺りで、俺の身体は均衡を崩した。
両手でバランスを取ることばかりに気を取られて、足元の注意を疎かにしてしまったのだ。結果的に絨毯の端に足の指を引っ掛けてしまい、それが仇となって前のめりに倒れてしまう。
幸い顔面が床に直撃する前に母様が抱き止めてくれたから痛い思いをせずに済んだものの、想定外の失態をしてしまったことに俺は苦笑を禁じえない。
「ふふ…まあこの子ったら何が可笑しいのかしら。母様が受け止めていなかったら、今頃シャスティはおでこをゴチンしていたかもしれないのですよ?」
何故か母様まで楽しそうな笑みを浮かべていた。まさか、俺が面白がって笑ってるとでも思っているのだろうか。いいえ、違うのですよ母上。これは単なる自嘲であって、決してコケることに楽しみを覚えているわけではありませぬ…。
――なんて。呂律の回っていない日本語で話しても、きっと理解してくれはしないだろうな。
歩けるようになるのも重要だが、ここの人たちの言語を理解するのも必要不可欠だな。
うむ…しかし、ずっと疑問に思っていたんだが、俺は一体何処の国に生まれたのだろう。建物の特徴や人の容姿を観察するに、ヨーロッパ州内の国のいずれかだと思うんだが、地理とかそんなに詳しくないし、ゴシックやロロコなんて言われも全然ぱっとしないしなぁ……。
ま、死んで転生なんて誰も予想できるものじゃないし、今更後悔しても遅いよな。
暖かい日差し降り注ぐ、静かな午後の一時。
母親の胸に抱かれて思考に耽る俺は、この時まだ気付いていなかった。
すでに自分は、地球上に存在する人間ではないこと。そして―――
俺が女になってしまっていたということに……。




