第99話 神秘に触れた、よ
ユアの研究室の扉の前。夜光灯が照らす無機質な廊下で、ファイとニナは命の営みについて話し合う。
「ファイさんに、“交わり”についてお教えしようと思います!」
そう言ったニナの顔には、ファイへの信頼が見て取れる。どうやら今のファイであれば、軽率な行動はしないだろうとニナは判断したようだ。
「……いい、の?」
「はい! この先、再びウルンにお使いに行ってもらうこともあるはずですわ。その際、ファイさん自身が身を守るための知識ともなりますので」
自分が何をされようとしているのか。それすらも分からないままでは、ファイの意思に関わらず“交わり”が発生してしまうこともあるのだとニナは言う。
「正直、前のお使いの時は気が気ではありませんでしたわ……。何せファイさんは世界一、可愛らしいのです! ウルンの方々が放っておくはずありませんもの!」
「……うん? ニナ、なんの話?」
「ファイさんが可愛いという話、ですわっ!」
いつからそんな話になったのか。ファイとしては疑問も疑問だが、ニナが楽しそうなので流すことにする。そんなことよりも、“交わり”についての話だ。そうファイが会話の軌道修正を図ろうとしたところ、すぐそばにあったユアの研究室の扉が音を立てて開いた。
そのまま少し待っていると、桃色の髪と瞳をそれぞれ半分ずつ覗かせながら、ユアが顔をのぞかせた。
「あ、あの……、これ……っ!」
彼女が小さな手を懸命に伸ばしてファイ達に差し出してきたのは、ユアが普通に話すために欠かせない存在――通話用の青いピュレだ。
ニナよりもユアに近い位置に居たファイが代表してピュレを受け取るや否や、扉を閉めて室内へと姿を消したユア。それから数秒もかからず、ピュレからユアの声がする。
『ファイちゃん様。つぎ伺いも無しにユアの部屋に入ってきたら、この前みたいに魔獣たちでお出迎えしますからね』
どうやら毎回ずけずけと部屋に上がり込んで来るファイにご立腹のようだ。ただし、通話越しかつ迂遠な言い回しがファイに通用するはずもない。
「分かった。じゃあ戦う準備して来る、ね?」
『なんでそうなるんですかっ!? 入る前に扉を叩けと、そう言ってるだけです!』
「……? じゃあ――」
ファイは早速、目の前にある研究室の扉を3回叩く。そして、開いた。
「ユア?」
「きゃぃんっ!?」
侍女服に着替えたらしいユアが、尻尾をピンと立てながら跳び上がる。そして周囲を素早く見回して寝台に飛び込んだかと思うと、頭から毛布をかぶった。
『だ、だから、どうしていきなり入ってくるんですか!?』
「えっと……? 扉、叩いた、よ?」
『返事は!? ユアの返事はどうしたんですか!? 頭もザコザコなんですかっ!?』
毛布とピュレ。2つからそれぞれ、ユアの抗議の声が聞こえてくる。
言われてみれば、ニナが最初にそんなことを言ってくれていたようなことを思い出すファイ。だが、直後に発生したユアの発情期のアレコレで、すっかりサッパリ忘れてしまっていた。
「ごめんなさい……」
『ダメです、許しません。二度も可愛い可愛いユアを怖がらせんたんです。許すにはファイちゃん様の身体を切り開いて、その大きな魔素供給器官を魔獣のエサに――』
「ユアさん」
ファイに対してやや突き放したような言動を続けるユアに呼びかけたのは、ニナだ。瞬間、ユアが布団の中で身体を跳ねさせたのがファイにも分かった。
「冗談でも。ファイさんにそんなことを言わないでくださいませ。彼女の場合、真に受けかねないので」
いつになく真面目な口調で言うニナ。それもそのはずで、ファイは前回。ユアとのやり取りを経て、本気で自身の魔素供給器官を差し出そうとしていた。ファイが事前にニナに伺いを立てたおかげで事なきを得たが、1歩間違えれば大事になっていた可能性もある。
ニナはそのこと忘れていないようだった。
『ですがニナ様。これも魔獣のため、ピュレの開発のためになるかも――』
「こればかりは譲れませんわ。……よろしいですわね?」
優しい口調ながらも有無を言わせない物言い。それはニナがエナリアの主人として振る舞っている時の口調だ。それでも研究のためならユアは食い下がる、とファイは思っていたのだが、
『あぅ……。は、はい』
意外なことに、ユアはすんなりと折れた。
(あれ?)
これまでのやり取り。そしてこのエナリアにおける魔獣の重要性から、てっきりニナとユアの立場は対等に近いものだと思っていたファイ。だが、今のやり取りを見るにどうも違うらしい。
(……。そっか。ニナがユアに好きにさせてあげてるだけなんだ)
確かにユアは、エナリアに欠かせない存在だ。彼女が研究を続けているからこそ、ニナのエナリアは主に資金面で困ることが無い。だからこそユアはニナに多少は強気に出ることができる。
しかし、結局はニナもユアもガルン人だ。もはや本能に近い領域で、強者に従うように刷り込まれている。そのため、ニナがその気になればユア本人の意思に関わらず、無理やり研究をさせることだってできるのだ。
つまりユアは、ニナの厚意に甘えているに過ぎない立場にあるらしかった。
『えとえと……。それで、ニナ様たちはどうしてここに?』
ほんの少しだけ語気から棘を納め、ここに来た理由を聞いてくるユア。
『い、言っておきますが、この前の今でピュレの開発は進んでないですよ? ユアが可愛くて天才であることには変わりませんが、できることとできないことはあるので』
分を弁えているのかいないのか分からない態度で話すユアだが、ニナに気にした様子はない。
「もちろん存じ上げております。なのでその研究のお手伝いをと思いまして。……ファイさん! ユアさんにあなたの頑張りの成果を見せてあげてくださいませっ」
「分かった」
ファイはニナから手渡された袋から、ウルンで買ってきた果物を取り出して見せる。時を同じくして、三角形の大きな耳をピンと立てたユアがひょっこりと布団から顔だけを覗かせた。
そうしてユアが桃色の瞳で見つめる先で、ファイは計6種類のウルンの果物を並べて見せる。
「くんくん……。ゆ、ユアの嗅いだことのない匂い……?」
しきりに耳と鼻を動かして“興味津々”を示すユア。研究者としての気質だろうか。見たことのない食べ物、ひいては研究材料に、分かりやすく食いつく。
「これで最後」
ファイが持ってきた果物を机の上に並べ終えたとき、ドヤ顔を見せたのはニナだった。
「ふふんっ! 見てくださいませ、ユアさん! “わたくしの”ファイさんがわざわざ買って来てくださった、ウルンの果物ですわっ!」
「な、なんでニナお姉さんが得意げなんですか。……って、ウルンの果物!?」
「わっ」
言うが早いか、布団を投げ捨てて机の前までやってきたユア。すぐそばにファイが入ることにも構わず、1つ1つを手に取って桃色の瞳を輝かせる。
「わぁっ! わぁ~! これがウルンの果物、なんですね! ザコのお姉さん! ユア、お姉さんを褒めてあげます! すごいです! これで新しい魔獣を作れるかもしれません……!」
ユアの侍女服は尻尾が出るように作りが工夫されている。おかげで、千切れそうなほどに激しく左右に振られる黒毛の尻尾がよく見えた。
「褒めてくれてありがとう、ユア。あと私はザコじゃない」
そんなファイのお礼と訂正の言葉も、どうやらユアには届いていないらしい。
「あ~、どうしましょう、どうしましょう! これはあの子に、これとこれは、あの子たちに……。ですがとりあえず、それぞれ1つずつ魔獣たちに食べさせてみて様子を見ないと。でもでも、数に限りが……」
ぶつぶつと何かを言いながら、思考の海を泳ぎ始めるユア。だが少しすると口数が減り始め、虚空を見つめる桃色の瞳からは光が失われていく。やがて完全に言葉は失われ、開けられたままになった口からはよだれがこぼれ始めた。
「ニナ。ユアは、大丈夫……?」
どう見ても意識が無いように見えるユアに、思わず眉尻を下げるファイ。
「はい。きっと集中しているだけで、大丈夫だと思いますわ。一応、ご自身の足で立っていらっしゃいますし」
「そう? けど……」
ファイがユアの目の前で手を振っても、ふわふわのほっぺをつまんでみても、ユアから反応が返って来ることは無い。それならと、前から気になっていたユアの耳や尻尾をモフモフしてみるが、やはり反応が返ってくることは無かった。
「(もふもふ、モフモフ……)」
ミーシャと違って毛が長いために一層の“モフり甲斐”があるユアの耳と尻尾。ミーシャがサラサラだとするなら、ユアはフワフワだ。
「う~む……。これはしばらくかかりそうですわね」
自身もさりげなくユアの毛並みを堪能するニナが、なかなか現実に帰ってこないユアに思案顔だ。
「届けるものは届けた。帰る?」
「いえ、ユアさんは生物の専門家でもありますわ。先ほどの“交わり”についても、このエナリアで1、2を争う知識量を持っていらっしゃいます」
ユアから話を聞くのが最も手っ取り早く、かつ、正しい情報を得られる。ニナはそう考えているようだ。
結局ユアの意識が戻ってくるまでの30分ほど。ファイ達は手近な果物を切り分けて食べさせ合いながら、待つことになる。
そこからさらに1時間をかけて、今度こそ、ファイは生命の神秘についての概要を教えてもらうのだった。
なお、ユアがなぜお手洗いの中で焦っていたのか。なぜ下着を、それも実は妹の下着を持っていたのか。匂いの正体。ムラムラした時の対処法。その全ての答えは1つなのだとニナは教えてくれたのだが、
「こればかりは、ファイさんにはまだ早いですわ」
そうお茶を濁されてしまうのだった。
「(むぅ……)」
「まぁまぁ、そうむくれないで下さいませ、ファイさん。それでは次の場所へ向かいましょう!」




