第86話 冗談は、よくない
お金の授業を終えて、リーゼとルゥと共に執務室に引き返したファイ。貰った大切なお給料をニナに返すことで、ファイにとって最も有意義な使い道――主人に好きに使ってもらうこと――をしようとした矢先。
「ファイさん。ウルンの……確かフィリスと言いましたでしょうか? あの港町に行って、お買い物をしてきてくださいませ」
なぜか眉を逆立たせてお怒り気味のニナによって、そんな命令が下された。
「ウルンで、お買い物? それがお仕事?」
「お仕事……。もう、それでよろしいですわ。とりあえず、返していただいたこのお金をすべて使って、ファイさんのお好きな物を買ってきてくださいませ」
ぶっきらぼうに言って机の上にファイの給料が入った封筒を置くと、自身は机に積まれた書類に目を通し始める。
ファイとしては、色々と混乱せざるを得ない。まず、なぜニナが怒っているのかが分からない。ニナは確かに、お金が無いと言っていたはずだ。だからファイはお給料を返して、少しでもエナリアの運営に役立ててもらおうとした。そこにニナが不機嫌になる理由は無いはずなのだ。
また、仕事内容そのものにも疑問がある。
お金を使って買い物をする。それ自体は問題ない。しかし、そこにオマケとしてついていた文言――
『ファイさんのお好きな物を』
――が、ファイをより一層困惑させる。
ファイの気質を知るニナは基本的に、自由意思を求めてくることは無い。なるべくファイに寄り添った文言で、指示や命令をくれる。奇しくもファイ自身の密かな願望とニナからの指示が一致することも多いが、とにかく。
ニナがファイに決定をゆだねることは非常にまれだ。それこそ、黒狼に戻ったファイに、エナリアに戻りたいか否かを聞いて来たあの時くらいではなかろうか。
だと言うのに、今回に限って“好きに”などと、ファイの困ることを言う。
「に、ニナ。私に“好き”は無い。だからこのお金の使い道が無い。せめて何を買ってくるかを言って欲しい」
困惑のあまり無意識に声を震わせるファイを、資料の向こうから一瞥したニナ。
「…………。では、ファイさんの身体に合う衣服を上下3着ずつ、買ってきてください」
しばしの沈黙があったものの、答えてくれたニナにホッと胸をなでおろすファイ。そんな彼女に対して、ニナは「それと」と仕事を追加する。
「それと、前々からユアさんにウルンの食べ物を買ってきてほしいと要望がありました。なので果物もいくつかよろしくお願いいたしますわ。魔獣さん達にあげるそうなので」
話は終わりだと言うように、ファイから視線を切るニナ。いつも見せてくれる朗らかな雰囲気とは一転。戦っていた時ですら見せなかった剣呑なニナの雰囲気に、もう、ファイは口をつぐむことしかできない。
本当は、どんな服を買ってきてほしいのか。色は、大きさは、装飾は。そんなところを聞きたかった。食べ物だってそうだ。どの果物を、どれくらい買えば良いのか。もっとはっきりと決めて欲しい。ただ、ムスッと頬を膨らませるニナに聞けるような雰囲気ではない。
それならば、と、入り口あたりで控えていたリーゼとルゥを振り返るファイ。恐らく彼女たちはこうなることを予想していたはずなのだ。であれば、ファイがどの服を買って、どれくらい果物を買えば良いのかというのも見当がついているはず。
そんな期待と助けを求めて角族の侍女2人を見てみれば、
「お気をつけて行ってらっしゃいませ、ファイ様」
「が、頑張れ~、ファイちゃん~……」
リーゼは深々と頭を下げて。ルゥは両手でこぶしを握って、いとも簡単に梯子を外してきた。
薄情な2人に、ファイが絶望する、直前で。
「――ですがその前に。お嬢様」
お辞儀の姿勢から直立へと姿勢を戻したリーゼが、むくれているニナへと声をかけた。
「……どうかいたしましたか、リーゼさん?」
「はい。先日、お嬢様とファイ様はそのフィリスという町で多少の騒動を起こしたと聞いております」
リーゼの言う騒動は、およそ4週間前のこと。魔法を使ったように見せるために、ニナが地面を陥没させたあの事件のことだ。のちの報告では、ウルン人たちが魔法によって穴を埋め、今は広場になっていることまでは分かっていた。
「そう、ですわね。それがどうかいたしましたか?」
資料を置いて傾聴の姿勢を見せるニナに、リーゼは顔を伏せたまま進言を続ける。
「まだ騒動から時間は立っておりません。そんな中、もしファイ様が“このまま”町を歩き回れば、間違いなく衆目を浴びることになるでしょう」
リーゼが何を言わんとしているのか。ニナはどうやらきちんと汲み取ったらしい。
「なるほど。リーゼさんのおっしゃる通りですわね……。ですが、髪色はともかく、変装するための服がありませんわ。むしろその着替えを買って来てもらうためのお使いなのですが……」
ニナが変装という聞き覚えのある単語を言ってくれたおかげで、ファイはようやく2人が何の会話をしていたのかを理解する。また、多少なりとも今回の買い物の意図がファイの着替えを用意するためのものらしいということも分かった。
現状、ファイの服は侍女服が3着と、寝間着一式が1つ。袖の短い黒の上衣と、伸縮性のある膝上丈の白の下衣が1つあるだけだ。どれもルゥが用意したもので、侍女服以外は“間に合わせ”なのだという。
新しい服は無いのか。自然とファイ達の視線はルゥに向くのだが、彼女は艶やかな黒髪を揺らして大きく首を横に振った。
「ごめんね。まさかこんなに早く“外”に行くとは思わなかったから、外出着は作ってない。生地もないし、今から新しいのって言われると……あっ」
そこでふと思い立ったように、ルゥがファイの方を見る。そのままツツツとファイに歩み寄ってきたかと思うと、「えいっ」と背中合わせになってみせた。そうして身長があまり変わらない――ファイの方が数セルチ高い――ことを確認すると、
「――わたしのお古で良いんじゃね?」
そんな結論にたどり着いたらしい。
「おふる? お古は、なに?」
「わたしが着てる・着てた服ってこと! ちょっと待ってて~、ファイちゃんに似合いそうな服、すぐに取ってくるっ!」
言うや否や、慌しく執務室を出て行ってしまう。他方、今度はリーゼがファイの側にやってきた。
「ルゥ様が戻られるまでの間に、髪色を変えてしまいましょう。洗面所へ向かいましょうか」
言いながらそっとファイの脇に手を回し、やんわりと執務室からの退出を促してくる。きっとこのまま出立の流れになるだろうことは、ファイでも容易に想像できた。
結局、ニナがなぜ怒っているのかは分からないまま、この場を後にすることになってしまった。主人のことを理解できない自分の不甲斐なさに思わずうつむき、微かに眉根を寄せる。
(ニナ。ごめん――)
「ファイさん」
ニナに名前を呼ばれ、弾かれたように顔をあげるファイ。同時にニナの方を振り返ると、資料で顔のほとんどを隠すニナの茶色くて丸い瞳と目が合う。が、すぐに手に持った紙で顔を隠されてしまった。
ただ、ほんの一瞬とはいえ、ニナときちんと目が合った。それだけでファイの心が温かくなるのだから不思議だ。
「ニナ?」
そうニナに声をかけるファイはもう、普段通りだ。臆することなく、どうかしたのかと問い返すことができる。そんなファイの呼びかけに、再び資料からおでこと目だけを覗かせたニナ。
「お、お気をつけて行ってきてくださいませ……。その……。お帰りをお待ちしておりますので……」
上目遣いにそう言うと、またしても資料の陰に隠れてしまう。
ニナの怒りの理由も、なぜ顔を隠すのかも、ファイには分からない。それでも、ニナが帰りを待っている。そう思うだけでもう、ファイは無敵になった気分だ。
「――分かった。行ってくる、ね?」
その別れの挨拶に、ニナが資料の向こうにある形の良いおでこで頷いたことを確認して、ファイは執務室を後にする。
洗面所へと向かうその足取りは、羽のように軽い。
「ファイ様。嬉しそうですね?」
ファイの背後を歩くリーゼにそう言われて、ファイは自分が浮かれていたことに気付く。
「冗談は良くない、リーゼ。私は普通。嬉しい、は、無い」
「……そうでしたね」
危うく道具としての振る舞いを忘れてしまうところだったと、どうにか平常心に戻ろうとするファイ。その一環として、リーゼに聞いてみることにする。話すことで、ひとまず“嬉しさ”を忘れようとしたのだった。
「リーゼ。なんでニナは怒ってた?」
ニナ曰くもう1人の母親だという彼女であれば、ニナの怒りの理由を知っているかもしれない。そう思ってのファイの問いかけに、リーゼは微かに微笑んで見せる。
「そうですね。相手に想いが通じない。そのもどかしさに、戸惑ってしまったのかもしれません」
「困った……? つまりニナは、怒ってない?」
「はい。少なくともあの場面。ファイ様に非はありません。ですので、どうか。失礼な態度を取ってしまったお嬢様を許して差し上げてください」
わざわざ立ち止まり、深々と頭を下げるリーゼ。ただし、ファイの答えは決まっている。
「リーゼ。さっきも言った、よ? 私に心は無い。だから“怒る”も“許す”も、ない」
わずかばかりのドヤ顔で言うファイに、パチパチと淡い青色の瞳を瞬かせたリーゼ。しかしすぐに目を細めると、
「ふふ、そうでしたね」
そう言って微笑んで見せる。
ファイと同じくらい、普段は表情を変えないリーゼ。珍しい彼女の微笑みに金色の瞳をきらりと輝かせたファイだったが、直後。
「それにしても、お嬢様があそこまで感情を露わにするなんて……。うふふっ! 珍しいこともあるものです」
リーゼが見せた優しくも上品な笑顔は、同性のファイをして惚れ惚れするほどの魅力を持っていたのだった。
※いつもリアクションをしていただいて、ありがとうございます。どのお話が”良い感じ”なのか。その指標として、今後も役立てて参ります。




