第56話 早く会いたい、な……
※文字数が約4500字と少し多めになっています。予めご了承ください。なお、読了目安は9~11分です。
無知であるにもかかわらずファイが圧倒的な力を暴走させなかったのは、彼女に“欲”というものが無かったからに他ならない。手のひらに収まる小さな幸せだけを大切に握りしめ、それ以外を欲することが無かった。
さらに言えば、ファイに道具としての矜持があったことも大きいだろう。たとえ小さな欲望があったとしても、幼い頃から培ってきた“道具として何も望まない姿勢”によって封じてきた。言い換えればそれは“理性”と呼ばれるものであり、その理性のタガを外すほど強烈な欲望をファイが持ったことは無い。
だからこそ彼女は、自身の中に眠る白髪としての力を“自分のために”振るうことは無かった。
しかし、いま。日付にして黒青のナルン、赤の3のフォルン(11月3日)。崩れ去った黒狼の拠点の中心に立つファイは生まれて初めて、自分のために力を使った。それは、理性を超える欲望がファイの中に生まれたからにほかならない。
たった1つ。ファイが使った〈ヴァン・エステマ〉と呼ばれる強力な爆発魔法だけで吹き飛んだ黒狼の拠点。
「組長。気持ちいいおくすり、どこ?」
爆発でボロボロになった服。粉塵で髪や顔を汚すファイはそれに構わず、自身の前で膝をつく黒狼の組長・エグバに尋ねる。
弱体化していた期間に薬物を大量に投与されたファイの身体は、薬物を害ある物として認識しなくなっていた。その結果、確かにファイの身体は少しの期間、薬物中毒状態にあった。頭痛・吐き気・倦怠感などなど。ありとあらゆる不調が、ファイを襲った。
しかし、しばらくすると身体が慣れたのか、抗体ができたのか。ファイの身体はほとんど薬物の影響を受けなくなってしまった。今や薬物を使われても1分程度で解毒・中和してしまうような状態だった。
ただし、薬物依存の状態は今もなお続いている。
薬物を投与される前から続いていた、忘れられない、忘れてはならない誰かの声。それは日ごとに強い幻聴や幻覚となって、ファイをむしばんでいる。
『ファイさん!』
そう言って笑いかけてくる可愛らしい少女が、いつも隣に居る。
『ファイちゃん』
そう言って道具であるはずのファイを心配してくれる魔物の少女が、まぶたの裏に居る。
『ファイ』
不機嫌そうにそう言って、そのくせすり寄って来る金色と黒毛の猫の感触が、手のひらに残っている。
それを自覚するたびにファイの胸は苦しくなる。その苦しみを忘れさせてくれるのが、黒狼の人々がくれる謎の透明な薬だ。確かに、ファイの身体は薬を1分足らずで無毒化してしまう。ただ、1分だけだったとしても、ファイは満たされた気持ちになれるのだ。
(私は、幸せにならないといけない。満たされないは、許されない)
なぜ、そう考えてしまうのか。「幸せになれ」というその命令が、現在の主人からのものではないことにも気づかないまま、ファイは薬を求め続けた。
しかし、今日。「在庫が無い」との理由で薬が半日近く切れたことによって、ついにファイの理性は限界を迎えた。
(このままだと、ニナ達のことを思い出しちゃう……)
などと心の中で考えてしまっているように、ファイの中ではもうニナ達の名前も容姿もハッキリとしてしまっている。さらには、麻薬などよりもよっぽど依存性が高い、人の“優しさ”や“温もり”も思い出してしまっていた。
(これじゃあ戻ってきた意味が、ない……)
ファイは、黒狼に戻れば以前のように幸せになれると思っていた。しかし、日付のナルンが1周しても、幸せにはなれない。むしろ寂しさと切なさは募るばかりで、どんどんと不幸になっていく。扱われ方も態度も何もかも、変わらないのに。黒狼はきちんとファイを、物のように扱ってくれるのに、だ。
それならば「待っていて」と言ったその言葉通り、エナリアに戻ろうかとも考えた。しかしファイは気づいてしまう。
(私、勝手にエナリアを出てきちゃった。つまり、仕事放棄。……もしかしてニナ達、私に怒ってる?)
心のない道具などと言いながら独断専行をし、6週間も仕事を放棄している。“幸せになれ”というニナの指示を守ろうとした結果だとはいえ、あまりにも自分勝手だった。
そんな自分にニナ達は、怒りを通り越して呆れられているかもしれない。
『あ、ファイさん。勝手な行いをするあなたは、もう帰って来なくて結構ですわ』
もし戻ってニナにそんなことを言われようものなら、弱い自分の心は立ち直れないくらいにボロボロになる自信がファイにはある。現にこうして思い浮かべるだけで、ファイの気持ちは暗く沈んだ。
となると、ファイにはもう黒狼しかない。この場所で、どうにかこうにか“幸せ”になる必要がある。そのためには、刹那とは言えニナ達を忘れられるあの謎の薬が必要なのだ。
苦い顔をしてこちらを睨んで来るエグバには申し訳ないと思いながらも、ファイは薬の製法や素材を聞かなければならなかった。
「組長? おくすりの素材と作り方、教えて? 私が取って来るから」
再三にわたるファイの問いかけに黙秘を貫いていたエグバ。しかしふと、思い立ったかのように口を開いた。
「――“不死のエナリア”の第20層。そこに生えている白っぽい草を潰して絞った液体を、強火で乾燥させたものだ」
「……え」
薬を手にするためには“不死のエナリア”に行かなければならない。その事実に、ファイの喉が鳴る。ファイは“不死のエナリア”に行きたくないから、薬が欲しい。しかし、薬を製造するためには“不死のエナリア”に行かなければならないのだ。
そして、最深部である第20層は、ニナの管轄する領域。ほぼ間違いなく、ニナに会うことが予想された。
しかもファイは、第20層の表側に行ったことが無い。どのような層で、どのような光景が広がっているのか。すぐ裏側に居ながら、聞いたことも見たことも無かった。そのため、組長の言葉が出まかせであると見抜くことができない。
ただし、鵜吞みにするには不可解な点があることもファイは理解している。それは――。
「でも、どうやって組長は“不死のエナリア”の第20層に行ってる、の?」
黒狼は、ファイが守るべき存在。つまり、弱者だ。自分でも到底到達できそうにない第20層に行って植物を採集することなどできるはずもない。そんなファイの疑問を見透かしていたように、エグバはつらつらと言葉を連ねる。
「お前を迎えに行った時と同じだ。高い等級の探索者たちに依頼している」
「そう、なんだ……?」
エグバの言葉に応えるファイの言葉には、まだ疑問が残る。
20階層に到達できるほどの実力を持つ探索者が来ていれば、ニナ達のことだ。間違いなく緊急会議という名のお茶会案件だろう。
しかし、ファイがエナリアに居た期間でそのようなことは無かった。
(つまり、私が黒狼に居たここしばらく、もしくはずっと前にたくさん回収してた……?)
無知であることを知ってしまっているがゆえに、ファイは自分の知らない事情がたくさんあっても当然だと思ってしまう。そうして相手にとって都合が良いように考えてしまうファイに、エグバは原料となる草についてのさらなる情報を明かす。
「……だがな。そこを管理するニナとか言う人間族の魔物は、その草を大切にしているらしい。つまり草を大量に摘むためには、お前が言っていたニナって魔物を殺さないとなんだ。だから……」
そこで言葉を区切って、強面の顔をゆがませるエグバ。彼の顔に浮かんでいるものが“悪意”と呼ばれるものであることを、ファイは知らない。
「――ファイ。薬のためにも“不死のエナリア”に行って、ニナを殺して来い」
「――っ!?」
主人であるエグバからの命令に、ファイは今度こそ驚愕を顔に映す。
「ただし、死ぬことは許さない。可能な限り戦闘は避けて、標的のニナだけを殺せ」
無理。反射的に出かかった言葉を、どうにか飲み込んだファイ。これを断れば、ついに黒狼にも居場所がなくなるだろう。この世界で自分が生きていていい場所はどこにもなくなってしまう。
(けど、ニナを殺すなんてこと、できない……)
心理的な面もあるが1対1でやり合って勝てないことは、以前の決闘で分かり切っている。いや、殺すつもりで全ての魔法を使えば可能性も無いわけではないが、それはニナも同じだ。ファイが殺そうとしていることを察した時点で、手加減なしの“蹴り”を見舞ってくることだろう。そうなればファイの死は必至で――。
(そっか。それで、良いんだ)
それはファイにとって、天啓に近いひらめきだった。
この命令を断れば、ファイには居場所がなくなる。主人を失うことは、ファイにとって生きる意味を失うに等しい。つまりは、死だ。他方、エナリアに行ってニナに会っても、恐らく「ばいばい」を言われる。弱い自分は生きる希望を失い、こちらも死ぬのと同じ状態になるだろう。
(で、ニナ戦うことになっても、死ぬ)
いずれにしても、待っているのは絶望と死だ。
であれば、せめて最後にニナ達に会いたいとファイは思う。
どんどんと感情を獲得し、道具でなくなっていくのが怖くて、黒狼に逃げてしまったあの日の自分。たくさん学んで知識を増やせば幸せになれるかもしれなかったのに、楽に幸せになろうとしてしまった。こんな自分にも優しく、温かく接してくれたあの場所を、あの人々を、ファイは自ら手放したのだ。
弱くて卑屈で卑怯者の自分にはお似合いの末路だとファイは思う。
(……けど!)
それでもファイは最期くらい、大切な人たちにありのまま――“ファイ”のままで向き合って、感謝の気持ちを伝えたい。
(――だって私は、ニナ達と一緒に居て、幸せだったから)
黒狼の時と同じだ。その場所を離れてやっと、自分が幸せだったことにファイは気付いてしまった。
そして、ファイはニナ達に感謝の言葉を伝えなければならない。きっともう、これ以上ないくらい自分が幸せだったのだと、そう言って。
(そのためにはやっぱり、ニナ達に会わないと……!)
言われたことをただこなす、道具としてではない。頭だけでなく心でも迷って、悩んで。一番苦手な“弱い自分”をさらけ出して、
「分かった」
ファイがニナ達に会う決意をした、その時だ。
『ファイさ~~~ん!』
ここ最近、ずっとファイの耳の奥で響いていたニナの声を幻聴した。
ハッと顔を上げて声のした方を見てみると、遠くからものすごい勢いで駆けてくるニナらしき小さな影が見える。艶やかな茶色い髪を揺らして、はち切れんばかりの笑みを浮かべている。今日もファイの中にいるニナは、元気いっぱいだ。
ただ、ここはウルンだ。ニナはエナリアでしか生きられないと記憶しているファイは、
(また、まぼろし……)
自分の弱さが生んだ幻覚なのだと素早く結論づける。そして、まだまだ慣れないフォルンの光が映し出す自身のちっぽけな影に向けて、
「早くニナに会いたい、な……」
薬も切れ、ついに押し込められなくなった本心を口にした、瞬間だった。
「ファイさんファイさん、ファ、イ、さぁぁぁん~~~!」
「――え? わぷっ!?」
ひときわ大きなニナの声が聞こえた直後、まるで爆弾でも落ちたのかという重い衝撃と共に、ファイの身体は後方へと吹き飛んだ。




