第53話 漂白、成功だ
帝歴423年。黒緑のナルン、緑の2のフォルン(10月の17日目)。
アグネスト王国の南東の端。海に面した小さな港町『フィリス』。人口約10万人の近代的な町に、黒狼の本拠点はあった。灰色の石材で作られた3階建ての建物はしっかりと町並みに溶け込み、ただの中小企業にしか見えないだろう。
その3階にある組長室に、1人の男が居る。年のころは40代半ば。名を、エグバ・リングド・アグネスト。黒服に身を包んでもなお存在感を放つ筋肉と、見るだけで人を殺せそうな凶悪な目つきが印象的な、強面の男だった。
エグバの視線は今、机の上に置かれた折り畳み式の精密機器に向けられている。それは、近距離の通信や情報の集積、文書の作成など、様々な業務を行なうことができる魔動式演算機器だ。その画面には真っ暗な部屋でぐったりしているファイの様子が映し出されていた。
「――漂白、成功しましたね」
エグバの隣にいた黒狼組員が、起伏のない声で言う。それに対してエグバは「ああ」とだけ答えたものの、視線を画面から離すことは無かった。
さかのぼること4週間前(20日前)。“不死のエナリア”に向かわせた手下20人が、その数を半分にして帰ってきた。ファイを同行させたにもかかわらず人的被害が出たのは、エグバの知る限り初めてのこと。無意識かもしれないがファイは必ず、手下の安全を確保するように立ち回るからだ。
おかげで黒狼は人的被害を出すことなく安全に盗掘を行なって利益を上げ、100人規模の人員を抱える組織となることができた。
だからこそ、エグバとしては聞かなければならなかった。なぜ、人的被害が出たのか。どうして帰ってきた顔ぶれの中にファイが居ないのか。
すると、第8層で魔物の襲撃に遭い、ファイを置いて来てしまったのだという。犠牲者はその後の地上へ帰るまでの道すがら発生したようだった。
ただ、朗報もあった。命からがらエナリアから引き返した手下の1人が、第4層でファイらしき白髪の人物を見かけたと語ったのだ。
(ファイの育成には、主に食費の面で多大な費用がかかっている。加えて将来ファイが生み出す利益も大きい、か……)
エグバは、すぐにファイの捜索に人員を割いた。
しかし、数日間の捜索でもファイを見つけることはできない。しかも、黒狼組員は良くて緑色等級の実力者が数名居る程度だ。上層とはいえ、魔物による被害も数名出てしまったために、組員だけでの捜索を断念。王都に向かい、嘘の物語を作り上げることで協力してくれる探索者組合を探すことにしたのだった。
そうして協力してくれると言ったお人好しの探索者組合から発見の報告があったのが、ちょうど2週間前のこと。
引き渡しを渋る光輪を言いくるめ、ファイを無事に回収したのだった。
だが、帰って来たファイの姿を見てエグバは確信した。コイツ、新しい“主人”を見つけたな、と。
その懸念は、ファイが放置されたはずの第8層にとどまらず第4層に居たと聞いた時からあったものだ。
(あのファイが、誰の指示も受けず自分から動くわけがない)
可能な限り自主性や主体性と呼ばれるものを持たないようにファイを作ってきたエグバ。管理する側にとって、管理される側が多くのことを知っている状況というのは非常に厄介だ。現状に不満を抱いて反抗的になる可能性があるからだ。
(ましてやファイは、勝手に言葉を覚えるくらいには好奇心が強く、賢い。もし余計な知恵をつけて反抗されれば、白髪に俺たちが敵うはずもない)
だからこそエグバはファイの回収を急いだ。賢い彼女が知識や主体性という目に見えない武器を手に入れる前に。「自分は道具だ」と、そう言って犯罪に尽力する“愚かなままのファイ”を、探し出す必要があった。
しかし、迷彩柄の服を着たファイは身ぎれいで、彼女が言うところの新しい“主人”を見つけたことは明らかだった。
そして、約1週間前。話を聞いてみれば、やはりファイは新しい主人を手に入れていたと語った。それも、魔物であるガルン人を主人に頂いていたという。
“彼女たち”との話を嬉々として話すファイを、エグバは見ていられなかった。なるほど。これが、手塩にかけて育てた娘が他人に染められるとはこのことなのか、と。自分たちも同じようなことを行なっていることを棚に上げて、ファイに“色”を付けた魔物たちに嫉妬した。
だから、少しきつめの薬と葉っぱを使って、ファイを漂白した。
常時のファイに麻薬という“毒物”は通用しない。だが、ファイにはおよそ6週間に1度、数日間にわたって魔素の加護が弱体する期間がある。もちろんエグバはそれを月経であることも、繫殖行動をしやすくするために設けられている期間であるという定説があることも知っている。
かつては面倒な期間だと考え、ファイの子宮の切除も考えた。しかし、白髪が生む子供は白髪になる可能性が高いという話も聞いたことがある。根拠は無いものの、それを信じている人々も多い。エグバ自身も、遺伝の仕組みを考えればおかしい話ではないと思っている。
いずれ母体として役に立てるためにも、これまで我慢してファイを運用してきたのだが――。
(まさかこんな形で役に立つとはな。人生、分からないものだ)
画面の向こう。全裸のまま四つん這いになって、煙を上げる乾燥麻薬に鼻を近づけているファイを見てほくそ笑むエグバ。
薬物で記憶障害を誘発することはできるが、せいぜいぼんやりとしか思い出せない程度だろう。であれば、ファイの頭の中を別のもので満たせばいい。麻薬以外のことを考えられないようにすれば、ファイが余計なことを考えることもないだろう。
先週の薬漬けは、そう考えて行なったある種の実験だった。が、どうやら魔素の加護が弱まる使用不可期間を過ぎても、きちんとファイの中に依存性は残ったらしい。何かを欲する気持ちは生物として当然の心の働きであり、害ある物として加護にも弾かれないようだ。
(まぁそうだよな。砂糖だって、麻薬と言えば麻薬だ)
エナリアの中で食べた“お菓子”について、瞳を輝かせながら語っていたファイ。生まれて初めて知っただろう多量の糖は、ファイにとって衝撃だったに違いない。
(ニナとか言う魔物たちも案外、甘いものっていう麻薬でファイを操ってたのかもな)
野蛮で利己的な魔物らしいじゃないかと、エグバはファイが口にした“ニナ達”を嘲笑する。そこには、わざわざファイを薬漬けにしなければならない状況にしたこと――ひいては自分のファイに余計な真似をしたニナ達に対する、意趣返しの意味も込められていた。
乾燥麻薬は依存性が中の上あたりだ。ファイが固執しない可能性も無いわけではない。いや、我慢すること――自制心――だけは一丁前のファイのことだ。たとえ麻薬を欲したとしても鋼の意志で我慢し、いずれは依存状態から抜け出してしまう可能性もある。
そうでなくとも、常用すれば麻薬は耐性が付いてしまうものだ。白髪のファイであれば数週間、下手をすると数日で麻薬が効かなくなる可能性もある。
「……次は通常状態のファイでも結晶が使えるのか、実験するぞ」
「――分かりました。ですが、どのように注入しますか?」
「白髪の肌にも通る針はもう手配してある。届き次第、実行だ」
どうせファイは主人からの働きかけを拒否することができない。そうなるように丹精込めて作ってきたからだ。注射器さえ用意してしまえば、体内に注入すること自体は簡単だ。
(あとは正真正銘の毒物を、ファイの身体がどう判断するか、だな)
考えながら、背もたれに身を預けたエグバ。ファイの漂白はできたとして、次の問題はニナという名前の魔物たちだ。ファイと意思疎通を行なっていたことを考えると、ウルン語を介する珍しい魔物ということになる。
それはつまりエナリアにやって来る他のウルン人とも会話ができるということでもあり、“白髪”であるファイの存在と所在が露見するリスクもあるということになる。
幸いなことに、ニナという魔物は最弱種である人間族らしい。赤色等級相当の力を持つファイであれば、簡単に殺すこともできるだろう。
(……結晶が効くようなら、ファイ自身に殺しに行かせるのもありだな)
撮影機に背を向け、興味津々な様子で乾燥麻薬を矯めつ眇めつしているファイを眺める。
この先ももしかすると、ふとした拍子にファイが居なくなるかもしれない。今回のことを経て、それを痛感することになったエグバ。ただ戦闘だけで彼女を使い潰すのは、あまりにも勿体ない。
本当に素直で、美しい少女に成長したと思う。栄養を与えなかったせいか肉付きこそ控えめだが、程よい筋力と柔軟性を供えた魅力的な身体の線だ。
これまで彼はファイを“そういう目”で見たことが無かったが、一度失いかけたことで自分でも気づかない心境の変化があったのかもしれない。
全裸のファイを見て、エグバの身体が反応する。彼も40代半ばで、まだまだ現役だ。
「ファイの次の使用不可期間は5週間後、か……」
果たして本当に白髪の子は白髪になりやすいのか。自分自身の手でその実験を始める頃合いかも知れないと演算機器を閉じたエグバは、地下へと向かうことにする。そこには、ファイとは違う目的で各地から誘拐してきた女性たちが待っているのだった。




