第50話 この場所なら、きっと
ファイが光輪の人々――ファイにとっては黒狼以外で初めてのウルン人――との接触を図ってから3日後。ファイは黒狼の本拠点へと帰って来ていた。
「おらよっと……」
黒狼の組員がファイ専用の部屋に彼女を雑に放り込む。手足に枷をつけられているファイが受け身を取れるはずもなく、最初に地面にたたきつけられた頭にはほんのりとした痛みが走った。
「組長からの命令があるまで“待て”だ。良いな?」
「……分かった」
遮光眼鏡をかけた組員にファイが頷いてみせると、分厚い鉄の扉が音を立てて閉まるのだった。
そうして真っ暗になる部屋。幅1.5m、奥行き3mほど。水が出る蛇口と排せつ用の水洗便所だけがある、簡素な部屋だ。のっぺりとした素材の床にはかつての自分が残したフケや垢がこびりついており、部屋全体に不潔な臭いが立ち込めていた。
(改めて思うと、ひどい臭い……)
自分がこんな場所で平気で暮らしていたのかと、ファイが内心で顔をしかめたのは一瞬だった。
(――けど、この感じ。久しぶり)
指示通りに膝を抱えて“待て”の姿勢をしながら、真っ暗な部屋を見渡すファイ。物心ついた頃から過ごしてきた私室に、わずかに頬を緩める。
室内灯も、寝る場所もない。自身の皮脂でべたついた、硬くひんやりとした地面や壁。外界とのつながりは、扉の下部にある麦餅が放り込まれる小窓1つだけだ。
そう。これだ。この小さな世界こそが、ファイの知る世界なのだ。
ここで待っていれば、いつか必ず組員たちが指示をくれる。道具のようにぞんざいに扱ってくれる。食事と排せつと、睡眠。ファイが必要なもの以外は何もない、まさしく理想的な部屋だ。だからこそファイは不便を感じたことも無ければ、それ以上を望むこともなかった。
(エナリアの部屋みたいに、夜光灯も、ふかふかの寝台も、要らない……はず)
近くの壁に身を預けながら、ファイは改めて自分の“幸せ”について考える。
ニナ達が提供してくれたあの場所は、ファイにとってはあまりにも贅沢が過ぎた。ファイが欲しいと望まなくともルゥが甘いお菓子を出してきて、ミーシャが撫でさせに来てくれる。それに、「ファイさん!」とニナが何度も名前を呼んで、笑いかけてくれて、手を握ってくれて、抱きしめてくれる。その度にファイは満たされて、“もう一度”と求めてしまう。
必要以上のものがあれば、人は欲張りになる。不幸になる。
それは、ファイがエナリアで最も痛感したことだ。だからこそファイは何も与えられない環境に身を置き、今ある物を大切に噛みしめて、小さな世界で生きていくことにする。そして、黒狼ではそんな生活が約束されていることをファイはもう知っている。
(だってニナ達に会うまで、私はちゃんと幸せだったから)
先刻、自分を迎えに来てくれた黒狼の人々の喜びようと言ったら、筆舌に尽くしがたいものがあった。
『これでようやく組長の機嫌も直る!』
『ファイの使用不可期間の前に回収できて良かったよな!』
『4層に居たファイを見逃さなかった兄貴たちのおかげだぜ、全くよぉ!』
『エナリアでアイツを探し回させられてる間、生きた心地がしなかったぜ……』
誰もファイのことを心配せず、己の仕事が減ることや組長の機嫌が直ることに安堵していた。ファイの気持ちなどお構いなしというその態度こそ、ファイが求めていた反応だ。
それは同時に、黒狼がファイを見捨てたわけではなかったことの証でもある。
黒狼がファイを取り戻したいま、ファイにとっての最上位の主人は黒狼となる。よって、次点となったニナからの命令や言いつけは皆、黒狼からの命令によって上書きされる。
(もう、これで大丈夫。私は、“幸せ”になれる。だから安心してね、ニナ)
道具として満たされた生活に戻るのだとそう信じて、ファイは静かに目を閉じる。
「…………。………………。……………………」
音すらも外部と遮断された部屋。沈黙と衣擦れの音だけが、ファイの耳を打つ。
すると、どうしてだろうか。ファイの耳の奥で、自身を呼ぶニナの声が聞こえた気がした。ハッと息を飲んで周囲を見回してみるが、もちろんそんなことは無い。ただ、目を閉じると感情をありありと映すニナの顔が浮かぶ。
「……?」
キュッと胸が締め付けられた気がして、首をかしげるファイ。その理由を少し考えた彼女は、黒狼の人たちに捨てられた(と思い込んでしまった)日と同じなのだと気付く。つまり、
(私、ニナ達に「ごめんね」って思ってる……)
ニナの“エナリアを手伝って”という命令。それを放棄する形になってしまったことに、自分が申し訳なさを感じてしまっているのだろうと推測する。
ただ、それならば大丈夫だとも結論づける。なぜなら黒狼の人たちに捨てられた日も「ごめんね」と言えば、あとに残ったのは“無”だけだった。したがって――。
「ごめんね、ニナ」
儀式的に謝ってみると、やはりファイの中にあったモヤモヤが薄れた気がした。
(ほら。私は大丈夫。これ以上、何も感じない)
ホッと息を吐いて再び目を閉じる。が、しばらくすると再び、ニナの姿と共にモヤモヤが湧き上がってきた。
「……??」
15年も一緒に居た黒狼への申し訳なさは秒で消え去ったというのに、ニナへの想いはなかなか消えてくれない。
ただ、それも当然だとファイは分かっている。
泣いて、笑って、怒って、喜んで。そんなニナがファイの知らない知識を教えてくれるたび、ファイの知る世界は広がっていく。暗く限られた世界で生きて来たファイにとってニナは、まさし世をあまねく照らして教えてくれるフォルンのような存在だった。
(さすがにニナを忘れるのは、ちょっと時間がかかる……かも?)
目を閉じてしまうと可愛らしいニナの顔が浮かんでしまうため、つま先だけを見つめて“待て”をすることにしたファイ。このモヤモヤの正体に名前を付けてしまう前にどうにかニナを忘れられないだろうか。考えたファイは、つながりが薄い人物を忘れようとすることで気を紛らわせることにした。
まずは、ユアとムア。声は聞いたものの、会ったことはない。ニナ達とのやりとりから、恐らく2人が姉妹と呼ばれる関係だろうことは想像できる。
ユアは魔獣の開発を得意としているらしい。一体どうやって、新たな魔獣が生み出されているのか。ファイは考えてみようとして、やめる。
(だってもう、私には関係ないから)
魔獣開発の方法など、ファイが知る必要はない。自分はただ目の前に現れる魔獣を殺せばいいだけなのだと、思考を放棄する。そうして割り切ってしまえば、自身の中からユアという人物に関する興味も感情も消え去っていくことをファイは自覚した。
(次は、ムア)
ムアはニナに次ぐ実力の持ち主らしい。いつか戦うかもしれないことを考えると、要注意だ。
あの姉妹は獣人族だとニナは教えてくれた。つまりミーシャのように可愛い存在に化けるということでもある。果たしてどんな可愛い姿になってくれるのだろう。どんな毛並みで、どんな触り心地をしているのだろう。そう考えている自分を、ファイは首を振ることで否定する。
(だ、大事なのは見た目でもモフモフでもない。敵としての、強さ)
たとえ相手がどんなに可愛い獣に化けようとも、敵である以上、ファイはユア、ムアを斬り捨てるだけだ。ただ、それは戦え・殺せという命令を組長が行なった時だけだ。できるならそんな未来は来て欲しくない。そう考えてしまう自分にファイが気づくことは無い。
ユアとムアへの未練を断ち切ったと思い込んだ彼女は、リーゼへと意識を向ける。
(リーゼ。キレイで、格好良い人……)
触れあった時間こそ短いものの、彼女がファイに与えた印象は鮮烈だ。強さはもちろんのこと、立ち居振る舞いがファイにはものすごく美しく見えた。頭の先から指先・つま先まで。ファイが無意識に憧れを抱いてしまうほど、ファイにとっては印象深い人物となってしまっている。
彼女のことを忘れることなど、できるのだろうか。いや、それどころか――。
(リーゼよりも長く一緒に居たミーシャ、ルゥ……ニナ。みんなのこと、本当に忘れられる、の?)
臆病な自分が顔を覗かせそうになって、ファイは自身の膝に顔をうずめる。
ファイはこの場所に、“道具”になるために帰ってきたのだ。以前のように、道具として満たされた日々を送ることができると信じて、あえてアミスと接触した。
そして以前と同じ道具に戻るためには、エナリアで得たものを取捨選択して捨てなければならないのだ。魔獣やエナリアの性質は、探索者として必要となる。ただ、それ以外――例えばニナ達との思い出など――は不要なはずだ。
(できる、できないじゃない。やらない、と……!)
そうでなければ、自分がこうして黒狼に戻ってきた意味がなくなってしまう。そこからファイは、忘却という作業に取り組み始める。
全ては “寂しさ”という名のモヤモヤを感じる心と呼ばれる器官を消し去るために。




