第288話 スッキリ、さっぱり
“不死のエナリア”第20層にある大浴場に、ファイと海人族の女性の姿があった。
未だに密猟者への対処に追われているらしいニナ達。通信室に居るリーゼ経由で海人族の女性の処遇について聞いてみたところ、
『保留、ですわ!』
そんな回答があった。
それも当然で、ファイ達はこの女性の素性も何も知らない。だからと言って、こうして裏に通してしまった以上、おいそれとウルンに帰すこともできない。
ティオの時と同じで、まずは様子を見つつ素性を探る。最終的には本人の意思を確認し、ここにいるというのなら住まわせ、ウルンに帰るというのなら記憶処理をして帰すということになった。
ただ、それらを判断するニナは現在、取り込み中。こういう時に頼りになるルゥも、アミス達の攻略に際して第10層の階層主の部屋で待機中。また、ミーシャは感染症予防の観点で席を外してもらっていた。
また、不潔な状態ではウルンの病気をエナリアに持ち込む可能性がある。ということで、ファイが女性の世話を見ることになった。
「ここで服を脱ぐ」
「え、ええ……」
戸惑いながらも返事をした女性が、唯一身にまとっていたぼろきれを取り払う。
あらわになるのは、捕らわれていた割には意外と肉付きの良い身体だ。少なくともファイが黒狼にいた頃とは比べるべくもない。
胸、お尻、二の腕や太もも。どの部分にもしっかりと肉が付いている。身長もファイより高い。恐らく180㎝前後の高身長だろう。
一方で、良かったのは食料面だけだったようだ。髪も身体も清潔とは言えない状態で、フケや垢、あるいは何か白い液体の跡もある。ファイ自身、かつての自分を見ているようだ。
だからというわけではないが、
「こっちこっち」
女性の手を引くファイの声は、わずかに弾んでいる。
ファイはお風呂の存在を知ってから、自身の不潔さを知った。同時に、お風呂というものの気持ちよさも知った。身体をきれいにすると、心もさっぱりとするのだ。
海人族の彼女がこれまでどんな生活を送ってきたのかは、ファイにも分からない。それでも、お風呂という場所には緊張した身体と心を解きほぐす効果があると思っている。
差し当たり、お風呂は良い場所だよ、と。ファイは早くこの女性に伝えたかった。
「ここ、座って、座って」
ひとまず女性を椅子に座らせたファイ。慣れた手つきで散湯器からお湯を出し、女性の髪を洗っていく。
やはりというべきか、女性の髪の汚れはひどい。一度や二度すすいだ程度では、全然指が通らない。
それでもファイは焦らず、丁寧な手つきで彼女の髪を洗っていく。その最中に考えるのは、先ほど別れたばかりのミーシャのことだ。
(やっぱり、ミーシャ。この人を助けるために、わざと捕まってた)
それは、ファイ達がここに来る前に話していた“そもそもの話”だ。
彼女の話によれば、ファイがユート達を助けに行ったすぐあとのこと。ミーシャは遠くで反響する女性の悲鳴を聞き取ったのだという。
『ファイに待っててって言われたけど……。そんなの、放っておけないじゃない』
持ち前の優しさと気高さが災いし、居ても立っても居られなくなったらしい。ミーシャは悲鳴がした方へ駆けつけた。
とはいえ、慎重で臆病な性格のミーシャだ。最初は介入するつもりなど無く、状況を把握。場合によってはファイと合流し、一緒に事に当たろうと考えていたらしい。
だが、そこでミーシャが目にしたのは力なくうずくまるこの女性と、無残に殺されてしまった探索者たちだったという。
『ウルン語だったからほとんどわからなかったけど、アイツら……。あの女の人を利用して探索者を油断させてたみたいなの』
かろうじて聴き取れたウルン語から事情を読み解いたらしいミーシャ。彼女によれば、盗賊の徒党の1つが、この女性を悪事に利用していたのだという。
どういうことなのか。尋ねたファイにミーシャが教えてくれたところによると、まずはこの女性を探索者たちのもとへ向かわせる。
探索者稼業は支え合いということもあって、探索者たちはみな優しく、お人よしだ。みすぼらしい女性が現われれば当然、その女性を助けようとする。
そうして彼女に気を取られているうちに、盗賊たちは別方向から探索者に接近。比較的容易に探索者を襲撃できる。
『そうでなくても、あの人を人質だって言って見せびらかせば、多少は相手の動揺を誘えたはずよ』
通路の陰から盗賊たちの話を聞き、海人族の女性の“利用方法”を察したらしいミーシャ。恐らく、彼女自身の生い立ちにも重なる部分があったのだろう。
怒りのあまり、つい、盗賊たちの前に姿を見せてしまったようだ。
そうして簡単に捕縛された彼女。ファイとしてはよくその場で殺されなかったなと思わなくもないが、嘘か本当か、ミーシャには殺されない自信があったという。
その手掛かりこそ、ファイが今なお洗っているこの女性がまとっている生臭さにあったという。
臭いの正体について、最後までミーシャが教えてくれることは無かった。ただ、少なくともこの女性を利用していた盗賊たちが、1人でウロチョロしている女を生け捕りにするだろうことをミーシャは確信していたらしい。
『あとはアイツらクズの隙を見て助けようって、思ってたんだけど……』
想像していたよりもはるかに敵は多く、逃げられなくなってしまった、と。きまずそうに語っていたミーシャ。
その時ファイの脳裏にはなぜか、獲物を追って高い木に登って下りられなくなった猫の姿が思い浮かんでいた。
『そ、それでも! その……アタシが居なくなったって分かったら、絶対、ファイが来てくれるって、思ってたから……。だから、その時に今度こそあの人をって……んにゃ……』
ファイの方をチラチラと見て、いじらしくファイのことを信じていたと言ってくれるミーシャ。そんな彼女を、ファイが抱きしめなかったわけがない。
――守られてばかりはイヤ。
ミーシャがよく使う言葉だ。
実際、ファイが駆けつけても、ミーシャは一度たりとも「自分を助けて」とは言わなかった。
強くなりたい。ファイと、少しでも“対等”になりたい。ミーシャの気概はファイも応援しているが、頼ってくれなくなるというのは寂しくもあった。
そんな中でのミーシャの甘えだ。思い余ってファイが強く抱くあまり、窒息したのだろうか。顔を真っ赤にしたミーシャが、
『ファイ、待って、いまアタシ、アレの最中で、刺激が強い……きゅぅ』
と。顔を真っ赤にして目を回す姿を思い浮かべたあたりで、
「ん、できた」
海人族の女性の洗髪が終わった。
泡を流して分かったのは女性の深紅の髪がかなりまっすぐな毛質をしていたことだ。その長さは腰まで届いている。が、伸ばしているというよりは伸びるまま放置されているらしい。
それは前髪も同じだ。フーカと同じで目を隠すような長さになってしまっている。その髪をそっと耳にかけてあげれば、あらわになるのは艶っぽい顔立ちだ。
所在なげに揺れる瞳は夕焼け色。ミーシャやリーゼのように吊り上がっているわけでも、フーカのように垂れているわけでもない。それでいて憂いを帯びたような目元は、自然と見る者の目を惹きつける。
深紅の髪から覗く耳の先端は、先端に行くほど赤味を帯びる魚の鰭のようになっている。
首の左右にはいった切れ目は、フーカが言っていたエラだろうか。この器官を使うことで、海人族は長時間、水中でも行動することができるとファイは聞いていた。
「あの……。ありがとう……」
「ううん、これも私の役目、だから。お礼は要らない。それより名前、聞いても良い?」
女性の声と表情がわずかに柔らかくなったことを確認して、ファイは鏡越しに誰何する。一瞬、女性の夕焼け色の瞳と目が合ったが、さりげなく逸らされてしまった。
「ワタシは、メレ。帝国の、イトワレ出身」
「うん、メレ。覚えた」
しばらく話していなかっただろうか。まだ口語に硬さがみられるメレ。それでも声から掠れは取れ始めており、少しずつメレ自身の、少し低く艶のある声が聞こえ始めていた。
カイル、ユートもそうだったが、帝国の出身者は名前が短いらしい。また、普通に話している分には気にならないが、王国でも使われている「汎用セルマ語」と少し違う発音や抑揚、単語があったりする。
ファイがほとんどつっかえることなく話すことができているのは、単に、彼女の語学習得能力が優れているだけでしかなかった。
「私はファイ。ファイ・タキーシャ・アグネスト。よろしくね、メレ」
「ファイ、ちゃん……ね? ええ、その……よろしく」
「ん。じゃあ、メレ。身体も洗っていく、ね」
人に尽くすことが大好きなファイだ。ここからは垢が目立つメレの身体を隅々まできれいにする番、と、鼻を鳴らす。しかし、
「ううん、もう大丈夫よ? それくらい、自分でできるもの」
残念なことにファイの申し出はあっさりと固辞されてしまう。
「そ、そっか……・。じゃあ、これ使うと良い。泡が『モコモコ』、に、なる」
「『モコモコ』……? が、なにかは分からないけど。ふふっ、ありがとう」
ガルン語で擬音を使うファイに首を傾げつつも、かすかに微笑んだメレ。初めて見せてくれた、優しく、どこか妖艶な彼女の微笑みに、ファイはしばし時を忘れることになった。
そんなファイに構わず、身体を洗い始めるメレ。彼女の隣に並んで自身も髪と身体を払い始めるファイは、メレの表情や仕草を確認しつつ、彼女を質問攻めにする。
どこで生まれて、何をしてきたのか。なにが好きで、どんなことが得意なのか。逆に嫌いなもの、苦手なことは何か。魔法はどんなものが使えるのか、などなど。
もちろんファイ自身の好奇心もある。が、ニナのために、彼女の素性を調べる意味合いの方がこの時は強い。
同時にファイが注意を払うのは、どうしてあの場に居たのかについてはまだ聞かないことだ。
ファイはスッキリ気分転換してもらうためにメレをお風呂に入れている。そんな中、わざわざ良くないことを聞いてメレの気持ちを落ち込ませる必要はないという判断だ。
(配慮、大事。ルゥも、ミーシャも、リーゼも、言ってた)
先輩従業員たちが口酸っぱく教えてくれた“配慮”というガルン語。
その概念で自身の旺盛な好奇心を押さえるファイが、冷静に職務を全うし続けたからだろうか。
「すっきりだ、ね。メレ?」
「うふふ! そうね……。まさかエナリアでお風呂に入れるだなんて、思いもしなかったわ……。ありがとう、ファイちゃん」
そんなことを言いながらお風呂から上がるころには、メレの表情からはかなり“影”が消えていたのだった。




