第276話 なんで離れてる、の?
ファイの意識を取り戻してくれたのは、少女の剣呑な声だった。
「ちょっと! アンタ達、さっさと退きなさいよ!」
言って、フシャーッと威嚇の息を漏らす声は、ミーシャのものだ。どうやら、少し離れた場所からファイのいる方へ向けて敵意を向けているらしい。
同じころ、聴覚に続いてファイの身体の感覚が戻ってくる。と、自身の全身を這い回る無数の小さな存在が居ることに気づく。恐らくミーシャは、この小さな生物を威嚇しているのだと思われた。
「ミー、シャ……? んっ……」
小さな生物はファイの服の中にも侵入しているらしい。彼らがわき腹や内もも、首元で動き回るたび、ファイの口から甘い息が漏れる。
(な、に……?)
服の中の侵入者を確認すべく、重いまぶたを開けるファイ。と、服の中を見ずとも、ファイの鼻先には侵入者たちの仲間がいた。
真っ白な身体に、桃色をした小さな手足。鼻先の髭をヒクヒクさせて赤い瞳でファイを見つめていたのは、エナリアの案内役兼運び屋となる小さな鼠――チューリだった。
『『ヂュゥッ!』』
先ほどのミーシャの威嚇に応えるように、複数のチューリ達が鋭い声で鳴いている。
「ちょっ……。アンタたち本気? 言っとくけど、今すぐ捕まえて串焼きにすることだってできるのよ」
『『ヂュッ!? チュー……』』
「アタシが来るまで悪い子たちからファイを守ってくれたのは、その……感謝するわ。でも、ここからはアタシが引き継ぐってだけ。分かったら行きなさい」
相手が小動物だからだろうか。普段より素直に感謝の言葉を口にしているミーシャ。彼女の言葉から察するに、廊下で眠っていたファイをチューリ達が守ってくれていたらしい。
また、ファイの身体が冷えないようになのか、単にファイの身体で暖を取っていたのかは分からない。が、チューリ達がファイの身体を覆ってくれていたことで、今のファイは程よい暖かさを感じることができていた。
「ミーシャ。チューリも。もう大丈夫」
「ファイ!?」
ファイがゆっくりと身を起こすと、ファイの身体に覆いかぶさっていた無数のチューリ達が「チュ~」と声を漏らして落ちていく。そのうち頭や肩の上から落ちそうになっていたチューリについてはそっと両手で受け止め、地面に逃がしてあげるファイ。
足元を確認してゆっくり立ち上がった彼女が顔を上げると、なぜか距離を取ってこちらを見ているミーシャが居た。
「ファイ。アンタ、なんでこんなところで寝てるのよ? いや、まぁ、大方予想はつくんだけど」
黒毛の細い尻尾を揺らし、呆れ交じりに問いかけてくるミーシャ。だが、ファイとミーシャの距離は10m近くある。会話をするには、あまりにも遠い。
その距離について聞きたいところだが、ひとまずファイにとって重要なところから指摘していく。
「ミーシャ、違う。“寝てた”じゃなくて、目をつぶってただけ」
人間としての行為を嫌悪するファイだ。眠るなどという欠陥行動をしていたのではなく、あくまでも休憩をしていただけなのだと見栄を張る。
ただ、ファイの回答を受け取ったミーシャは、ひどくうろんな目つきでこちらを見てくる。ファイが嘘をついていると確信しているに違いない。
それでも呆れ交じりの長い息を吐いた彼女は、「まぁ良いわ」とファイの指摘を流す。
「そんなことよりも、ファイ。足元でモノ欲しそうにアンタを見てるそいつら、どうにかしたら?」
「そいつら……?」
ミーシャが指で示す先、ファイが自身の足元を見てみると、キラキラとしたつぶらな赤い瞳でこちらを見つめているチューリ達が居る。その数、軽く300匹は超えるだろう。
四方八方から数えきれない視線を向けられている状況に身震いしたファイは、ふと思い出す。
(そう言えばチューリ。欲望に素直……えっと、現金? な生き物だった)
チューリと言えば、報酬――主に食べ物――の見返りに道案内やちょっとした手紙などを届けてくれる小動物だ。逆に言えば、先払いの報酬がなければ基本的には何もしてくれない。そんな動物でもある。
「ファイ。アンタ、あれでしょ。日ごろから餌付けをしてるんじゃない?」
「餌付け?」
「ええ、そう。寄ってきたチューリに持ってる食べ物をあげたりとか、撫でてあげたりとか。そんなことばっかりしてたんじゃない?」
「うん。そうだけど……?」
何がいけないのか。首を小さく横に倒すファイに、ミーシャは再び呆れたように頭を抱える。
「いい、ファイ? 動物はね、学ぶ生き物なの。ましてチューリみたいな社会的な生き物は特に、ね」
ミーシャが言うには、チューリ達の中でファイは、食べ物をくれる人という認識になっているだろうとのことだ。
そうなるとチュー李たちにとってファイは、何かをすれば褒美をくれる“都合の良い存在”になってしまうのだという。言ってしまえば、舐められるということだ。
「だからチューリ達は今回も恩着せがましくアンタに群がって、見返りを貰おうと――」
「ミーシャ。見てて……ね?」
ファイが背筋を伸ばして額に手を当てる“敬礼”をしてみる。と、チューリ達も短い手足を使って同様に敬礼をして、解散とばかりに散り散りになって去っていく。
そして、最後。ファイの方を振り返って去っていったのは、精悍な顔つきをしたチューリだ。彼は、かつてファイがユアの居る場所への案内をお願いしたチューリでもある。
あの時に大きめの乾酪を与えたことが、いたく嬉しかったらしい。ファイが廊下を歩いていると仲間たちと共にファイに会いに来てくれるようになっていた。
そんな彼らをミーシャが言うように餌付けし続けた結果が、これだ。ファイが困っていると、ちょっとしたお手伝いをしてくれるようになっていた。
「ミーシャも知ってる。チューリは、良い子♪」
精悍なチューリを見送ったファイは、背後を振り返る。そこには、目と口をあんぐりとさせ、耳と尻尾をピンと立たせた可愛らしいミーシャの姿があった。
「……そう言えば少し前。ファイが『エナリアを攻略する』なんて馬鹿な手紙をチューリで届けてくれたこともあったわね」
フーカが従業員として加わるきっかけとなった、アミス達との“不死のエナリア”攻略。あの時、第1層から第20層まで手紙を届けるという無茶を聞こうとしてくれていたのも、ファイが餌付けをしていたチューリの1匹だったのだろうとミーシャは言う。
「チューリって本当に利己的で、ヤな奴も多くて……。普通はこんなこと、あるはずないんだけど……」
「動物に触るときは、優しく。ミーシャが教えてくれたこと、だから」
恐らくこのエナリアで一番、小動物と接するのが上手なのがミーシャだろう。彼女が培養室で動物と接するときに見せていた景色や雰囲気は、ファイにとってとても良い学習材料になっていた。
「で、ミーシャ。私がここに居る理由、だけど」
「んにゃ? あぁ、ええ。そう言えばその話がまだだったわね」
脱線した話を戻すことにするファイ。そもそも話を横道へ導いたのはファイ自身の「眠ってない」発言なのだが、ともかく。
先ほどまでニナと撮影機を設置していたこと。また、これから先も同様の作業をしなければならないこと。最後に、このエナリアに密猟者が来ていることなどをかいつまんで説明しておく。
途中、ファイの説明の中にあった「密猟者」という単語に、頭頂部の三角形の耳をピクリと反応させたミーシャ。
彼女は先日、密猟者をきっかけとして、両親との因縁に1つの区切りをつけたところだ。
思えば両親との別れによる精神的な成長もまた、ミーシャの進化を促したのではないか。そう今になって思わなくもないファイ。
ただ、見た目だけなく精神的にも少し大人になったのだろう彼女はもう、密猟者という言葉に過剰に反応することも無い。
「密猟者については、アタシもニナから聞いてるわ。ついでに手が空いたらファイの仕事を手伝うように言われたから、こうして見に来たわけ、で……」
自身がここに居る理由も併せて、ファイの説明を受け止めていたミーシャ。だが、ふと何かに気づいたように毛を逆立てると、瞬く間に赤面し始める。
「べ、別にファイが心配で見に来たとか、そういうのじゃないからっ!」
「あ、うん。分かってる、よ? いつだって、ミーシャは私を心配しない。……優しい」
心配をしない。ひいてはファイのことを信じてくれている。エナリアで数少ない“道具としてのファイの理解者”であるミーシャ。そんな彼女の相変わらずの言葉に、ファイとしては大満足だ。
一方、ミーシャの方は「うにゃぁ~」と頭を抱えて苦悩の声を漏らしている。
「こうじゃない! こうじゃない、けど……! ファイが良いならこれでいい、の、かしら!?」
その場にうずくまり、小声でぶつぶつと何かを言っている。ただ、距離があるためにファイは彼女が何を言っているのか聞き取れない。
「ところで、あの……ミーシャ?」
「なによ!?」
考え事を途中で遮られたからだろうか。威嚇するように問い直してくるミーシャの語気に押されつつも、ちょうど時機は良いだろうとファイはかねてから気になっていたことを聞くことにする。
「なんでそんなに離れてる、の……?」
ミーシャとの間にある、10mほどの距離。耳が良いミーシャには恐らく支障はないのだろうが、ファイとしてはミーシャの言葉が少し聞き取りづらい。
何よりミーシャに避けられているように思えて、落ち着かない。
居心地の悪さに身をよじるファイが改めて正面に目向けると、顔を赤くして硬直するミーシャの姿がある。
一瞬、怒っているのかとも思ったファイ。だが、ミーシャの背後では尻尾がフラフラと力なく揺れている。
(ミーシャ、恥ずかしがってる。でも、なんで……?)
ファイの記憶では、ミーシャは今なお発情期の真っ最中であるはずだ。特に他者の匂いや声に敏感になると、ユアは言っていただろうか。
「えっと……。もしかして、私の匂い?」
ファイの言葉に緑色の瞳を大きく見開いたミーシャ。そのまま顔を赤くしてうつむいた彼女だが、小さくコクンと頷く。
「け、けど、勘違いしないで。ただのファイの匂いくらいなら、もう我慢できるわ。……けど」
「……? けど、なに?」
この後に続いたミーシャの言葉で、ファイはすぐにお風呂に入って着替えることを決意することになった。




