第272話 正直に、ね?
ファイの人として・道具としての尊厳をかけた戦いが秘かに終わりを告げた後。水浴びをするふりをして服と下着を洗ったファイ。
風の魔法などを使って素早く身体と服を乾かして、
(くんくん……。だいじょう、ぶ?)
粗相特有の臭いがしないことを確認してから、着替えを済ませる。なお、そのあと改めて水分を取ったのだが――
(美味しいっ!)
何も気にせずに飲むことができるようになった水は、普段よりも数倍美味しい気がしたのだった。
そうして再開された、撮影機の設置作業。例によってニナが騒動を起こして湖周辺の探索者の気を引き、その間にファイが手早く設置作業を進める。
だが、度重なる異変に探索者たちも警戒心を跳ね上げたらしい。4つ目、第7層のおよそ中央にある一番大きな湖で作業をしようとする頃には、第7層全体に張り詰めた緊張感が満ちるようになっていた。
「さ、さすがにこの雰囲気の中で同様のことをするのは難しいかもしれませんわね……」
「そう、だね……」
木の幹に背を預けて苦笑するニナに、ファイもかすかに眉尻を下げながら同意する。
前提として、この“不死のエナリア”に入るには青色等級以上の実力が必要とされる。
さらに第7層に来られている探索者の多くは、緑色等級以上だろう。たとえニナからすれば弱い探索者なのだとしても彼らの目を盗んで、かつ、姿を見られないように追っ手を撒くのにはそれなりに骨が折れるらしい。
実際、陽動を済ませて帰ってくるニナはそれなりに疲弊していた。
そのうえ、こうして探索者たちが目をぎらつかせる中で陽動を行なうのは難しいとのことだ。
当然、人目を盗んで撮影機を設置することも難しくなる。ここに来て、順調に進んでいた設置作業は中断を余儀なくされていた。
「さて、どういたしましょうか……」
悩ましげに言って、ぽけーっと頭上にある木の葉を見つめているニナ。ただ、彼女に焦りの色は見られない。足を延ばしてのんびりと、このまま時が過ぎるのを待とうとしている気配さえある。
実際、このままファイ達がしばらく行動を起こさなければ、探索者たちは再び平常運転、つまり、程よい緊張感の中で色結晶や宝箱探索に戻るに違いない。
そうなれば、ファイ達が作業を再開することもできるだろう。
が、優秀な道具を目指すファイは、別の手段を模索するべきだと考えている。主人の夢のため、笑顔のために尽くすことこそがファイの本望だ。
何か良い方法は無いだろうか。考えていたファイの耳が、ふと、近くの茂みが揺れる音を拾う。
敵意などは感じられない。そのため、特に身構えることなくファイが茂みを見ていると、
『キュッ』
茶色い毛におおわれた、小さな森角兎が飛び出してきた。瞬間、ファイの身体は動き出している。そして我を取り戻したころ、ファイの腕の中には森角兎がしっかりと捕まえられていたのだった。
「(モフモフ)…………。……わっ」
自分の行動に、他でもないファイが驚く。
思えばムアと別れてから数日ほど、ファイはモフモフ成分を手にできていない。その反動が、無意識に近くのモフモフを捕まえるという愚行を導いてしまったようだった。
「驚かせてごめん、ね」
一応の断りを入れて、森角兎を解放するファイ。ヒクヒクと鼻を動かしてこちらを見上げた彼女――角がないためこの森角兎はメス――だったが、すぐに森の中へと姿を消す。
そんな森角兎の可愛らしいお尻を目で追い続けたファイの頭にふと、妙案が思い浮かぶ。
(きっと“あの子”の力を借りたら、お仕事、続けられる。……けど)
この方法を使うと、多くの犠牲が出てしまうことは間違いない。
だが、程なくしてファイの背後から歩いてきた主人の顔を見て、ファイは覚悟を決めた。
「ファイさん? どうかなさいましたか?」
戦闘などの気配がないためだろう。警戒する様子もなく、しゃがむファイを不思議そうに見ている。
まさかモフモフするために主人のもとを離れたとは言えないファイ。何食わぬ顔で立ち上がると、
「ニナ、1つ、案を思いついた」
まるで最初から考えあっての行動だったというようにふるまう。
そしてニナも、わざわざ真実を暴こうとするほど無粋ではないらしい。キラッキラに輝かせた瞳でファイを見上げてくると、詳細を聞いてくる。
「まぁ! ぜひお聞かせくださいませ!」
「ん。えっと、ね。ちょっと友達の力を借りようと思う」
脳裏に真っ白な毛並みをしたモフモフの君を思い浮かべながら、ファイは「ふすっ」と鼻を鳴らす。
「ニナ。私が良いって言うまで、目を閉じて、耳をふさいでて」
「はぁ……。目と耳を……。こ、こうでしょうか?」
不思議そうにしつつも、ニナが目と耳をふさいでくれる。
「そう。……えっと、ニナ。聞こえる?」
「はい! ……あっ」
返事ができている時点で、ニナが耳をふさいでいないことなど丸わかりだ。
つい冷ややかな視線を向けてしまうファイに、ニナが「も、申し訳ございませんわ! つい……」と改めて耳をふさぐ。
「ニナ。もう耳を開けても大丈夫、だよ?」
「…………」
「目を開けても大丈夫」
「…………」
ファイが言っても、ニナは反応しない。
(うん、大丈夫そう)
ようやくニナが目と耳をふさいでいることを確認したファイ。ニナに背を向けると、小さく息を吐く。
恥を忍んでファイがニナにお願いをした理由。それは、これから自分がしようとしていることを見られる方がはるかに恥ずかしいからだ。
ではファイが何をしようとしているのかと言えば、モノマネだ。さらに言うなら、この階層にできたばかりの新しい友人を呼ぶための、鳴きまねというべきだろう。
右を見て、左を見て。人の気配がないことを確認したファイ。「ん、んん」と喉の調子を確認してから、
「〈フュール〉」
風の魔法で気流を操り、少しでも遠くまで声が届くように工夫する。
そうしてささやかな風が吹き始めたことを確認したのち、大きく息を吸い込んだファイは――
「きゅ、きゅー……」
消え入りそうな声で、森角兎の鳴きまねをする。
言うまでもなく、ファイの全身は羞恥で赤く染まっている。また、もともと大きな声を出すのが苦手なファイだ。鳴き声も小さく、恥ずかしさのあまり声も震えている。
それでもニナのため。恥を忍んで仲間を呼ぶ際の森角兎の鳴き声をまねる。
「きゅー、きゅー……!」
胸元で両こぶしを握り締め、ムアの遠吠えを真似て天高く鳴く。少しでも遠く、いち早く友人が来てくれるように。
「きゅぅ、きゅぅ……きゅぅーーー……っ!」
最後の力を振り絞って、全力で鳴いたファイ。もしこれでダメなら、場所を変えて同じことをするしかない。が、可能であればこんな恥ずかしいことはもうしたくない。
――届いて。
ファイの切なる願いは、
『キュゥゥゥーーー……ッ!』
遠くから返ってきた声によって、報われることになる。
言うまでもなく、ファイの友人――大きく白い毛並みをした森角兎――の返事だ。
そして、森角兎は非常に耳が良い。恐らく今のファイの鳴き声で、位置を特定してくれることだろう。
「良かっ、た……。ふぅ……」
小さく息を吐いて、風の魔法も解除するファイ。ニナに目と耳を開けてもらおうと振り返る。と、
「ニナ!?」
そこには膝に手をついてうずくまり、鼻から大量の血を流すニナの姿があった。
「あっ、エナ欠乏症!?」
思い当たる節を口にしながら駆け寄ろうとしたファイを、しかし、ニナは目線と手だけでけん制する。
「だ、大丈夫ですわ、ファイさん。少し……そう、少しだけ、瀕死の攻撃を受けただけですわ……」
大丈夫、と言う割には、どう見てもニナは満身創痍だ。肩で息をしており、息も絶え絶えといった様子に見える。それに、ファイとしては聞き逃せない言葉ある。
「瀕死の攻撃……!?」
この短時間でニナを追い込む攻撃ができる存在など、居るのだろうか。
それに、そんな存在が居たとして、なぜファイではなくニナを襲ったのか。すぐに周囲を見回すファイだが、敵の姿は見当たらない。
なら、やはりエナ欠乏症ではないか。そう思うが、冷静に考えるとニナはエナが無いウルンでもしばらく行動できるくらいには特殊な身体をしている。エナリア内であれば、行動制限なく自由に動けるはずだ。
(でも、じゃあなんで……?)
どうしてニナは鼻血を流して瀕死なのか。「ふぅ、危うく死んでしまうところでしたわ」と優雅に手拭いで鼻を拭うニナを見て、ファイはあることに気づいた。
「……あれ? なんでニナ、会話できてる、の?」
「(ぎくぅっ!?)」
ファイが言った瞬間、ニナが身体を硬直させたのが分かった。まるで、いたずらがバレた子供のように。
思えばファイが振り返った時、もうすでにニナは膝をついて満身創痍だった。だが、その際、彼女の腕は膝に添えられていた。
また、「大丈夫ですわ」と言ったあの時。ニナはファイを手で制していた。耳をふさいでいるはずの手で、だ。
なぜニナが鼻血を流しているのか、ファイにはまだ分からない。分からない、が、ゆっくり、じんわりと。ファイの中で嫌な予感が広がっていく。
「……ニナ。もしかして――」
「お、落ち着いてくださいませぇ、ファイさん!」
怒りと焦り、そして羞恥。様々な感情を乗せてニナを糾弾しようとしたファイを、ニナが全力で制する。
「わ、わたくしを攻撃した“敵”を探すのが先決では――」
「じゃあニナ。どこを攻撃されたの?」
「も、もちろん顔ですわ! この血を見てくださいませ!」
確かに、ニナは鼻血を流している。が、よく見てみれば顔にはあざヤコブなどが見当たらない。それらの事実を目線だけで示したファイは、断言する。
「攻撃されてない、よね」
「はぅっ!? い、いつになくファイさんの口調が強気ですわぁ……。ま、間違えましたわ。そう、おなかで――」
「服も汚れてない、よね」
「(ぎくぎくぅっ!?)」
エナリア主として振る舞っている時ならともかく、普段のニナは喜怒哀楽が非常に分かりやすい。そして皮肉にもファイは先の“休み”に関するリーゼとのやり取りで、ニナが平気で嘘をつくことを知ってしまっている。
そう。もはやファイの予想――ニナに森角兎の鳴きまねを見聞きされてしまったこと――が当たっていることは確定的だろう。
「……ニナ? 私は道具。怒る、も、焦る、も、恥ずかしいもない。だから正直に……ね?」
そう言うファイの表情は、いつになく優しいものだ。
そして、ファイの許しの感情に感化されたのだろうか。「ファイさん……!」と嬉しそうに名前を呼んだニナが、ついに白状する。
「ファイさんによるキューピョンの鳴きまね……。とぉ~~~っても可愛らしかったですわ! わたくし、興奮のあまりつい鼻血を――」
「ニナの、嘘つき! ばかぁっ! あ、あとは、えっと……。……どろぼうねこー!」
「も、申し訳ございませんわぁぁぁ~~~!」
顔を真っ赤にするファイの声と、泥に汚れるのもいとわずに土下座を敢行したニナの声がのどかな湖畔に響いたのだった。




