第271話 限界を超える、よ?
※このお話では「小水」に関する表現があります。苦手な方はご注意ください。
探索者が増えたことは嬉しい反面、撮影機の設置作業においては少し厄介なことになっていた。
と言うのも、ファイ達が撮影機を設置しようとしている場所は、探索者たちがほぼ必ず来る場所・通る道だ。当然、ファイ達が設置しようとしている場所には必ず探索者たちが居る。
さらに湖などの見晴らしのいい場所で作業をしようものなら、ほぼ間違いなく人目についてしまう。が、エナリアの裏事情を探索者に知られるわけにはいかない。
そのため、作業を進めるためにファイ達に残された選択肢は主に2つ。可能な限り人目を忍んで作業をするか、もしくは――。
“不死のエナリア”第7層の大樹林の階層。階層主の間に程近い、大きな湖にて。ファイが背の高い樹の太い枝に腰掛けていると、ドンッと。小さな振動と共に、衝撃音が聞こえてくる。
当然、探索者であれば誰もが警戒する森の異変だ。獣人族を中心に、湖に居る探索者全員が衝撃のあった方を見て、異変の正体を探る。そうして人々の視線が逸れた瞬間に、
(――いま!)
ファイは素早く背嚢から擬態用ピュレと撮影機を取り出し、太い木の幹に張り付ける。
そうしている間にも二度、三度と森で発生する衝撃。高く舞い上がった土が、ときおり木々の合間から顔を出す。その光景を背後に、ファイはピュレが樹と同化して固まったことを確認した。
続いてファイがリーゼと連絡を取って画角を調整し始めるころ。湖畔に居た探索者たち数名――恐らく斥候――が、湖近くで起きている異変の正体を探ろうと森に入っていく姿がある。
『ファイ様。1ウロンほど下、1.5ウロン左です』
「2㎝下、3㎝左、了解」
『……すみません、もうほんの少しだけ上に向けていただいて……はい、大丈夫です』
「ん。ピュレ、通信終わり」
ここに来るまでに30台近い撮影機を設置しているファイとリーゼだ。作業も手慣れたもので、撮影機と投影機の間にある時差を入れても1分ほどで設置作業が終了した。
そうして擬態用ピュレと撮影機、それぞれが入った背嚢のフタを締めて前後に抱えたファイ。太い幹の上で立ち上がると、適当な空に向けて、
「〈ヴァン〉」
合図となる爆発の魔法を使用する。
探索者からすれば、またしても発生した異変だ。当然、爆発があった上空を見つめ、足を止める。その隙にファイは素早く樹から飛び降り、まるで何事もなかったかのように木陰で休む探索者を演じる。
それから、3分ほどが経過した頃。
「さ、さすがに疲れましたわぁ~……」
艶やかな茶色い髪と頬を少し泥で汚したニナが、ファイの前に姿を見せたのだった。
言うまでもなく、先ほどまで森で発生していた異変の正体こそニナだ。彼女がファイの設置作業を見られないようにするため、軽く森の地面を踏み鳴らして注意を引いてくれたのだ。
「お疲れさま、ニナ。……〈ユリュ〉」
ファイが湯呑に水を張って渡すと、ニナも「ありがとうございますわ~……」と受け取って一気に飲み干す。
「ぷはっ! 生き返りますわ~……!」
「……? ニナは死んでた、の? 幽霊だった?」
「まぁっ! ふふっ、ファイさんが相変わらず可愛らしい反応を返してくださって、わたくし、心まで生き返ってしまいますわぁ~っ!」
主人が何を言っているのかてんで分からないファイ。ただ、とりあえずニナは回復してくれたらしい。
役に立てたことにほっと息を吐いて湯呑を背嚢にしまう。そんなファイを、不意にニナが髪を揺らしながら覗き込んできた。
「ファイさん、ファイさん。ファイさんは大丈夫なのですか?」
「えっ?」
「『えっ?』ではございませんわ。お仕事中、あまりお水を飲まれていないような気がいたしますが……」
「(ぎくっ)」
ニナに言われて、わずかに身を硬直させるファイ。その理由は、少し前から限界を訴え始めている膀胱にある。
現在、ファイは2日近くお手洗いに行けていない。
彼女は表情を見せたり睡眠をしたり、人としての行為を見られることを極端に嫌う。排泄もそうで、基本的には誰にも言わず、誰も見ていない機を狙って用を済ませている。
だが、ここ数日、ファイは主人であるニナと常に一緒に居る。
自分を道具だと言い張る以上、人としての振る舞いは避けなければならない。特に、主人の前では。
結果、入れるべきものは入れて出すものは出していない状態にある。ファイは薄々、感づいていた。もしもこれ以上水分を口に含めば、いよいよ持って自身の膀胱が限界を超えることを。
「あ、うん。大丈夫。だいじょうぶ……だよ?」
言いながら背嚢のフタを閉めようとするファイだが「あっ、わたくし分かりましたわ!」というニナの声でまたしても身体を硬直させることになる。
「な、なにが分かった、の……?」
ひょっとしてお手洗いを我慢しているのがバレたのか。恐る恐るニナを見上げるファイを、ニナが得意げな顔で見下ろしている。が、不意に優しい顔になったかと思うと、
「ファイさん。申し訳ございません、わたくし気づきませんでしたわ。そうですわよね、ファイさんにはこういって差し上げないといけないのでしたわ」
そう言って、ファイに微笑みかけてくれる。
(ニナ、やっぱり気づいてた……っ)
もはやファイのことなどニナは全てお見通しらしい。きっと彼女は「お花を摘んできてくださいませ」という、お手洗いの隠語を言ってくるに違いない。
人としての弱みを観られた気分で、ファイとしては恥ずかしいことこの上ない。
(……けど)
ようやくこの苦しみ――尿意から解放されるという安心感もある。
(いいよ、ニナ。早く命令、して?)
諦めの境地でファイがその時を待っている中、遂にニナがファイの待ち望んだ答えを――
「ファイさん。心ゆくまで、たぁっくさん、お水を飲んでくださいませ!」
――言ってくれることは無かった。
この時の絶望を表情に出さなかったことを、ファイは自分で褒めたいと思う。実際には、あまりにも絶望的な命令が過ぎて反応に困った、というべきなのだが、ともかく。
「う、ううん、さっきも言ったけど、ニナ。私は大丈夫――」
「いえいえっ、ご謙遜なさらないでくださいませ! そうですわよね、紅茶の時も、お食事の時も。きちんとわたくしが申し上げなければ、ファイさんは召し上がってくれませんでしたものね……」
分かっていると言いたげな顔で、うんうん頷いているニナ。
ファイも分かっている。これがニナの善意による言葉なのだ、と。また、自身の普段の行ないが招いている結果であることも。
それでも、勘違いをしたニナの命令は、今のファイにはあまりにも酷だ。
「に、ニナ! 本当に大丈夫――」
「それともファイさんは、わたくしの命令が聞けないとおっしゃるのですか?」
ニナにそう言われては、もう、ファイには抵抗する術も気力もない。むしろ少し残念そうに眉根を寄せる主人の表情には、奮い立ってさえいる。
「――そんなことない。ありがとう、ニナ。じゃあ少しだけお水を飲む、ね?」
結局は、ファイが我慢をすればいいのだ。主人にそんな悲しい顔をさせるくらいなら、ファイは自身の限界さえも超えられる自身がある。
それに尿意は波でもある。異様に行きたい時と、不自然なくらいに凪いだ時。幸いにもいまは“凪”の状態だ。少しくらいならお腹に入れても大丈夫に違いない。
「ゆ、〈ユリュ〉……」
そんな覚悟とは裏腹に、ファイが魔法で湯呑に張った水はごく少量だ。
(うん、無理。これ以上は絶対に、ダメ)
自身の道具として、いや、もはや人としての矜持を保つための分水嶺が、湯呑の底から3㎝。これ以上を飲むと、恐らく粗相をしてしまう。
「いただきます……んくっ、んく……ふぅ」
きちんと水を飲んだよ、と。ニナに見せつけるようにして湯呑を傾けたファイ。今すぐにこの水が膀胱にたまるわけでは無いが、近いうちに限界がくるに違いないことはファイも分かる。
次の設置作業の際、ニナが居なくなる隙を見計らって用を足そう。そんなファイの願いは、
「では、もう1杯!」
笑顔で次の1杯を行けと言ってくるニナによって、あっけなく打ち砕かれる。
「に、ニナ……? もういい、よ?」
「そんなわけありませんわ! 先ほどファイさんがお飲みになった量は、こ~んなものではないですか!」
人差し指と親指でファイが飲んだ水の量を示しつつ、「全然足りていないだろう?」と言ってくる。
「お水はエナ……ファイさんの場合は魔素と同じくらい、大切なものですわ。きちんと摂取してくださいませ。これは命令ですわ」
「あぅ……」
命令という言葉で動かないファイではない。
覚悟を決めて再び湯呑に水を張るファイ。今度は湯呑いっぱいに水を張る。
「ニナ。ほら、水、たくさん。今から飲むから、ちゃんと見てて」
「ほ、本当にいっぱいですわ……。それにしてもファイさん、どうしてそんなに必死に――」
「いただきます!」
ニナが見てくれているというだけで、ファイは頑張ることができる。限界だって超えられるのだ。
「ごく、ごくっ……! ぷぁっ!」
「お~! すごくいい飲みっぷりでしたわ、ファイさん!」
手を叩いて嬉しそうに笑う主人の顔を見れば、ファイも頑張った甲斐があるというもので――
「……!?」
その瞬間に押し寄せる、波。ただでさえ限界寸前だった高波は、もはや防波堤を軽々と越えようとしている。それでもこれまでは道具としての矜持という土嚢を積み上げて波を押しとどめていたファイ。
しかし。
(あっ、これ、ダメなやつ)
もはや自分が限界であることを悟る。同時に高速回転するファイの思考。彼女が解決策を導くまでにかけた時間は、1秒にも満たない。
「……ニナ。ちょっと水浴びしてくる、ね」
「え、どうされたのですか、突然……って、ファイさん!?」
ニナに構わず、背後にあった湖に飛び込んだファイ。岸辺だったこともあって、水深は浅い。ちょうど、ファイが水底に立って腰くらいの高さだ。
ぷはっ、と息を漏らしてファイが水辺に立ち尽くした直後、
「(ぶるり……)」
静かに、防波堤が決壊した。
「…………」
白い髪から水を滴らせてエナリアの天井を見上げるファイ。奇しくも、この時のファイの表情こそ完全なる“無”表情だ。
「ふふっ、ファイさんったら。ムアさんの時もそうでしたが、水浴びが大好きなのですわね! とてもスッキリなさった顔をしておられる気がしますわ~」
結局、最後まで勘違いをし続けていたニナ。だが、この時ばかりはニナの勘違いに心から安堵したファイだった。
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